中江兆民(1847-1901)が、『一年有半』の中で「日本に哲学なし」と言つたことは良く知られてゐる。兆民の念頭にあつた哲学とは、どのやうなものなのだらうか。
わが日本古より今に至るまで哲学なし。本居篤胤の徒は古陵を探り、古辞を修むる一種の考古家に過ぎず、天地性命の理に至ては瞢焉(ぼうえん)たり。仁斎徂徠 の徒、経説につき新意を出せしことあるも、要、経学者たるのみ。ただ仏教僧中創意を発して、開山作仏の功を遂げたるものなきにあらざるも、これ終に宗教家範囲の事にて、純然たる哲学にあらず。近日は加藤某、井上某、自ら標榜して哲学者と為し、世人もまたあるいはこれを許すといへども、その実は己が学習せし所の泰西某々の論説をそのまま輸入し、いはゆる崑崙に箇の棗を呑めるもの、哲学者と称するに足らず。それ哲学の効いまだ必ずしも人耳目に較著なるものにあらず、即ち貿易の順逆、金融の緩慢、工商業の振不振等、哲学において何の関係なきに似たるも、そもそも国に哲学なき、あたかも床の間に懸物なきが如く、その国の品位を劣にするは免るべからず。カントやデカルトや実に独仏の誇りなり、二国床の間の懸物なり、二国人民の品位において自ら関係なきを得ず、これ閑是非にして閑是非にあらず。哲学なき人民は、何事を為すも深遠の意なくして、浅薄を免れず。(岩波文庫版31-32頁*1)
カントやデカルトが哲学者のあるべき姿として想定されてゐることは分かる。本居宣長や平田篤胤は、「天地性命の理」*2を明らかにしてゐないので失格。「性命の理」は、「人の性、天の命を貫く理」といふことらしい。伊藤仁斎、荻生徂徠も、中国古典の注釈者に過ぎない。仏教者には見るべき者もあると言つてゐるが、具体的な名前は挙げられてゐない。『碧巌録』が愛読書であつたらしいので、禅宗の僧だらうか。
兆民が哲学の欠如を嘆いたのは、次のやうな理由からだつた。
わが邦人これを海外諸国に視るに、極めて事理に明に、善く時の必要に従ひ推移して、絶て頑固の態なし、これわが歴史に西洋諸国の如く、悲惨にして愚冥なる宗教の争ひなき所以なり。明治中興の業、ほとんど刃に衄(ちぬ)らずして成り、三百諸侯先を争ふて土地政権を納上し遅疑せざる所以なり。旧来の風習を一変してこれを洋風に改めて、絶て顧籍せざる所以なり。而してその浮躁軽薄の大病根も、また正に此にあり。その薄志弱行の大病根も、また正に此にあり。その独造の哲学なく、政治において主義なく、党争において継続なき、その因実に此にあり。これ一種小怜悧、小巧智にして、而して偉業を建立するに不適当なる所以なり。極めて常識に富める民なり、常識以上に挺出することは到底望むべからざるなり。亟(すみや)かに教育の根本を改革して、死学者よりも活人民を打出するに務むるを要するは、これがためのみ。(岩波文庫版32頁)
兆民は文部省編輯局が出した『理学沿革史』*3の翻訳を担当してゐるし、『理学鉤玄』といふ哲学解説書も書いてゐる。「理学」といふのは兆民流の訳語で、『理学鉤玄』の最初に次のやうに書いてゐる。
「フィロゾフィー」ハ希臘言ニシテ世或ハ譯シテ哲學ト爲ス固ヨリ不可ナル無シ余ハ則チ易經窮理ノ語ニ據リ更ニ譯シテ理學ト爲スモ意ハ則チ相同シ (国立国会図書館デジタルコレクション版 1頁)
フィロゾフィーといふ言葉をそのままに訳せば聖人、哲人になる事を願ふので「哲学」で良いが、「其本原ヲ窮究スル」といふ趣旨を踏まへれば「理学」といふ訳語が適する、と言ふのである。
『理学鉤玄』では、哲学(理学)を次のやうに定義してゐる。
