井筒俊彦『意識と本質』

使ふ側から見た思想の体系について考へた際に、中心には私がゐて、その私は心と身体から成るとしたのだが、心とはどのやうなものなのか、その正体を知ることは容易ではない。心については、心理学者や哲学者が様々な説を述べてゐる。その一つとして井筒俊彦の『意識と本質』を読んでみよう。

井筒俊彦といふ人

井筒俊彦(1914-1993)は、日本の言語学者、哲学者で、語学の達人として知られる。30程の言語に通じてゐたと言はれるが、それも英語やフランス語のやうな簡単な言葉だけではなく、アラビア語サンスクリット語、ロシア語などを含めた30言語なのだ。その語学力を駆使して、古今東西の思想を渉猟し、そこに共通するものを見つけ出さうとした。

生誕100年を記念して、かつて在籍してゐた慶應大学の出版会から全集が出されたが、これは日本語の著作だけで、この他に英文の論文が多数あり、その主なものの翻訳だけで7巻ある。同出版会が特設サイトを設けてゐて、その人柄を知りたい人には便利だ。

海外での活躍が長かつたこともあり、日本では余り知られてゐない面もあるが、この国には珍しい、世界的に評価の高い人文学者なのだ。

『意識と本質』といふ本

『意識と本質』は、1983年に出版された本で、「精神的東洋を求めて」といふ副題がついてゐる。1991年に岩波文庫に収められた。ここで紹介するのは、岩波文庫版。中でも、本の題名にもなつてゐる最初の論文を取り上げるが、その他に「本質直観 ― イスラーム哲学断章」、「禅における言語的意味の問題」、「対話と非対話 ― 禅問答についての一考察」の三つの論文も収められてゐる。

「意識と本質」には、「東洋哲学の共時的構造化のために」といふ副題が付いてゐる。

東洋でも ― いま仮に極東、中東、近東と普通呼び慣わされている広大なアジア文化圏に古来展開された哲学的思想の様々な伝統を東洋哲学という名で一括して通観すると ― 「本質」またはそれに類する概念が、言語の意味機能と人間意識の階層的構造と聯関して、著しく重要な役割を果たしている(7頁)

といふ気づきから、

東洋哲学全体を、その諸伝統にまつわる複雑な歴史的聯関から引き離して、共時的思考の次元に移し、そこで新しく構造化しなおしてみたい

といふ「当面の狙い」を持つて書かれた本だ。ただ、

取り扱うべきものが、その資料的側面だけから見ても非常に広汎にわたっているので、結局は、せいぜい共時的東洋哲学の初歩的な構造序論といった程度のものにしかならないだろう。とすれば、今これから書こうとしている小論自体は序論のそのまた序論というわけである。「意識と本質」という表題の示すとおり、人間意識の様々に異るあり方が「本質」なるものをどのようなものとして捉えるかを、ここでは特に「本質」の実在性・非実在性の問題を中心として考察してみたい。

と井筒は書いてゐる。「東洋哲学の共時的構造化」で井筒が目指してゐたものは、非常に大きな仕事で、これはその最初の一歩だといふ訳だ。

共時的東洋哲学とは

東洋哲学を「共時的」に見ることで、何を目指したのか。本書の後記には、次のやうに書かれてゐる。

東洋哲学 ― その根は深く、歴史は長く、それの地域的拡がりは大きい。様々な民族の様々な思想、あるいは思想可能体、が入り組み入り乱れて、そこにある。西暦紀元前はるかに遡る長い歴史。わずか数世紀の短い歴史。現代にまで生命を保って活動し続けているもの。既に死滅してしまったもの。このような状態にある多くの思想潮流を、「東洋哲学」の名に価する有機的統一体にまで纏め上げ、さらにそれを、世界の現在的状況のなかで、過去志向的でなく未来志向的に、哲学的思惟の創造的原点となり得るような形に展開させるためには、そこに何らかの、西洋哲学の場合には必要のない、人為的、理論的操作を加えることが必要になってくる。

そのような理論的、知的操作の、少くとも一つの可能性として、私は共時的構造化ということを考えてみた。この操作は、ごく簡単に言えば、東洋の主要な哲学的諸伝統を、現在の時点で、一つの理念的平面に移し、空間的に配置しなおすことから始まる。つまり、東洋哲学の諸伝統を、時間軸からはずし、それらを範型論的パラディグマテイクに組み変えることによって、それらすべてを構造的に包みこむ一つの思想連関的空間を、人為的に創り出そうとするのだ。

