Into the gray zone

Adrian Owenといふ人が書いた"Into the gray zone" といふ本を読んだ。この本に辿り着いたのは、渡辺正峰氏の『脳の意識 機械の意識』にあつた田嶋達裕(たじまさとひろ)氏についての記述からだ。田嶋氏は前途を嘱望されてゐた若手研究者だが、最近、事故で亡くなつたといふ。検索してみると、ツイッターに本人のアカウント@satohirotajimaが残されてをり、その最後の書込みと思しきもので、この本が紹介されてゐた。

This book is about practice of consciousness study but would also be a best start point for theorists: intothegrayzone.com

植物状態と判断された人の意識をfMRIなどの最新技術を使つて探るといふ研究について書かれた本で、研究者自身の半生を絡めた記述は、正に「巻を措く能はず」、一気に読ませる。植物状態とされた人達の中にも2割近くの割合で意識を保つてゐる人がゐるといふのが、Owen氏が研究で明らかにしたところなのだが、興味深いのは、どういふ方法でそれを確かめるかといふ工夫だ。
 
植物状態とは、昏睡とは違つて、眠り続けてゐるのではなく、目を開けてゐる時もあるが、眼差しは虚ろで問ひかけにも応じないといふ状態だ。植物状態でも抓(つね)るなどの刺激を与へると顔を顰(しか)めたりする事はあるが、それは反射的な動きかも知れず、意識があるとは限らない。従来の方法では患者とやり取りができないので、fMRIなどを使つて脳の動きを見ながら、意識がある事をどうやつて示すか、さらには患者とどうやつて意思疎通を図るか、著者はあれこれと考へることとなる。
 
著者のOwen氏は、理科系の研究者の通例として、意識は脳の産物だと考へてゐる。自然科学的な脳と意識についての研究を見ながらしばしば感じるのは、意識とか心についての検討が不十分だといふことだ。元々、脳の働きにより生まれる付随的な現象と考へてゐるからなのか、意識の本質的な部分は何かを明確にしないまま、脳のこの部分を抑制するとこの知覚が消えるとか、この部分を刺激するとこの記憶が呼び起こされるとか、断片的な研究を重ねてゐるやうに見える。
 
ベルクソンは『物質と記憶』の序文(第7版)で、かうした見方がある種の誤つた哲学的前提に立つてゐることを指摘してゐる。 

思考を脳の単純な機能とし、意識状態を脳の状態の付随現象と考へる場合でも、思考の状態と脳の状態を一つの原文の二つの異なる言語による翻訳と考へる場合でも、動いてゐる脳の中に入り込んで脳の皮質を構成する原子の相互作用に立ち会ふことができ、合はせて生理心理学の鍵を持つてゐれば、対応する意識の中で起こる全ての詳細を知ることができるといふことが、原理として置かれてゐる。

実のところ、哲学者も科学者と同様に、これを受け入れてゐるのが普通である。しかし、先入観なく事実を調べると本当にこの種の仮説が示唆されるのかを問ひ直す余地があるだらう。意識の状態と脳の間に緊密な関係があることは議論の余地がない。しかし、フックとこれに掛けられた上着との間にも密接な関係がある。フックを抜けば上着は落ちるのだから。さうだからと言つて、フックの形が上着の形を描き出すとか、そこから上着の形について何らかの予想ができると言へるだらうか。同様に、心理的な事実が脳の状態に掛かつてゐることから、心理的な流れと生理的な流れとの「並行性」といふ結論を出すことはできない。哲学が科学の成果に依拠してこの並行説を主張する際には、全くの循環論法に陥つてゐる。科学が、密接な関係といふ事実を、並行説といふ一つの仮説(意味が分かり難い仮説だが)の方向に解釈するのは、意識的にせよ無意識的にせよ、哲学的な理由からなのだから。

ベルクソン自身は、『物質と記憶』で、物質としての身体と精神の両方の存在を認めるといふ二元論の立場から出発して、両者の関係を明らかにしようとした。その際にベルクソンが取り上げたのは記憶といふ現象で、その理由として失語症などの研究事例が多いこと、解剖学、生理学、心理学の連携が進んでゐる分野であることを挙げてゐるが、先入観なく精神と身体との関係を考へると、記憶の問題が中心になつて来るとも言つてゐる。記憶を論じたのは、精神活動の中で一番物質的なものに近いと考へられてゐたこともあらうが、空間と時間との本質的な差異といふ自身の基本的な主張に基づいた選択でもあつただらう。
 
知覚とか判断とかいふ精神活動は、時間といふ要素抜きでは考へられない。発達した動物の特徴が予測に基づく行動にあるとすれば、時間といふ要素はその基本的な部分を成してゐる。「ない」といふ言葉も、記憶や期待といふ時間的要素が前提となつてゐる。あつたはずだ、あるはずだといふ思ひがあるから、「ない」といふ言葉が生まれる。否定といふのは理性の基本的な働きだが、時間を抜きにして語ることはできないのだ。脳の中に記憶がある、精神がある、といふ考へ方が不十分だと思はれるのは、かうした考へ方が空間の中にある脳を想定してをり、時間的な要素が抜け落ちてゐるからだ
 
いや、脳の働きにはシナプス発火のパターンなどの時間的な変化も当然含まれる、と科学者は言ふだらう。しかし、一瞬、一瞬の脳には一つの状態しかない。その一状態において、過去の記憶と現在の知覚がどう区別されるのかを説明するのは困難ではないか。これは唯物的な考へ方が抱える問題の一例に過ぎない。現在の中に身を置きながらも、記憶の力で「今、ここ」を離れることができることが、精神の基本的な働きなのだ。否定する、言葉の意味を考へる、等々の精神特有の働きもそこから出てくる
 
Owen氏は、意識は脳の産物だと考へてはゐるが、自らの経験から、脳と意識との関係が症例により大きく異なり、単純ではないことも理解してゐる。単純な並行説を前提にするのではなく、脳を含む身体と精神とがどのやうな関係にあるのかを、事実として積み上げることが、科学の発展にもつながると思ふ。