『旧約聖書』の読み方(承前)

第3回は「雅歌は最初のエロティックな詩か」といふ題で、Olivier Abel氏が話をした。「雅歌」は旧約聖書の一章で、英訳聖書では Song of Solomon といふ題になつてゐる。文字通り読めば男女の愛の歌であり、「ねがはしきは彼その口の接吻をもて我にくちつけせんことなり 汝の愛は酒よりもまさりぬ なんぢの香膏(にほひあぶら)は其香味(かをり)たへに馨しく」といつた調子で始まる。様々な解釈がある章のやうだが、放送では、拒むことと受け入れることといふ自由の問題を扱つてゐる、とか、人は最初から二人である(あるいは神と向き合つてゐる)、とか、最初の言葉は感情を表現するものであつた、とかいふ話をしてゐた。伊邪那岐命伊邪那美命の話や『詩経』を思ひ出す。孔子は「詩三百、一言以て之を蔽へば、曰く、思ひ邪しま無し」(為政第二)と言つたが、放送では、最初にあつたのはイノセンスなのだ、と言つてゐた。他方で、契約といふ行為の基礎には結婚の契約があり、結びつきは自由なもので変はり得るのだ、といふ話は、西洋的な考へ方だと感じた。

第4回は「ヨセフとモーゼ、どう共存するか」といふ題で、Thomas Römerといふ人が話をした。聖書は旅立ちと亡命の物語であり、他者と共存するといふことが常に問題となる。住み続けるか旅立つかを問ひ続ける生き方でもある。ユダヤ人は長い間流離ふ民であつた。どこまで現地と同化するかといふのは、人々の動きが激しくなつた現代では大きな問題となつてゐるが、ユダヤ人にとつては歴史と共にある問題なのだと感じた。さうした歴史の中で、ユダヤ人が民族としての同一性を保ち得たといふのは(実際には様々なユダヤ人がゐるのであらうが)、驚くべきことだ。戒律を守ることが、その要となつてゐたのだらうと思はれる。

他方で、第1回では、聖書では解釈が重要であり、イサクの犠牲の話でも、文字通りに解釈すると神の為には我が子でも殺すといふ狂信的な話になるが、それを抑へるために様々な工夫が重ねられて来たといふ印象を持つた。さうした柔軟な解釈は、共存せざるを得ない状況に長く置かれてゐたことと無縁ではないといふ気がする。

さて、日本人はどうやつて同一性を保つのか。そもそも、日本人の同一性などあるのか。