こうして出来上る思想空間は、当然、多極的重層的構造をもつだろう。そして、この多極的重層的構造体を逆に分析することによって、我々はその内部から、幾つかの基本的思想パターンを取り出してくることができるだろう。それは、東洋人の哲学的思惟を深層的に規制する根本的なパターンであるはずだ。(410-411頁)

亡くなる前年の1992年に書かれた「意識の形而上学」では、下のやうに述べられてゐる。

東洋哲学全体に通底する共時論的構造の把握 ―それが現代に生きる我々にとって、どんな意義をもつものであるか、ということについては、私は過去二十年に亘って、機会あるごとに繰り返してきたので、ここでは多くを語らない。要は、古いテクストを新しく読むということだ。「読む」、新しく読む、読みなおす。古いテクストを古い*1テクストとしてではなく····。

貴重な文化的遺産として我々に伝えられてきた伝統的思想テキストを、いたずらに過去のものとして神棚の上にかざったままにしておかないで、積極的にそれらを現代的視座から、全く新しく読みなおすこと。切実な現代思想の要請に応じつつ、古典的テクストの示唆する哲学的思惟の可能性を、創造的、かつ未来志向的、に読み解き展開させていくこと。

どの程度の成果が期待できるか、自分にはわからないが、とにかく私は、およそこのような態度で東洋哲学の伝統に臨みたいと考えている。(『中央公論』1992年5月号、301頁)

 本質に対する東洋哲学の基本的な姿勢

「意識と本質」では、本質といふ視点から、東洋哲学の構造化が図られる。あるものの本質とは、それが「何か」といふことだ。これは本だ、樹だ、海だ、声に出して言はなくても、私達は目の前に広がる世界の中に、様々な物を区別して(「分節化」して)生きてゐる。何だが分からないものが出現すると、サルトルの『嘔吐』の主人公のやうに、気持ちが悪くなる。

 しかし、これは表面的な意識の世界に囚はれてゐるからだ。

これに反して東洋の精神的伝統では、少なくとも原則的には、人はこのような場合「嘔吐」に追い込まれはしない。絶対無分節の「存在」に直面しても狼狽しないだけの準備が始めから方法的、組織的になされているからだ。いわゆる東洋の哲人とは、深層意識が拓かれて、そこに身を据えている人である。表層意識の次元に現れる事物、そこに生起する様々の事態を、深層意識の地平に置いて、その見地から眺めることのできる人。表層、深層の両領域にわたる彼の意識の形而上的・形而下的地平には、絶対無分節の次元の「存在」と、千々に分節された「存在」とが同時にありのままに現れている。

 常に無欲、以てその妙を観

 常に有欲、以てそのきょうを観る。*2

老子が言うのはそれである(『老子』一)。(16頁)

大乗仏教の空の思想は典型的な「本質」否定の考へ方だが、東洋思想の全てが「本質」を否定してゐるわけではない。

イスラーム哲学が区別する二つの「本質」

井筒は、「本質」を肯定する東洋哲学を、その「本質」が指すものによつて、三つに分けて論じるのだが、その前に、イスラーム哲学では二種類の「本質」を区別してゐることを紹介して、「本質」といふ言葉についての誤解を避けようとしてゐる。「これは何か」を示す「マーヒーヤ」と、「これであること」を指す「フウィーヤ」だ。

「マーヒーヤ」は、

現前するある個物(X)を指しながら、「これは何か」と問う、その問いにたいする答えとして与えられるもの、つまりXをしてXたらしめるX性であり、Xの永遠不変の自己同一性を規定するもの(41頁)

これに対して「フウィーヤ」は、

概念にはなんの関係もない、というより一切の言語化と概念化とを峻拒する真に具体的なXの即物的リアリティーである。(中略)「これであること」、いわば「これ性」を意味する。(42頁)

井筒の話は、「マーヒーヤ」と「フウィーヤ」の関係をどう考へるかをめぐつて、フッサール現象学芭蕉へと進むのだが、そこは省略して、本題である「本質」を肯定する東洋哲学の三つの立場について見ることとしよう。

第一の型:深層にある理としての本質

東洋哲学で「本質」を肯定する第一の型では、普遍的「本質」(マーヒーヤ)は実在するといふ立場を取るのだが、

しかしそれにすぐ続けて、実在するとはいっても、それは存在の深部に実在するのであって、存在の表面に現れているようなものではない、つまり我々の普通の経験において、表層的「······の意識」の「······」として認知される性質のものではない、と主張する。(72頁)

