時代劇

NHK大河ドラマ麒麟がくる」に帰蝶役で出演してゐる川口春奈さんは、よく知られてゐる経緯で急遽代役になつたのだが、好評のやうだ。同じNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」で岐阜県を訪れるのを見た。ご本人は言ふまでもなく大変チャーミングな女性なのだが、帰蝶の方が更に魅力的な気がした。これは、役者の方には誉め言葉だと思つて書いてゐる。

アラン(1868-1951)の『芸術の体系』の一節を思ひ出す。長谷川宏さんの翻訳で引用する。

 多くの人が、自分はありのままに判断してはもらえないと思っている。そんな思いにかられるのは、動物的本性の示すしるしやごまかしが、自他のあいだに入りこむからだ。考えていることを言いたいと思ったら、思いうかぶすべてを口にしてはいけない。同様に、自分がそのままおもてに出ることを望むなら、すべてをおもてに出すのではなく、習慣と均衡とをともども考慮して外見を作り直さねばならない。そうして初めて、猿ではなく人間がおもてに出てくるのだ。

 さて、女性の自然な姿は、男性のすがたよりも弱く、落ち着きがなく、不安定なものだから、違和感が大きいはずだ。だから、まわりがその人らしさをつかむには、装飾が欠かせない。装飾が少なく、安定性に欠け、着衣の部分が少なくなると、まわりの違和感がそれだけ増すし、当人も同じ違和感を感じる。

(光文社古典新約文庫「芸術の体系」100頁)

 アランはここで「ありのままの自分」とは何だ、と問ひかけてゐるのだとも言へる。「自分がそのまま表に出る」ことを望むのに、「すべてをおもてに出す」のではダメだ、と言つてゐるのだから。

上に引いた部分の後段は、原文ではかう書かれてゐる。

Et l'image naturelle de la femme lui est peut-être plus étrangère encore, parce qu'elle est moins forte, moins assise, moins soutenue. Il faut donc que cette femme soit parée, pour que vous saisissiez les vrais signes. A mesure qu'elle est moins parée, moins soutenue, moins vêtue, elle vous est plus étrangère, et à elle-même aussi.

 "étrangère"といふ言葉を長谷川さんは「違和感」と訳してをられて、これは良く考へられた訳語だと思ふのだが、直訳すれば「余所者(よそもの)」、「異邦人」といふ意味だ。「まわりがその人らしさをつかむ」とある部分は、「(相手となる)君が本当のしるし*1をつかむためには」となる。知らず知らずにするしぐさが意図しない意味を持つて相手に伝はるのを避けることが大切で、そのためには衣装や化粧が役立つ、と言つてゐるのだ。

「家族に乾杯」の川口さんは一人の若い女性だが、その年齢なりの不安定さを感じる。台本が無いぶつつけ本番が売りの番組なのだから、戸惑ふのは当然ではあるが、そこに川口さんの一番良いところが出てゐるとは言へない。寧ろ、作り物、お話であるテレビドラマの中で、それが出る。

それが時代劇だ、といふのも面白い。小林秀雄(1902-1983)に「故郷を失つた文學」といふ文章がある。1933(昭和8)年に「文藝春秋」に載つたものだ。その中に、なぜ時代劇が人気なのかについて書いてゐる。(文章中の括弧内の文字は原文ではルビ)

自分の生活を省みて、そこに何かしら具體性といふものが大變缺如してゐる事に氣づく。しつかりと足を地につけた人間、社會人の面貌を見つける事が容易ではない。一と口に言へば東京に生まれた東京人といふものを見附けるよりも、實際何處に生まれたのでもない都會人といふ抽象人の顔の方が 見附けやすい。この抽象人に就いてあれこれと思案するのは確かに一種の文學には違ひなからうが、さういふ文學には實質ある裏づけがない。(第5次全集 第二巻 370頁)

チャンバラ映畫や髷物小説に現れる風俗習慣は、西洋映畫に現れる風俗習慣と同じくらゐ既に私達から遠いものだ。併しさういふ社會的書割にしつくりあて嵌(はま)つた人間の感情や心理の動きがある。さういふ齟齬(そご)のない人間生活の動きが何んとはしれぬ強い魅力となつて現れる。この魅力が銀座風景よりも、見た事もないモロッコの砂漠の方に親しみを起させるものだ。(同 374頁)

 現代社会では変化が激しく、何が約束事なのか分からなくなつてゐる。それだけ、意味がうまく伝へられない、意味が分からないといふ状況になつてゐる。時代劇では、そこに描かれてゐるものが史実にどれだけ忠実なのかは議論があるにしても、ああいふ時代だといふ共有されたものの見方がある。それで落ち着いて見てゐることができる。

本当の自分つて何だらう。あらかじめ定義された自分といふものがある訳ではない。それは社会との係りの中で見つけ出していくもの、作り上げていくものだ。社会と切り離された自分など無い。そもそも人間は一人では文字通り生きて行けないのだから。その社会とうまく付き合ふには、一種の礼儀作法が欠かせない。かうした礼儀作法を身につける事を大人になると言ふ。社会の規範が乱れると、礼儀作法とは何かが分からなくなり、誰も大人になれなくなる。

*1:「しるし」"signe"といふ言葉はアランの文章ではよく出て来る重要単語だが、一つの日本語にはうまく当たらない。手元の辞書(Petit Robert)では、大きく二つの意味が挙げられてゐる。一部を訳してみる。

  1. (それが結びついてゐる他の物の)存在や正しさを結論させる感じ取られる物
  2. 1)誰かと意思疎通したり、何かを知らせるための意図的、習慣的な動き。2)一つの社会で自然の関係や慣習により複雑な現実の代はりになるとされる単純な物体。

前者の例文としては「涙が悲しみの徴候であるやうに、笑ひが喜びのしるしであることは、笑つたことがある人ならば誰も疑はない。」といふものが挙げられてゐる。「しるし」といふ日本語がほぼ当たる。後者の1)は日本語の「しぐさ」に対応する。2)は「しるし」でも良いだらう。