ベルクソンと量子力学

ベルグソン(1859-1941)の哲学と量子力学との関係については、小林秀雄(1902-1983)が『感想』と題されたベルクソン論の中で取り上げてゐる。引用の多い『感想』の中で、これは独創的な部分ではないかといふことを他の場所に書いたことがあるが、調べて見ると、フランスでは終戦前からすでに話題になつてゐたやうだ。

特に、ド・ブロイ(1892-1987)によるLES CONCEPTIONS DE LA PHYSIQUE CONTEMPORAINE ET LES IDÉES DE BERGSON SUR LE TEMPS ET SUR LE MOUVEMENTといふ論文は興味深い。Revue de Métaphysique et de Morale誌の1941年10月号*1に掲載されたもので、上のJSTORのリンクから見る事ができる。(登録が必要だが、読むだけなら無料。)

言ふまでもなく、ド・ブロイはフランスの理論物理学者で、光が波と粒子の両方の性格を合はせ持つのであれば、物質にも波の性質があるのではないかといふ考へを提唱した。量子力学の基礎を築いた一人であり、1929年にノーベル物理学賞を受賞してゐる。

ド・ブロイは、若い頃からベルクソンの時間や持続(durée)、運動に関する独創的な意見に感銘を受けてゐたが、最近その著作を読み返してみると、"Essai sur les données immédiates de la conscience"(『意識に直接与へられてゐるものに関する試論』、英訳の題名『時間と自由』でも知られる)に、量子力学の考へ方に通じる見方が示されてゐて驚いた、と言ふ。"Essai"は1889年の論文で、ボーアやハイゼンベルグ量子力学(ド・ブロイは「波動力学」といふ言葉を使つてゐる)解釈が出される40年も前に書かれたものなのだ。

ド・ブロイの論文で興味深いのは、ベルクソンがしばしば論じた現実の持続と科学が扱ふ抽象的な時間との差ではなく、空間を取り上げてゐる点だ。『物質と記憶』の第4章や「要約と結論」から引用した後、次のやうに述べてゐる。

この文章は持続に関するものほど知られてゐないだらうが、これを引いたのは、ベルクソンの哲学が、次のやうな考へにつながるし、実際に彼はさう考へたことが何度かあつたことを示すためである。広がりを一様な幾何学的空間で表はすのは、少なくとも一部において、数学者や物理学者が持続を一様な時間で表はすのに似た、偽りの性格を持つといふ考へが、それだ。(244頁)

物質と記憶』の第4章は、二元論の立場から出発したベルクソンが、物質と精神の二つを結びつけるための哲学を模索した部分で、難解さで知られてゐるが、ド・ブロイの読みや引用は非常に的確で、感心する。

時間については、ベルクソンアインシュタインの間に論争があり、ベルクソンは『持続と同時性』といふ本を書いたが、ド・ブロイはベルクソンの書いた一番良くない本だと言つてゐる。ベルクソンアインシュタインの主張をよく分かつてゐなかつたやうで、批判されたのは当然だといふ意見だ。しかし、相対性理論は量子的な現象をうまく説明できない。ベルクソンの哲学は、時間を含めて全てを4次元空間の量に還元すると見える相対性理論とは相容れないが、量子力学とは親和性があるのではないか、さうド・ブロイは話を進める。

運動についてのベルクソンの見方を示すため、ド・ブロイは『創造的進化』の次の一節を引用してゐる。

つまるところ、錯覚はつぎのことに由来する。運動はひとたびおこなわれてしまえば自分の経過につれて不動の軌道曲線をのこしているもので、ひとはあとからその線上にいくらでも不動を数えることができる。そこからひとは結論して、運動はおこなわれているあいだ刻々と自分の足もとに自分が合致していた位置を落としてゆくのだ、というわけである。(真方敬道訳岩波文庫版362頁。傍点をゴチックに変へた。Edition du Centenaireでは756頁。)

