7月27日のゲンロンカフェ

ゲンロンカフェは株式会社ゲンロンが運営してゐるイベントスペースで、様々な座談会などが企画されてゐる。7月27日に行はれた茂木健一郎氏と東浩紀氏の「日本のコロナと脳」と題された回を録画で視聴したので、感想を書いて置く。なほ、以下の文章は視聴した印象を元に書いたもので、お二人の発言の内容は文字どほりではないことを最初にお断りしておく。

「日本のコロナと脳」といふ題ではあるけれど、対談の中身は必ずしもそれに一致しない。何しろ、ワインを飲みながら5時間以上も話し続けるのだから、特定の話題についての纏まつた対談になるはずがない。しかし、内容は多岐にわたるとともに大変に興味深いものだつた。

お二人は現在の日本あるいは世界について多くの不満を共有してゐる。その不満をぶちまけるといふのが対談の基調だつたが、不満の矛先は例へばグーグル翻訳に向かふ。統語論や意味論も無くて、ただ統計的に関連性の高い言葉の並びを持つて来る。それが本当に翻訳と言へるのか。あるいは大学、マスコミに向けられる。意味のない査読論文の増産、上つ面だけの報道。

エリート教育と価値の源

かうした批判が出て来るのは、お二人には理想があるからだ。興味を引かれたのは、東氏が自分は神を信じてゐる、と言はれたことだ。この神がどのやうな神なのかは分からない。ただ、俗世を超えた価値の源といふ性格を持つものだらう。

東氏によれば、欧州では世俗社会と神学の社会との区別が残つてをり、欧州の知識人は神学の人である。日本にはかうした区別がないため、日本の知識人にとつての課題は、超越性をどう確保するかにある、といふお話だつた。

ここで俗世といふのは資本主義や市場が支配する世界だと考へて良いだらう。数や物理的な力が支配する世界だと言つても良い。「いいね」の数を競ふSNSからは、新しい価値は生まれない。東氏が目指すのは、1000人でも良いので、本当にものを考へる人達を育てること、本物のエリートの教育なのだ。

「神が死んだ」社会での価値体系をどのやうにして築くかは、西洋哲学の大きな課題だつた。パスカル(1623-1662)の『パンセ』では神のゐない人々の悲惨が語られてゐるし、ドストエフスキー(1821-1881)はイワンに「神がゐなければ全てが許される」と言はせてゐる。カント(1724-1804)は、神は理性では証明できないが、倫理のために必然的なものだと考へた。

日本には、キリスト教の神はゐなかつたが、俗世だけを信じてゐた訳ではない。仏教の影響もあつただらうし、子孫の繁栄を願ふといふ自然な心から、自分の死んだ後のことまで考へた生活をしてゐたのだらう。

今日では、宗教的なことは非科学的だとして、無知蒙昧の印だと考へられてゐる。教育水準の高い人ほど、さう考へる傾向が強いだらう。また、「家」といふ考へ方が衰へたので、自分の子孫の将来の事を真剣に考へてゐる人も少ないだらうと思はれる。「我が亡き後、洪水は来たれ」だ。世の中の指導者達が皆、かういふ考へ方の人達だとすれば、社会の永続は望めない。

お二人は、仕事が後世に残るといふことを何度か話題にされたが、後世に残るか否かを重視するといふのは、一つの価値観の表れだ。

生命に付随するものとしての意識

コンピュータは意識を持つか、といふのも対談の中で何度か取り上げられた話題だつた。茂木氏の新著『クオリアと人工意識』が、その中心になるのだが、東氏が「茂木さんが新しい本を書くとは思はなかつた」と言つてゐたのが印象的だつた。それを本人に面と向かつて言ふところが、ゲンロンカフェの(あるいは東浩紀氏の)面目躍如と言ふべきか。

お二人は、安易な人工知能に対する期待に批判的なところでも意見を共有してゐて、東氏は、本で書かれてゐる「生命に付随するものとしての意識」といふ考へ方に注目してゐた。西洋では人間の意識しか問題にされないが、上記の考へ方によれば、動物の意識の問題も自然に扱ふことができる点も指摘されてゐた。

これはベルクソン(1859-1941)が『創造的進化』で既に述べてゐる説でもある。やはりベルクソンは西洋の伝統的な思想の枠に収まらない人だと言ふべきか。

その他の話題

このほかにも、量子コンピュータ多世界解釈との関係、とか、ベイズ統計の隆盛についてのやや否定的な意見とか、左翼政党は国民からの寄付で運営できる仕組みを考へるべきだ、とか、全てエシカルな取引は現実的ではなく偽善だ、とか、知識の段階的な普及を無視したハッシュタグは機能しない、とか、英語の薬局pharmacyといふ言葉の語源であるファルマコンといふギリシャ語は、薬といふ意味と同時に毒や犠牲の羊も意味する等々、面白いネタが満載の対談だつた。

何年もゲンロン会員ではありながら初めてゲンロンカフェを視聴した者の意見を一つ述べれば、面白いけれど、もう少し手短にできないか、といふことになる。ワインを飲みながらだからこそ、飾らない議論もできるのは分かるのだが、5時間付き合ふのは辛い。

それも、面白いのは最初だけで後は雑談ばかりなのであれば最初だけ見れば済むのだが、酔つ払つたと見えても、突然、真面目な話、面白い話題が出て来るので最後まで見ざるを得ないのである。まあ、本当の知的なやり取りには時間が必要なのかも知れない。