これからの日本に必要な哲学とは(II-2 政治:枠組を築く)

中江兆民は、「わが日本古より今に至るまで哲学なし」と嘆いたが、どのやうな哲学が必要なのかについては、詳しく述べる時間を持てなかつた。これからの日本に必要な哲学とはどのやうなものなのだらうか。

哲学とは

哲学とは、辞典によれば「統一的全体的な人生観・世界観の<理論的基礎>を提供」*1するものだ。フランス語の辞書では、「そもそもの原因、絶対的な事実、人間の価値の基礎に関する研究の総体で、問題を最も普遍的な段階から見ようとするもの」といふのが、現代的な「哲学」philosophieの意味だとされてゐる*2。ものごとの基本のところに戻つて考へる、より普遍的な見方を探る、といふのが哲学の方法だと言へるだらう。

なぜ今の日本に哲学が必要か

なぜ、今の日本に哲学が必要なのか。それは、日本が大きな変革期にあるからだ。どうすれば幸せになれるのか。何のために働くのか。なぜ経済成長は必要なのか。国の役割とは何か。変革期には、かうした問ひについて、国民が共通の理解を持つことが欠かせない。大きな目標のために、小さな目標を諦めることが避けられないからだ。変化に必要となる「小さな」費用を避けようとすると、現状維持しかない。或いは、声の大きな者が勝つ。残念なことに、今の日本で「声が大きい」のは、金持ち*3大衆迎合政治家、所謂ポピュリストだ。しかし、私達が目指すべきなのは、正しい社会、自由で、公平で、思ひやりのある社会ではないだらうか。さうした社会を実現するためには、私達にとつて何が大切で、そのためには何を諦めるかを考へ直す必要がある。哲学の仕事は、この見直しを支へることだらう。

なぜ日本で哲学が育たないのか
日本でかうした哲学が育たないのは、何故だらうか。この問題も、専門家の間には様々な議論があるに違ひないが、日本人が回りくどいことが嫌ひで、理屈に不信感を持つてゐるからではないだらうか。また、和を以て貴しと為す国柄のために、原理原則を振り回すことが嫌はれるのだと思ふ。
哲学は、ものごとの「理論的基礎」を考へるものなので、目の前の問題の役には立たない。また、普遍性を目指すので、話が理屈ぽくなる。しかし、理屈はどうにでも付けられる、といふことを日本人はよく知つてゐる。理屈を並べる人間は、何か怪しい。騙さうとしてゐるのではないか。これが普通の日本人の感じ方だ。
また、哲学は今ある秩序を疑ふものだから、和を以て貴しと為す国柄では、徒らに異論を述べて、落ち着いてゐる世の中を乱すものと見えることも、好まれない一因だらう。
他方で、哲学を提供する側にも大きな問題がある。
哲学といふ言葉そのものが明治時代に作られたことから分かるやうに、哲学は、日本人が自分達の中から生み出したものではなく、外から来たものだ。明治の人達が一所懸命に勉強したのだが、勘違ひも少なくなかつた。また、持ち込まれた哲学は、中でも難しいドイツ観念論が中心で、それが分かりにくい日本語に訳されたといふ歴史的な事情も、哲学の取つつきにくさを増しただらう。
その上、最近の哲学は、多岐にわたり、どれも面倒な理屈に充ちてゐる。相対主義懐疑主義に陥つてゐて、何を言はうとしてゐるのか、皆目、見当がつかないものが多い。分かりにくいことが高尚だといふ勘違ひは、どの国にもあるのかも知れないが、日本では、特に目立つやうな気がする。これでは、哲学が見放されるのも、無理はない。
竹田青嗣『哲学とは何か』
そんな思ひでモヤモヤしてゐた或る日、竹田青嗣氏の『哲学とは何か』を見付けた。これは、画期的な本だ。懐疑主義を拭ひ去り、新しい合意を生み出すための道筋を示すといふ、今の日本に一番必要とされる哲学の本だと言へるだらう。
竹田氏は、認識、存在、言語に係る三つの謎を中心に哲学の歴史を振り返り、ニーチェフッサールが、これらの謎を解明したことを示す。そして、私達が持ち得る世界についての確信を、以下の3つに整理する。
  • 個的な確信 個人的
  • 共同的な確信 二人以上に共有されるが範囲に限界あり 例:宗教
  • 普遍的な確信 誰もが共有し得る 例:数学、自然科学
さらに、氏が「本質領域」と呼ぶ本質・意味・価値の領域において、いかにして普遍的確信が可能となるかを、フッサールの「本質観取」といふ手法や、氏が「条件法」と呼ぶ議論の手法を挙げて、説明する。「条件法」といふのは、多様な価値を認める社会において、価値観の対立を超えた合意を得るための手法だ。
普遍戦争を抑止しかつ人々の自由を可能にするために、どんな社会が必要なのか、と問えば、その答えには理想理念や相対主義的主張が入り込む余地がなくなる。すなわち、哲学の歴史が示唆しているように、「誰にとってもこう考えるほかはない」答えとして、「自由な市民社会」という原理が提示されるのだ。
竹田青嗣氏の『哲学とは何か』については、いろいろと批判もあるだらう。フッサールの解釈が正しいかどうか、ポストモダン思想に対する厳しい批判は的を射てゐるか、等々。しかし、今の時代に哲学が何を目指すべきか、哲学を学ぶことで何が得られるかについて、大きな方向を示す本は、それだけで貴重だ。揚げ足取りをするのではなく、建設的な議論が生まれることを期待したい。
この本の刊行記念セミナーをYoutubeで見ることができる。最初の20分くらいで、竹田氏ご本人による本の内容の簡単な紹介があるので、これだけでもご覧になることをお勧めする。
 