このベルクソンの主張が誤つてゐるとすれば大胆さが足りないといふ点だ、とド・ブロイは言ふ。実際、ベルクソンは、軌道を想定してゐるため、実際の運動が軌道上の幾何学的な移動とは異なることを説明するのに苦労してゐる。しかし量子力学では動くものに軌道を当てはめることはできない。一連の観測で得られるのは瞬間瞬間の位置だけであり、同時に運動に関する情報を得ることは諦めねばならない。『時間と自由』の次の一節は、これを予見してゐたかの如くであると言つてゐる。

空間のなかには空間の諸部分しかないのであって、運動体を空間のどの地点に考えようと、ただ位置しか得られないだろう。(中村文郎訳岩波文庫版134頁。Edition du Centenaireでは74頁。ド・ブロイは、「ただ位置しか得られないだろう」の部分を斜体で強調して引用してゐる。)

続いてド・ブロイは同じ『時間と自由』の少し先にある文章を引用する。

要するに、運動のなかに二つの要素を、すなわち通過された空間と空間を通過する行為、継起的諸位置とそれらの位置の総合とを区別しなければならない。…しかし、ここで再び、内浸透の現象、つまり運動性の純粋に内包的な感覚と通過された空間の外延的表象との混合が生じる。(同135-136頁。Edition du Centenaireでは75頁。)

そして、次のやうにコメントする。

波動力学の観点からは、この言ひ方は完全に満足すべきものとは見えない。次のやうに言ふべきだらう。量子的な実体は、粒子といふ概念、つまり要するに幾何学的空間に位置づけられる点と、波といふ概念によつて、交互に表現することができる、と。波は波動力学では、空間的な位置づけを全く持たない、純粋な状態の運動を表現してゐる。かうして波動力学では、対立する二つのイメージを操つて、運動を空間的な位置決めから切り離すことに成功した。そして、この二つのイメージはその厳密な形では同時に用ゐることができないとされる。それがハイゼンベルグの不確定性の中身だからだ。(250頁)

また、量子論について、次のやうに述べて、ベルクソンの文章との類似を指摘する。

もし時刻t1よりも後の時刻t2において、実験や観察によつて粒子の位置を正確に知ることができるとすると、私達にとつて状況は完全に変はる。何故なら、実現するのは一つの可能性であり、他のどれでもないからだ。かうして、量子論においては古典理論をはるかに超えて、時間が経過することで、新しく予期できない要素がもたらされるやうに見える。これはベルクソンの筆になる言葉と同じだ。彼はかう書いてゐる。「この点を堀り下げるほど、私には次のやうに思はれてくる。もし未来が、現在に並んでゐるのではなく、その後に続くことを定められてゐるのであれば、未来は現在の時点で完全には決定されてゐない、と。そして、この継続が占める時間が(単なる)数量とは別物であるとすれば、そこでは絶えず予期できないもの、新しいものが創造されてゐる、と。」*2

この他に、『時間と自由』の「してみれば、物質の不可入性を立言することは、単に数の観念と空間の観念との連関を認めたというだけのことであり、物質の一特性より、むしろ数の一特性を言い表しているのである。」という文(中村文郎訳岩波文庫版109頁。Edition du Centenaireでは60頁)を引いて、量子力学では同じ場所に二つの粒子が存在することが可能となり、昔ながらの物体の不可入性といふ考へ方が崩れてゐる事実と対比してゐる。

