ゲンロンβ33を読む

読み応へ十分のゲンロンβ33
ゲンロンβ33は、大変充実した内容になつてゐる。冒頭の3つの記事だけで、おつりが来る感じ。東浩紀氏の「テーマパークと慰霊」を読むと、大連といふ街を訪れて見たくなり、テーマパークの怪しさ、地に足の着かない感じと本物の世界、例へば里山のある村の落ち着いた美しさとの差はどこから出てくるのだらうか、と新しい疑問も湧いて来る。星野博美氏の「世界は五反田から始まった」といふ連載の第1回も力作で、続きが楽しみ。

「正義は剰余から生まれる--いま哲学の場所はどこにあるのか」
だが、今回は國分功一郎氏と東浩紀氏の対談「正義は剰余から生まれる--いま哲学の場所はどこにあるのか」について、感想を書いてみる。誤解の塊のやうな感想になり、「誤配」も極まれり、といつたものになるおそれが大だが。
この対談では政治に対して哲学はどのやうな働きかけができるのか、といふのが主な話題となつてゐる。「何も信じていない、だから何でも信じる」といふハンナ・アレントのワイマール大衆社会の分析を紹介しながら、今日の日本に欠けてゐるのは信じることだ、といふ問題提起がなされたり、議論の発展のためには主張の背後にある物語を衝突させる場が必要だ、との意見が出されたり、非常に興味深い。
ただ、エビダンスや合理性だけの議論の中で失はれた非合理性を回復すべきだ、といふ部分には、少し違和感を覚えた。正義が単なる合法性に留まるものではないことには賛成だが、合理性の範囲の中でも、まだまだ出来ること、やるべきことがあるのではないか、といふ気がする。

理性の働きと政治の現状
合理性といふのは、理性に従ふ、といふことだらう。理性は、人間が生きて行くために、物理的、生物的、社会的な制約を知り、それを踏まへた対応を考へる働きだ。人間には変へることができない自然の法則がある。さうした法則を見いだして、生きるためにうまく利用すること、それが理性の役割だ。科学技術の発展が示すやうに、理性は人間の可能性を広げるのだが、その前提として、理性は人間の生に課された制約を示すものでもある。
政治の仕事は、理性が示す様々な制約を前提として、衣食住などの民の要求をどのやうにして満たすのか、その枠組みを示し、必要に応じて自ら介入して、自由、平等、博愛といつた理念の実現を目指すことだらう。様々で、時に対立する人々の利害を、上記のやうな理念に基づいて調整することだらう。今の政治は、この基本的な役割を果たしてゐない。
人々が「なんでも可能だと思っているが、なにも真理ではないと思っている」のだとすれば、自分達が直面してゐる制約を理解せず、政治家や官僚が真面目にやれば何とかなるのだと信じてゐるからだらう。真理とはどのやうなものか、それを得るためにはどんな努力を払ふ必要があるかを考へたことがないからだらう。何故、このやうな事態に至つたのか。

非合理的な政治の原因
政治家、国民、報道機関などの関係者が、本来の義務を果たしてゐないからだ。
政治家は、政権の維持だけを目標にして、少子・高齢化、地球環境問題、経済のグローバル化と分裂する政治体制の矛盾、等々、この国が直面する問題について、国民に説明しようとはしない。様々な問題が絡んでをり、優先付けが必要であること、逆に言へば犠牲にしなければならないものがあることは避けて、自らの政策に都合の良い問題だけを取り上げる。教育が無料になるなどの効果だけを強調して、その費用を誰が負担するのかは述べない。ナチスに学べと発言して物議を醸した政治家がゐたが、今の政府のプロパガンダを見てゐると、本気でナチスのやり方に習つてゐるのではないか、と疑ひたくなる程だ。
国民は、自分の生活を守ることに忙しく、断片的な「情報」を元に右往左往し、将来の問題などを考へるゆとりはない。年老いた自分など想像したくもないし、今の収入では貯金も覚束ない。世界に紛争や貧困があつても、自分には関係ないし、自分に何ができる訳でもない、さう諦めてゐる。
報道機関は、さうした国民を指導するといふ気概を失つて、政権の機嫌取りをしたり、口当たりの良いニュースを流したりするだけだ。インターネットの時代に自分たちの仕事はどうなるのかといふ不安を感じながら、紙面や尺を埋めるのに汲々としてゐる。学者は、査読付き論文の数を稼いだり、外部研究費を確保するのに忙しい。

理性的な戦略は可能か
このやうな時代だからこそ、必要なのは合理的な議論ではないだらうか。理性の力で私達に課せられた制約を明確にし、その上で優先順位を考へることが不可欠ではないだらうか。そんな仕事は誰の手にも余る、といふご意見もあるだらう。だが、もし国家の戦略といふものが本当にあるとすれば、それはかうした仕事を前提としたものであるはずだ。
政府がそれをまともに作れないのだとすれば、民間から提起しても良いだらう。以前に比べて情報公開により入手可能な情報は格段に増えてゐるので、人さへゐれば、不可能ではない。それが将来の建設的な議論の種となるか、荒野に寂しく一人咆哮する態に終はるのか、それは分からないが、「あきめたらそこで試合終了」だ。
ともかく、東浩紀氏のゲンロンは、象牙の塔に閉ぢ籠もつた哲学ではなく、現実に働きかける哲学を目指す仕事として、大変価値のあるものだと思ふ。