論壇 ゲンロンβを読んで

1976(昭和51)年に、小林秀雄が「新潮社八十年に寄せて」といふ新聞広告用の文章を書いてゐる。全体で400字程度の短い文章だが、二段落からなるその最初の段落には、次のやうに書かれてゐる。

 

若い頃からの、長い賣文生活を顧みて、はつきり言へる事だが、私はプロとしての文士の苦樂の外へ出ようとした事はない。生計を離れて文學的理想など、一つぺんも抱いた事はない。書いて來たのは批評文だから、その形式上、高踏の風を裝つた事はあつたが、私の仕事の實質は、手狹で、鋭敏な文壇の動きに接觸し、少數でもいゝ、確かな讀者が、どうしたら得られるかといふ努力の連續であつた。從つて、私には、文壇とか純文學とかいふ言葉を、世人に同じて輕んずる事が出來ないのである。

 

 

まだ学生だつた頃にこの文章を読んで、何だか失望したのを覚えてゐる。小林秀雄を読んではゐたが、文学には余り関心がなかつたし、文壇といふのは偏屈なぢいさんの集まりのやうに思つてゐた。

 

その頃には分からなかつたが、小林秀雄が言ひたかつたのは、知的創造には文壇のやうな同業者の共同体が不可欠だといふことで、さうした基盤が失はれつつあるのを嘆いてゐたのだらう。

 

小林秀雄自身がしばしばさうしたと言はれるやうに、酒を飲んで相手をこきおろすやうなやり方が文壇や論壇の理想だとは言へないだらう。この種の旧態依然とした師弟関係が、粘着的な関係を嫌ふ若い人達が離れていく理由の一つだと思はれる。他方で、新しい文学や思想を生み出すのが人間である以上、競争心、師弟関係などの極めて人間的な部分が関与して来ることは避けられない。創造の源にあるのがパッションだとすれば、それは理屈の世界を離れてゐるものなのだから。小林秀雄も、見込みの無い者には飲んで絡んだりしなかつた。

 

この文章を思ひ出したのは、『ゲンロンβ』30号の「日本思想の150年へ」といふ記事を読んだからだ。東浩紀氏がゲンロンで実現しようとしてゐるのは、論壇といふ知的活動の場の構築だといふことに改めて気づかされたのだ。さうした場を形作るには、共通の足場が必要となる。論壇でも、文壇でも、古典と呼ぶべき文化遺産は、その欠かせない要素だ。「日本思想の150年へ」は、雑誌「ゲンロン」に載つた批評作品の年表と同様に、私たちにとつての古典とは何かを定義する試みであるに違ひない。

 

何が正しいかを決めるのは、共同作業だ。それには共同体が要る。SNSはさうした共同体の基盤になると期待されたが、"fake news"をバラ撒き、社会を分断するといふ逆向きの働きをした。テレビの「討論」番組も、短い時間に見かけの勝ち負けだけを争ふのが得意な人達をのさばらせて、知的水準の低下を加速させた。売り上げを確保しながら、知的共同作業の場を築くのが容易でないのは、新聞や雑誌の現状を見れば分かる。

 

論理の力で世の中のあるべき姿を示さうとする論壇の場合には、文壇以上に、理性的な対応が期待される。とは言へ、何かを実現しようとする強い思ひがなければ、新しい物は生まれない。資金の計算と、人間関係と、そして勿論、議論の質について配慮しながら、共同体を運営するといふのは、並大抵のことではないだらう。東氏の試みの今後に注目したい。