御進講録

『御進講録』といふ本がある。吉川幸次郎(1904-1980)の師である狩野直喜(1868-1947)が大正天皇昭和天皇に御進講した際の原稿を整理して1984年に出版されたものだ。「尚書堯典首節講義」「古昔支那に於ける儒学の政治に關する理想」「我國に於ける儒學の變遷」及び「儒學の政治原理」の4つの講義が収められてゐる。

今回は「我國に於ける儒學の變遷」を読み返して見たのだが、宮崎市定(1901-1995)による解説には、次のやうに書かれてゐる。

第三部「我国に於ける儒学の変遷」は、昭和四年十一月中、二回の御進講の内容である。日本は奈良時代における儒学の輸入に始まり、如何に異国の文物制度を我国に適応せしむるかに努力し、次第に目的を達成して、本来の国俗と融合せしめ、徳川時代に至りては、独自の発達を遂げて、時には中国に先行する研究方法を発明し、彼地の学者がこれを勦竊 *1して、自己の著述を飾るに至った経過を述べる。最も要領を得たる日中文化交渉史の概観と言うべきである。

 徳川時代に日本の儒学が進んだのは、鎖国が一因で、中国からの最新研究が入つて来なくなつたので、あれこれ読んで博学になるのではなく、「僅か計りの書を熟讀」して自己の考へを練つたので、独創の見も出て来た、といふ話は面白い。やはり儒学の本場は中国なので、そこの最新研究は気になる。それを追ひかけてゐては、独創は難しい。

伊藤仁斎(1627-1705)が「命」「性」「天道」「理」などの言葉について精密に研究して朱熹(1130-1200)の解釈の誤りを指摘したのは、清の考証学者戴震(1724-1777)の業績に先立つこと七十年であるとか、山井鼎(?-1728)の『七經孟子考文』は足利学校に残されてゐた古写本で明以来の版本の文字の誤りを正したものだが、この本は乾隆帝が編纂させた『四庫全書』の経部に外国人の著述として唯一収められてゐるとか、興味深い。なほ、「勦竊」の話が出て来るのは伊藤仁斎ではなく荻生徂徠(物茂卿)のところである。

最後の方には、尊王攘夷思想と宋学との関係についても述べられてゐる。

なほ題名は「我國に於ける儒學の變遷」となつてゐるが、本文では「皇國」といふ言葉が使はれてをり、皇に「オ」といふカナが振つてある。

かういふ歴史を学んでも、やはり日本は東の果ての国だといふ想ひを強くする。それは必ずしも悪いことではない。世界的な文化の中心地は、争ひの地でもあつた。様々な混乱で失はれた文物が島国に残されてゐるといふこともあるのは、上記の『七經孟子考文』でも分かるとほりだ。辺境の国には辺境なりの生き方があるし、そもそも、世界の国の大半は中心国ではないのだ。

*1:狩野直喜の原稿にある言葉。読み方不明。手元の小さな漢和辞典にはこの言葉は無く、ネットで検索しても日本語のサイトは見当たらず。剽窃と同じ意味らしい。