この第一の型の例として挙げられてゐるのが、中国宋代の理学だ。

中国宋代の儒者たちの理学も、「理」すなわち普遍的「本質」の探究である。彼らもまた、普遍的「本質」を真に実在するリアリティーと信じ、しかもそれを深層意識的に把握しようとする。(80頁)

 「本質」は深層意識にあるので、それに達するには訓練が要る。その意識訓練の方法が、「静座」と「格物窮理」(窮理)だ。

「静座」は心内のざわめきを鎮め、同時にそれと相関的に、心外すなわち存在界のざわめきを鎮める修行。「窮理」は、そのようにして次第に静まり澄みきった心の全体を挙げて経験的世界の事物を見詰めつつ、それらの事物の「本質」(複数)を一つずつ把握していき、或る段階まで来たとき、この「本質」追及のいわば水平的な進路を、突然、垂直的方向に転じて、一挙に万物の絶対的「本質」(単数)の自覚に到達しようとする「本質」探究の道。(82-83頁)

 万物の絶対的「本質」の自覚は、「豁然貫通」「脱然貫通」などと呼ばれる。

それは意識の、表層から最深層への飛躍突入であり、それはまた、存在表層に水平的に並ぶ事物の「理」の系列が、突然、垂直に方向を転じて存在深層に貫通し、存在のゼロ・ポイントに到達することでもある。存在のゼロ・ポイント、既に述べたように、それは、あらゆる経験的事物それぞれの「本質」を究極的に一に収斂し、しかもまた逆にそれらの「本質」を己れの自己分節として存在の経験的次元に成立される純形而上的「本質」にほかならない。すべての「本質」の究極の「本質」、「理」のまた「理」、「無極而太極」である。(93頁)

第二の型:根源的イマージュとしての本質

第二の型も、第一の型と同様に意識の深層に「本質」を探るのだが、

ここでは、すべて存在者の普遍的「本質」が、濃厚な象徴性を帯びたアーキタイプ、元型、として現われる。前にも全然別のコンテクストで言及したことのある、イスラーム哲学者イブン・アラビーの「有無中道の実在」やスフラワルディーの「光の天使」をはじめ、易の六十四卦、密教のマンダラ、ユダヤ教神秘主義カッバーラーの「セフィーロート」など、その例は多く、様々な形で東洋哲学の諸伝統を華やかに彩る。(73頁)

この第二の型は、シャマニズム、『荘子』などにも見られるが、かうした精神伝統を代表する人々にとつては、

吾々のいわゆる現実世界の事物こそ、文字通りの影のごとき存在者、影のまた影、にすぎない。存在性の真の重みは「比喩」の方にあるのだ。もしそうでないとしたら、「比喩」だけで構成されている、例えば、密教のマンダラ空間の、あの圧倒的な実在感をどう説明できるだろう。(203-204頁)

第二の型の本質は、「元型」として現はれるが、この「元型」は単なる抽象的な普遍者ではなく、「人間の実存に深く喰いこんだ、生々しい普遍者である。」

我々が常識的に現実とか世界とか呼んでいるものは、表層意識(A)の見る世界であって、それが世界の唯一の現われ方ではない。深層意識にはそれ独特の、まったく別の見方がある。深層意識の目には、表層意識を狼狽されるに足るような異様な形で、存在世界が現出する。つまり、さっき言ったように思想意識の存在分節が、表層意識のそれとは全然違う、ということだ。そして、この、深層意識独特の存在分節の基礎単位が「元型」イマージュである。(221頁)

井筒は、この「元型」イマージュと言語との関係を、空海ユダヤ教神秘主義カッバーラーの例を挙げて説明してゐる。

第三の型:表層で理知的に捉へた一般者としての本質

第三の型は、これまでの二つが深層意識的なものであつたのに対し、意識の表層を働かせて「本質」を捉へようとする。

目に見える、あるいは直接感覚的に認知できる個物の背後に、それらを超越する形而上的一般者を実在するものとして認めはするけれども、そのような普遍的「本質」を実際に形而上的体験を通じて直接無媒介的に捉えようとはしない。ただ理性的に、つまり表層意識的に、「本質」の実在を確認するにとどまる。そしてその上で、あるいはそれの構造を分析し、あるいはそこから出てくる理論的・実践的帰結を追求するのである。古代中国の儒学、特に孔子の正名論、古代インドのニヤーヤヴァイシェーシカ派特有の存在範疇論パ ダ ー ル タなど、その最も顕著な例である。(73頁)

