『歴史とは何か』(II-3 歴史:過去を伝へる)

歴史教育の問題は、近隣諸国との関係もあつて、なかなか難しい。最近では、「自虐史観」に反発して、日本人が自分の国を誇りに思へるやうな歴史を書かうといふ動きもあり、『日本国紀』はよく売れたらしい。他方で、この本には様々な批判も出てゐるやうだ。何が正しい歴史なのか。日本人が学ぶべきなのは、どのやうな歴史なのだらうか。

E.H.カー『歴史とは何か』

そこで、E.H.カー(1892-1982)の『歴史とは何か』によつて、考へを整理してみよう。

 カーは先づ、歴史哲学に大きな貢献をしたイギリスの思想家コリングウッド(1889-1943)の歴史観を次のやうに要約する。

歴史哲学は「過去そのもの」を取扱うものでもなければ、「過去そのものに関する歴史家の思想」を取扱うものでもなく、「相互関係における両者」を取扱うものである。(この言葉は、現に行われている「歴史」という言葉の二つの意味――歴史家の行なう研究と、歴史家が研究する過去の幾つかの出来事――を反映しているものです。)「或る歴史家が研究する過去は死んだ過去ではなくて、何らかの意味でなお現在に生きているところの過去である。」しかし、過去は、歴史家がその背後に横たわる思想を理解することが出来るまでは、歴史家にとっては死んだもの、つまり、意味のないものです。ですから、「すべての歴史は思想の歴史である」ということになり、「歴史というのは、歴史家がその歴史を研究しているところの思想が歴史家の心のうちに再現したものである」ということになるのです。歴史家の心のうちにおける過去の再構成は経験的な証拠をたよりとして行われます。しかし、この再構成自体は経験的過程ではありませんし、事実の単なる列挙で済むものではありません。むしろ、再構成の過程が事実の選択と解釈とを支配するのです。すなわち、正に、これこそが事実を歴史的事実たらしめるものなのです。(26-27頁)

これを元に、カーは「いくつかの忘れられた真実」を導き出す。

第一に、歴史上の事実は純粋な形式で存在するものでなく、また、存在し得ないものでありますから、決して「純粋」に私たちへ現われて来るものではないということ、つまり、いつも記録者の心を通して屈折して来るものだということです。したがって、私たちが歴史の書物を読みます場合、私たちの最初の関心事は、この書物が含んでいる事実ではなく、この書物を書いた歴史家であるべきであります。(岩波新書 27頁)

コリングウッドの主張の第二点は、もっと判り易いことで、歴史家は、自分が研究している人々の心を、この人々の行為の背後にある思想を想像的に理解する必要がある、ということであります。·····この十年間*1に英語使用諸国が生んだソヴィエト連邦関係の文書の大部分、また、ソヴィエト連邦が生んだ英語使用諸国関係の文書の大部分が無価値なのは、相手方の心の動きを想像的に理解するということのイロハにも達し得ず、その結果、相手方の言葉や行動がいつでも悪意に満ちた、非常識な、偽善的なものに見えるようになっているからです。(30-31頁)

第三の点は、現在の眼を通してでなければ、私たちは過去を眺めることも出来ず、過去の理解に成功することも出来ない、ということであります。歴史家は彼自身の時代の人間なのであって、人間存在というものの条件によってその時代に縛りつけられているのです。·····歴史家の機能は、過去を愛することでもなく、自分を過去から解放することでもなく、現在を理解する鍵として過去を征服し理解することであります。(31-33頁)

これに続いて、カーはコリングウッド歴史観が招く恐れのある危険として、懐疑主義と「プラグマティズム*2を挙げる。歴史はどこから誰が見るかによつて見え方が違ふことは確かだが、懐疑主義に陥つてはならない。

見る角度が違うと山の形が違って見えるからといって、もともと、山は客観的に形のないものであるとか、無限の形があるものであるとかいうことにはなりません。歴史上の事実を決定する際に必然的に解釈が働くからといって、また、現存のどの解釈も完全に客観的ではないからといって、どの解釈も甲乙がないとか、歴史上の事実はそもそも客観的解釈の手に負えるものではないとかいうことにはなりません。(34-35頁)

しかし、より大きな危険は、「プラグマティックな」歴史観だ。

過去の問題を研究するのは現代の問題の鍵として研究するのだということになりましたら、歴史家は全くプラグマティックな事実観に陥り、正しい解釈の規準は現在のある目的にとっての適合性であるという主張になってしまうのではないでしょうか。夙にニーチェはこの原則を言明いたしました。「われわれの考えでは、ある意見が間違っているというのは、何もこの意見に対する反駁にはならない。······問題は、それがいかに生命を励まし、生命を保存し、種族を保存し、更に種族を創造するかということである。」(35頁)

それでは、あるべき歴史家の仕事とはどのやうなものか。

事実を尊重せねばならぬという歴史家の義務は、その事実が正確であることを確かめるという義務に尽きるものではありません。彼は、自分が研究しているテーマや企てている解釈に何らかの意味で関係のある一切の事実――知られているものであろうと、知られ得るものであろうと――を描き出す努力をせねばならないのです。······私の確信するところですが、歴史家という名に値いする歴史家にとっては、経済学者が「インプット」および「アウトプット」と呼ぶような二つの過程が同時に進行するもので、これらは実際は一つの過程の二つの部分だと思うのです。みなさんが両者を切り離そうとし、一方を他方の上に置こうとなさったら、みなさんは二つの異端説のいずれかに陥ることになりましょう。意味も重要性もない糊と鋏の歴史をお書きになるか、それとも、宣伝小説や歴史小説をお書きになって、歴史とは縁もゆかりもないある種の文書を飾るためにただ過去の事実を利用なさるか、二つのうちの一つであります。(36-38頁)