上に述べたもの以外にも、ド・ブロイは量子力学ベルクソンの思想の類似が見られる例をいくつか挙げてゐるが、長くなるので省略する。

ベルクソン自身が量子力学に言及した例は少ないが、ド・ブロイは最後に、その一つとして『思想と動くもの』にベルクソンがつけた次の註を引用する。

そこで人は、きわめて最近の物理学に従って物理的事実を構成する要素的現象の不確定性の仮説をとる場合でも、やはり物理的確定性と言うことができるばかりでなく、そう言わなければならない。というのは、この物理的事実は、曲げることのできない確定性に従うものとしてわれわれに知覚される点では、われわれが自身を自由と感ずるときに果たす行為と根本的に区別されるからである。私が前に暗示したように、それぞれの視覚が要素的な現象の特殊な程度における凝集にとどまるのは、まさに物資をこの確定性の鋳型に流しこみ、われわれをとり巻く現象の中で、それに対する行動をわれわれに許す継起の規則性を得るためではないかと問うかもしれない。さらに普遍的に言うと、生物の活動は、その持続を凝集することによって、事物の支えとなる必然性に寄りかかり、それに自分の寸法を合わせることになる。(河野与一訳岩波文庫版403頁。Edition du Centenaireでは1301頁。)

そして次のやうに締めくくつてゐる。

興味深い示唆だ。これに従へば、生物は必然的に「巨視的」な知覚を持つだらう。何故なら、巨視的なものにおいて初めて明確な決定論が支配し、生物の諸物に対する活動が可能になるからだ*3。この孤立した文を読むと、この偉大な哲学者がその透徹した眼で、新しい物理学の予期されなかつた地平を見渡すことができなかつたことを、どれほど残念に思ふやうになることか。

ベルクソンの基本的な問題意識は、科学の説く必然性から人間の自由を守ることだつた。量子力学の登場により、科学自体が、ある種の確率を含むものとなつた。これは自由の余地を意味するのだらうか。観測による「波束の収束」が、どのやうな物理現象に対応してゐるのかなど、量子力学の解釈については、今だに議論が続いてゐる。それがどのやうな結論に落ち着くにせよ、科学と自由が両立するものであることは議論の余地がないと思はれる。科学は確かに自然の法則性を捉へるが、それは自然をある視点から、つまり一面的に捉へるからだ。科学が描く自然が私達に与へられた自然の全てではない。

この事実は、常識の立場からすれば当たり前だと思ふのだが、科学者の中には、人間には自由など無いと真顔で主張する人が今でもゐる。しかし、全てが決定されてゐるのであれば、「新しさ」とは何だらう。科学は新発見を誇りにし、新しい技術を応用して新製品が世に出されるが、もし古典力学から推測されるように全てが決まつてをり、時間を逆にしても同じやうに世界が成り立つのであれば、そんな世界に「新しさ」などあり得ないのではないだらうか。

量子力学が、人間の自由の問題についてどのやうな回答を出すかはまだ分からないが、ベルクソンの著作は、さうした問題を考へるためにも、様々な示唆を与へて呉れる。

ベルクソンの主な著作には、翻訳が出てゐる。一般的に言へば、若い人には新しい翻訳の方が読みやすいだらう。岩波文庫は、品切れになつてゐるものもあるやうで、Amazonで検索すると、中古品が出て来る場合がある。

ベルグソンには、このほかに『道徳と宗教の二源泉』があるが、ド・ブロイの話には出て来ないので、省略した。

ド・ブロイ自身の著作は、現在は手に入りにくいようだ。以前、『物質と光』といふ本が岩波文庫から出てゐた。中には「量子力学に関する哲学的研究」と題された文章も含まれてゐるが、連続性と個別性など、物理学で用ゐられる概念の検討を行つたもので、ベルクソンについての言及は無い。科学史に関心がある人以外には、あまりお勧めではない。

*1:この号は、同じ年の1月にナチス占領下のパリで死んだベルクソンの追悼号である。

*2:真方敬道訳岩波文庫版『創造的進化』では396頁にあたる部分。但し、文章は少し異なる。この部分に限らず、ド・ブロイが引用する文章や示されてゐる頁はEdition du Centenaireとは少し異なる場合が多い。参照してゐる版の違ひか。

*3:量子力学の生みの親の一人であるシュレディンガーが書いた『生命とは何か』といふ本にも、同様の説が述べられてゐる。