理學ハ然ラス其旨趣タル必ス諸種學術ノ相通シテ原本スル所ノ理ヲ講求シテ以テ事物ノ最高層ノ處ニ透徹スルニ在リ所謂最高層ノ理トハ何ヤ之ヲ例ヘハ天地日月禽獸蟲魚凡ソ動植ノ屬吾人ノ耳目五官ニ呈スル者之ヲ名テ實質(マチエール)若クハ實體ト曰フ然ルニ此等實體ノ采色若クハ聲音若クハ形貌若クハ輕重實ニ其本相ニシテ空幻ニ非サル乎即チ物ノ色ノ如キハ獨リ吾人ノ目ニ接スルニ由テ發スル者ニシテ物實ニ之レ有ルニ非サル事無キヲ得ル乎又吾人ノ身ノ如キモ其感覺シ思念シ及ヒ决斷スルハ獨リ頭腦ノ機關(オルガニスム)ノ然ラシムル所ナル乎將タ虚靈不昧(スピリチユエール)ノ精神ナル者有テ一身ノ主宰ト爲リテ此等ノ能力ヲ發スト爲ス乎斯天地萬有ハ本ト之ヲ造ル者有リテ生セシ乎将タ偶然トシテ發シ突如トシテ来リタル乎世界萬物ハ皆個々圓成シテ乃チ各々獨立不倚ナル乎將タ一個ノ本根(シュプスタンス)有リテ皆之レニ統屬スト爲ス乎吾人善ヲ爲シ惡ヲ避クルハ吾人ノ心實ニ自ラ决斷シテ然ル乎将タ知ラス識ラス外来ノ目的ノ爲ニ牽引セラレテ然ルト爲ス乎
凡ソ此等ハ皆所謂事物最高層ノ理ニシテ之ヲ窮究スルハ即チ理學ノ事ナリ
(国立国会図書館デジタルコレクション版 3-4頁)
また、同書では哲学を次の図のやうに分類してゐる。
兆民自身がどのやうな哲学を持つてゐたかは、『続一年有半』を見ると窺ひ知ることができる。「一名無神無霊魂」といふ副題からも分かるやうに、唯物論的な考へ方である。
余は理学において、極めて冷々然として、極めて剥出しで、極めて殺風景にあるのが、理學者の義務否な根本的資格であると思ふのである。故に余は断じて無仏、無神、無精魂、即ち単純なる物質的学説を主張するのである。五尺軀、人類、十八里の雰囲気、太陽系、天体に局せずして、直ちに身を時と空間との真中≪無始無終無辺無限の物に真中ありとせば≫に居いて宗旨を眼底に置かず、前人の学説を意に介せず、ここに独自の見地を立ててこの論を主張するのである。 (岩波文庫版 115頁)
日本に哲学が欠けてゐるために、「小怜悧、小巧智にして、而して偉業を建立する」ことができない、といふのが兆民の見立てだが、その哲学についての考へ方は、当時の西洋哲学の立場を踏まへたもので、常識的なものだと言へるだらう。教科書の翻訳である『理学沿革史』は勿論のこと、『理学鉤玄』についても西洋哲学の紹介のための本なのだから、当然と言ふべきだが。
考へるべき問題は、かうした哲学を学ぶことが、本当に日本人の「小怜悧」を克服することにつながるか、といふ点ではないかと思ふ。
『一年有半・続一年有半』は、岩波文庫に詳しい註を付した本がある。光文社の古典新訳文庫には、現代語訳もあるが、やはり原文で読みたい。
*1:この引用でも分かるやうに、兆民の文章には漢語が多く、ここでは一つを除いて省略したが、岩波文庫でも多くの仮名が振つてあり、巻末には出典を含めた詳しい註がある。
*2:岩波文庫ではこの言葉には註がついてゐないが、『易』の「説卦伝」に次のやうな言葉がある。「昔者聖人之作易也。將以順性命之理。是以立天之道曰陰與陽。立地之道曰く柔與剛。立人之道曰仁與義。」昔者(むかし)聖人の易を作るや、将(まさ)に以て性命(せいめい)の理に順(したが)わんとす。是(ここ)を以て天の道を立てて陰と陽とと曰(い)い、地の道を立てて柔と剛とと曰(い)い、人の道を立てて仁と義とと曰(い)う。(本田済『易下』朝日文庫版351頁)
*3:1886(明治19)年出版。原本はAlfred Fouillée "Histoire de la Philosophie"