カール・シュミット『政治的なるものの概念』

今朝の朝日新聞大澤真幸氏による連載コラム「古典百名山」にカール・シュミット(1888-1985)の『政治的なるものの概念』が取り上げられてゐた。シュミットはここで敵と友の区別が政治の本質であることを主張してゐる。

政治的なものとは何かを定義するために、シュミットは政治に固有のカテゴリーを探すことから始める。そして、倫理では善・悪、美学では醜・悪、経済では得・損といふ区別が基本的なものであることに対応して、政治的なものは友・敵といふ区別によつて特徴づけられると主張する。

以前に、かうした考へ方は複雑な世の中を単純化するもので、意図は真面目なものだとしても、弊害が大きいといふ意見を述べた。ところが、上記のコラムには、次のやうに書かれてゐた。

 まったく逆に、この政治概念は、近代性ということをまじめに純粋に受け取ったときにこそ導かれるアイデアである。近代性とは、誰もが受け入れる(内容豊かな)普遍的な価値や善は存在しない、ということだ。全員に自明なものと見なされる善の観念や宗教的な規範はない。だから普遍的な善や正義が存在しているかのように仮定し、それらによって政治行動や戦争を正当化することは許されない。
 では近代の条件のもとで、政治はどうするべきなのか。暴力的とも見える仕方で秩序を押し付けるほかない。それこそが、友と敵の区別だ。「この命令を受け入れる者が友である」とする決然たる意志が必要になる。

確かに、平和な政治が成り立つためには、ある種の価値観が共有されてゐることが必要だ。それが無い場合には、力に頼るしかない。今、中国政府が香港で目指してゐるのは、まさにかうした暴力による秩序の確立だらう。逆に言へば、中国と香港には共有の価値観は存在しないことを中国政府が自ら示してゐるのだ。

シュミットは、政治的な敵は、倫理的な悪や美学的な醜であること、あるいは経済的な競争相手であることを必ずしも意味しない、と述べてゐる。経済的には敵と組むのが有利なこともある。しかし、敵は敵だ。自らの在り方と異質なものは、必要に応じて力を使つてでも排除するしかない。

大澤氏は、次のやうに解説してゐる。

シュミットが反対したのは、中立的な枠組みを与えておけば話し合いで秩序が生まれるとか、利害の調整だけで秩序が得られる、といった発想だ。内実をもった普遍的価値が前提にできないとき、こうした方法では現実的な秩序は導出できない。

米国のBlack Lives Matterの運動は、シュミットの主張の正しさを示してゐる、と言へるかも知れない。しかし、政治を力の問題に限定することは、政治を貧しいものにするのではないだらうか。むしろ、普遍的価値を共有させることこそ、政治の役割ではないのか。

シュミットは、純粋に宗教上の、あるいは倫理上、法律上、経済上の理由で戦争をするのは馬鹿げてゐると言ふ。宗教上などの対立が強まれば、命のやりとりが係る政治的対立に発展するが、政治の立場からすれば、対立の理由は何であれ、友・敵といふカテゴリーが当てはまるかどうかが問題なのだ。

シュミットの理論は、現代の状況を見るための有力な視点を提供するものかも知れない。しかし、かうした理論が注目されるのは、異なる立場を踏まへた利害の調整による平和の維持といふ、本当の政治が今の時代に欠けてゐることを示してゐるやうに思はれる。

日本語訳の『政治の本質』には、シュミットの論文の他に、マックス・ウェーバー(1864-1920)の「職業としての政治」も収められてゐる。

英訳”The Concept of the Political"には、シュミットの1929年の論文"The Age of Neutralizations and Depoliticizations”と解説が入つてゐる。