山崎正和(1934-2020)

山崎正和氏が亡くなつた。

鼎談書評

山崎氏を知つたのは、1980年代前半に文藝春秋に連載されてゐた「鼎談書評」といふ記事だつた。丸谷才一(1925-2012)、木村尚三郎(1930-2006)、山崎正和の三人が、それぞれの推薦図書を持ち寄つて、意見を交はすといふ趣向の記事で、三人の機知に富むやり取りに感じ入りながら読んだ。紹介されてゐる本で、面白さうなのは何冊か買つて読んだりした。この鼎談は、後に出版されてゐて、山崎氏の前書きをネットで読むことができる。

この他にも、丸谷才一との対談が数多く本になつてゐる。『日本史を読む』といふ本では、名前に「仁」がつかない天皇は誰でその理由は何か、とか、フロイスキリスト教布教の一番の強敵は法華宗だと言つた、とか、本居宣長山東京伝を読んでゐたかもしれない、とか、津田梅子の伊藤博文について文章は面白い、とか、とにかく情報量が多い。クイズ番組に出さうな話題が並んでゐると見ることもできるが、それが単なる知識ではなく、大きな世界観の中で生かされてゐる点が立派だと思ふ。さうした知識は本から得たものなのだし、『電子立国 日本の自叙伝』のやうにこちらに多少の予備知識がある本だと、多少あやふやな部分が無くはないのが分かるのだが、知的な刺激に充ちてゐることは間違ひない。

 

『鷗外 闘う家長』

訃報を目にして、1972(昭和47)年に出版された鷗外論を読み返してみたが、いろいろと教へられることがあつた。鷗外は学生のころから好きな作家で、他方、漱石にはどうも馴染めなかつたのだが、その理由が分かつたやうな気がした。

いわば彼の生涯の文学的な主題は、あの「自我の陰画」すら成立しない、内面の完全な空白そのものを凝視することであったといえる。その不安が、あるときは彼を痙攣的な自己表現に駆り立て、またあるときは極端な自己抑制に誘うこともあったが、しかし結局はそのどちらにも安住できず、彼は最後まで自我の手ごたえを求めて終りのない彷徨をつづける作家となった。

そしてそのことによって、彼は日本の近代文学史のなかでは例外的な作家となり、令名のみ高くて真に理解されることの少ない文学者となった。けれども、眼を転じて広く日本人の精神史全体という枠組で考えると、鷗外はけっして異様な例外者でもなければ、少数者の代表ですらない。たしかに彼が生まれあわせた時代は歴史的に稀有の時代であり、そのことが彼の生き方をいやがうえにも特徴的なものにしたことは疑いない。しかし、さらに踏みこんで彼の家庭環境や生理的な体質にまで目を向けると、それを背負った鷗外の人生態度は、むしろ日本の近代人のもうひとつの典型であったことが理解されるはずである。それがのちの文学作品によって描かれることが少なかったということは、日本の近代文学そのものにとっての不幸であったかもしれないのである。

新潮文庫版 77-78頁。ゴチックは原文では傍点)

鷗外が視覚の人であつたとか、家族が彼をどのやうに見てゐたかなど、興味深い指摘は、挙げれば切りがない。

1980年代の転換期

 山崎氏は1980年代半ばに『柔らかい個人主義の誕生』といふ本を書いてゐる。今にして思へば、1980年代は日本の大きな転換期だつた。貿易黒字が国際的な問題となり、「ものづくり」の国から、どう転換するかが課題だつた。国際競争力の低下を甘受しても労働条件を改善し、労働分配率を上げて国内消費の拡大を図るといふのが、貿易黒字対策としても、少子化対策としても、正しい道であつたやうに思はれるのだが、現実には金融緩和がバブルを生む結果となつた。

企業を中心とした日本人の生活、企業に尽くす態度は、共同体としての村が崩壊し、敗戦で物資が不足してゐた時代には合理的なものであり、仕方ないものでもあつたが、長続きする体制ではなかつた。男は外に出て「企業戦士」として戦ひ、女は家庭を守るといふのは、戦時中の頭をそのまま戦後に持ち込んだ考へ方で、それが女性に大きな負担を強ひることとなり、その反動として少子化が出て来たのではないだらうか。

山崎氏の著書は、さうした転換の指導的な思想を示すものだつたのかも知れない。山崎氏は政府の審議会などにも数多く参加してゐたが、どのやうな意見を述べ、それが政策に反映されたのかどうかなどは、寡聞にして知らない。

いづれにしても、博識で洒落も分かる立派な大人がまた一人、旅立たれた。

ご冥福をお祈りする。