津野海太郎氏の連載コラム

新潮社のWebマガジン「考える人」に、津野海太郎氏の「最後の読書」といふ連載コラムがある。10月18日の記事は「高級な読者と低級な読者」と題されて、日本の読書史概観とでも言ふべき内容だつた。

「だれにとつても本を読むのはいいことなのだ」、「ただし本には高級な本と低級な本がある」といふ読書に関する二つの常識は、20世紀になつて生まれた新しいものだつた、といふお話。

確かに、明治の終はり頃までは、「本なんか読んでゐないで働け」という方が世間の常識だつたのだらう。高級と低級を分けるといふのも、「もとが旧制高校旧帝国大学のエリート学生たちがはじめた読書法なので」、全ての人に当てはまるものではないのは分かる。

津野氏の見立てでは、

その後、70年代が80年代に変わるころから、大学生を読者の中核とする「高級な本」がめだって売れなくなる

が、これからの時代は

読書の世界に、重くても軽くても、かたくてもやわらくても、ぜひ読んでおきたい本があるし、読まなくてもいいと思う本もある、それは社会の強制によってではなくじぶんで決める、という新しい常識にむかう流れがゆっくりと生まれてくる。

といふことらしい。

これは、読書人である津野氏の本の将来に対する希望的観測に過ぎないのではないか、といふ気がしないでもない。確かに本がこの世から消え去ることはないだらうが、ネットやゲームの普及で若い人達の時間の使ひ方が大きく変はりつつある現在、出版といふ仕事は益々難しくなつて来ることは間違ひないのだから。

もう一つの心配は、読む本を自分で決めるのは良いとして、これからの若者はどうやつて本を選ぶのだらうか、といふことだ。何しろ、減つたとは言へ、総務省統計局が引用してゐる「出版年鑑」の数字によれば、2017年で7万5千冊以上の新刊本が世に出てゐるのだ。小林秀雄は濫読しかないと言つたけれど、これだけ本が溢れると濫読で良書に辿りつけるとは思へない。

結局は、ネットで検索したり知人の推薦する本を読んでみたりするしかないのかも知れないが、さうした情報もあまり当てにはならない。有識者が選定した基本書リストのやうなものがあれば、効率的な「濫読」ができるのではないかと思ふ。読んでみて詰まらなければ放り出せば良いのだし。

個人個人に任せてゐるのでは、本を読む人々が急速に減少するのではないか、と心配だ。そして段々と出版が事業として成り立たなくなり、良い本が消えて行く。

世の中には、下々は「本なんか読んでゐないで働け」と思つてゐる人達もゐるかも知れない。さういふ人達をのさばらせないためにも読書は必要なのだが。