かうしたカーの意見は、中庸を得た、良いものだと思ふ。

ゲンロンカフェのイベント「平成の鬱と新しい知性の実践」で、與那覇潤氏が、ポストモダンで主体性と客観性といふ言葉が言へなくなつた、といふ趣旨の発言をしてゐた。ポストモダンを経た眼からすれば、カーの発言は古き良き時代のものと見えるのかも知れない。しかし、主体性とか客観性とかを考へない思想など、あり得るだらうか。ポストモダンの思想については良く分からないが、客観性を語ることができないといふのは、ゲーテの言葉が応用できる状況ではないだらうか。

後退と解体の過程にある時代というものはすべていつも主観的なものだ。が、逆に、前進しつつある時代は常に客観的な方向を目指している。現代はどう見ても後退の時代だ。というのも、現代は主観的だからさ。(エッカーマン『ゲーテとの対話』1826年1月29日)

「 国民を鼓舞する歴史」についての懸念

最近インターネットを見てゐると、太平洋戦争は日本の侵略戦争ではなく、蒋介石(1887-1975)に騙されたのだとか、ABCD包囲網により孤立し生き延びるために已む無く立ち上がつたのだとか、アジアの植民地を解放するための戦ひだつたのだ、とかいつた類の本の宣伝を見かけることが多い。かうした本を書く人達は、ニーチェ*3に、事実かどうかではなく、「いかに生命を励ま」すか「種族を保存」するかが大切だと考へてゐるのだらうか。

しかし、仮に、何よりも生命を励まし、種族を保存することを目指すとしても、蒋介石に騙された、といふ類の主張が、日本人に自信を持たせたり、日本といふ国がこれからの国際社会の中で生き延びるために役に立つたりするのだらうか。とても、そうは思へない。

国際社会には、中央政府はないので、国と国の間の問題を解決するには、当事国の間で話合ふか、第三国や国際機関に調停を頼むか、それで解決しなければ、実力で勝負するかしか手段はない。実力は、禁輸などの経済的な措置の場合もあれば、武力に訴へる場合もある。いづれにしても、自国に有利な結果を得るべく、あらゆる手段を尽くすといふのは、国としては当然のことだ。その中には、国際世論を味方につける、といふ手段もあり、重要なものの一つだ。

蒋介石にしてみれば、日本の中国における行動が不当なものだと米国等の第三国に宣伝するといふのは、当然の行動であり、何も狡猾なものではない。むしろ、かうした視点を持たず、国際的に孤立する日本の方が愚かだ、といふのが国際的には常識的な見方と言ふべきだらう。それを喧伝することが日本人に自信を持たせたり、日本の国際的な地位を高めたりすることになるのだらうか。

また、かうした「国民鼓舞型」の歴史を学ぶ日本人は、どのやうな意見を持つやうになるだらうか。蒋介石は狡い奴だ、米国は力任せで怪しからん、最初に植民地を作つたのは欧米諸国ではないか等々、日本と(蒋介石が落ち着いた)台湾や米国等の同盟国との関係を悪くするやうな意見ではないか。さう考へると、この種の歴史を広めようとしてゐるのは、日本民族の存続を目指すどころか、日本と台湾や米国との関係悪化といふ日本の国益に反する動きを狙つてゐる勢力ではないか、といふ気さへして来る。

鏡としての歴史

歴史を学ぶのは何の為か。他国への宣伝も一つの目的かも知れないが、基本は、自分の国を知るといふことだらう。自分の生まれ育つた国がどのやうな国なのかを知ることは、人の義務だと言つても良い。国の歴史を学ぶのは、そのために欠かせない手段の一つだ。カーは『歴史とは何か』のなかで、次のやうに述べてゐる。

歴史から学ぶというのは、決してただ一方的な過程ではありません。過去の光に照らして現在を学ぶというのは、また、現在の光に照らして過去を学ぶということも意味しています。歴史の機能は、過去と現在との相互関係を通して両者を更に深く理解させようとする点にあるのです。(97頁)

人には誰でも長所、短所があるやうに、国にも美点と欠点がある。その両方を知るといふことが、自分を知り、国を知るといふことだ。良いところだけを見る、嫌な部分からは目を背けるといふのは、子供染みた行ひだ。さうした姿勢からは本物の自信は生まれないし、他国からの信頼も得られないだらう。

 

*1:この本の原本は1961年に出版されてゐる

*2:本来のプラグマティズムは、カーが考へてゐるやうな、役に立てば真実だらうと虚偽だらうと何でも良い、或いは、役に立つものこそが真実だ、といつたご都合主義の主張ではないと思ふ。

*3:カーが引用してゐるニーチェの言葉は、『善悪の彼岸』の第一章三節に出て来るものだが、カーが解釈してゐるやうに、目的のためには真偽を問はない、といふ単純な話ではないと思ふ。しかし、ニーチェは取扱ひに注意を要する思想家なので、カーのような解釈が出て来ることは不思議ではない。