西洋でのかうした考へ方の典型はプラトンイデア論で、それはソクラテスの「定義」追及を引き継いだものだが、井筒の次の指摘は重要だらう。

但し、ソクラテスの場合、求められるものは常に道徳的価値、人間の行為や性格の倫理的諸相の「本質」に限られていた。(295頁)

 この西洋のイデア論に東洋で対応するのが、孔子の正名論だ。

古代中国の代表的思想家、孔子、と古代ギリシャの哲人、プラトンとの間には、勿論、著しい相違がある。提起される哲学的問題も違うし、思惟方法も違う。だが、永遠不易の普遍的「本質」の実在性を信じ、それによって紛糾する感覚的事物の世界を構造化し秩序付けようとする根本的態度において、イデア論と正名論とは一である。(298頁)

 意識の構造モデル

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意識の構造モデル

 以上が、東洋哲学の「本質」肯定の三つの型だが、井筒は、第二の型の説明に際して、上図のやうな意識の構造モデルを提案してゐる(214頁)。

Aは表層意識、その下は全部深層意識で、B、C、Mに分かれる。最下点にあるのは「意識のゼロ・ポイント」。全ての分節の根源である無分節の境だ。これに続くCは無意識の領域。全体的に無意識ではあるが、B領域に近付くにつれて次第に意識化への胎動を見せる。B領域は「言語アラヤ識」の領域とされる。「言語アラヤ識」は、井筒の用語で、次のやうに説明されてゐる。

この領域には、まだ「本質」として定着できない、あるいは結晶しきれない、無数の浮動的な意味体が、結びつ解かれつしながら流れている。無意識奥底のこの紛糾の場において、唯識哲学のいわゆる存在「種子ビージャ」が形成されていく。そしてそれらの「種子」が、機会あるごとに潜勢態を脱して「転識」的意識の表面に現勢化し、そこに「本質」を作りだして経験的事物を分節する。(130頁)

 BとAの間に広がる中間地帯Mが、「想像的」イマージュの場所。B領域で成立した「元型」は、このM領域で、様々なイマージュとして生起し、そこで独自の機能を発揮する。

人の心に意識と無意識の領域があるといふことは、洋の東西を問はず認められてゐるだらう。ただ、意識と無意識がどのやうに係るのか、どのやうな構造を持つてゐるのかについては、議論が分かれるところだ。

この図が示してゐるやうに、東洋哲学では、意識には外からの刺激だけでなく、内から湧き出てくるものがあるとされる。それは、単なる夢想だとは限らない。ベルクソンは『物質と記憶』で、人間の知覚では外からの刺激と内から出てくるイマージュが輪のやうになつてゐると述べてゐる。ベルクソンが言ふイマージュは過去の記憶が外からの刺激に対応して意識に上つて来たものだが、外部の刺激や過去の記憶とは無関係に浮かんでくると思はれるイマージュもある。外界とは離れた、独自の論理を持つ心の世界が想定されてゐるのだ。

「意識と本質」の先に

以上、「意識と本質」で説かれてゐる東洋哲学の本質論を整理したが、上記の三つの型の他に、本質を全く認めない禅のやうな思想もある。長くなるので省略したが、この論文には禅の解説もあつて、非常に興味深い、それだけでも読む価値があるものだ。

井筒の最後の著作となつた「意識の形而上学 ― 『大乗起信論』の哲学」は、「東洋哲学覚書その一」とされてゐる。夫人による「あとがき」によれば、その後、言語阿頼耶識唯識哲学の言語哲学的可能性を探る)、華厳哲学、天台哲学、イスラームの照明哲学(スフラワルディー・光の形而上学)、プラトニズム、老荘儒教真言哲学と続いていく予定だつたさうだ(山崎達也氏の論文に拠る)。「意識と本質」は導入、あるいは総論で、その後に各論が展開される予定だつたといふことだらう。

それぞれの哲学について井筒の話を聞くことができないのは残念だが、「意識と本質」だけでも、多彩な東洋哲学を見渡すことができる。これを残して呉れたことに、感謝すべきだらう。

*1:太字は、原文では傍点。以下の引用でも、同じ。

*2:中公「世界の名著」の小川環樹訳では、「永久に欲望から解放されているもののみが『妙』(かくされた本質)をみることができ、決して欲望から解放されないものは、『』(その結果)だけしかみることができない」となつてゐる。「本質」といふ言葉が使はれてゐるので紛らはしいが、「妙」は真の姿、「」は上辺の見かけ、だと考へれば良いだらう。