 

*1:岩波哲学・思想辞典の「哲学」から。その抜粋を下に載せる。

哲学 1.西洋 哲学の語は、明治7年(1874)に著された『百一新論』のなかで、西周が西洋語のフィロソフィの訳語として新たに造語した言葉である。······幕末から明治維新にかけての日本の近代化の過程のなかで、コントの<実証主義>の考え方に依拠しながら、西は、百の教えを一つに統合し、一つの原理にもとづいて諸学の全体化を目指すような根本知としての哲学が、文化百般の中核を成さねばならないと考えた。それ以来、文化・社会全般にわたり、人間の歴史形成の営みの根本を成すものとして、統一的全体的な人生観・世界観の<理論的基礎>を提供すべき哲学的知が、近代日本においても、東洋思想の伝統にもとづきつつ、西洋哲学の盛んな摂取を介して、自覚的に探究されるようになり、現在に至っている。
······その本来の語義が確立されたのは、なによりもソクラテスプラトンにおいてであった。ソクラテスは<不知の知>の自覚を強調し、それを受けてプラトンは事物の真理にほかならぬ<イデア>の探究を<愛知>の目標とした。ここにおいて哲学は<真理への愛>として確立された。
······その結果、現代においては、科学知のほかに特有の哲学知を認めず、哲学は科学知の整理の役しか担わないとする極端な見解すら現れた。けれども今日においては、科学知のみならず、人間の行為や実践、さらには文化・歴史・社会のあらゆる現象の根本をその本質において問い直す哲学的洞察がいたるところで要請されていると言わねばならない。〔渡邊二郎〕

*2:Le Petit Robertによる。原文は、Ensemble des études, des recherches visant à saisir les causes premières, la réalité absolue ainsi que les fondements des valeurs humaines, et envisageant les problèmes à leur plus haut degré de généralité.

*3:金持ちが悪い、と言ふのではない。まともな方法で金持ちになつた人達は、世の中が求める物や仕組みを考へ出し提供することでお金を手にした人達なのだから、むしろ、世の中の役に立つてゐるはずだ。とは言へ、世の中は金持ちだけで成り立つてゐるわけではない。貧乏人がゐるからこそ、金儲けもできる。そして、貧富の差が広がり過ぎると社会が壊れ、金儲けも出来なくなる。今日の社会では、この点を忘れてゐる金持ちが少なくないことも否めない。