あるがままの自分とは

久しぶりにアラン(1868-1951)のプロポから(1912年11月18日付け)。

昨日、面白い理窟を読んだ。「率直でなければならない。これが最初の義務だ。誰でも自分のあるがままを見せねばならない。そして第一に、自分のあるがままを知らねばならぬ。一人の女に欲情を抱く。私は先づ、目を背けることなく、自らそれを認め、それから他の人達に対してもそれを告白せねばならない。もし逆に、例へば他のものに考へを逸らすことで、それを自分自身に隠すとしたら、私は自らの目の前で偽善者となり、徳を演じる喜劇役者となる。この麗しい方法によれば、誰も自分自身ではなくなる。誰も他人に自分のあるがままを見せなくなる。かうして、最初の徳が他の徳目をすべて殺すこと、道徳が道徳を壊すことがわかる。善い行ひといふのは、結局、どれもが恐れ、偽善、礼儀から来る。例へば良い人になりたいと思ふ。しかし、それは私が良い人ではないことを示してをり、私の善良さは他の人達を欺くための仮面でしかないことを示すのである。」

この理屈は、あの人達が心理学と呼ぶものをうまく定義してゐる。あるがままの自分自身を見つめる努力だ。しかし、それは不可能だ。何故なら、最初に自分をあるがままに捉へ、何も変へようとしてはならないからだ。もしそれが出来たら、心理学者はある種の怪物になるだらう。人の性格の根本は、騒ぐ心を飼ひ馴らす心の統制なのだから。統制に強弱があるのは、その通りだ。しかし、子供じみた怒りの動きや、適切とは言へない欲望、自分でも恥づかしい妬み心を抑へようとしない人はゐない。この統制の働きを投げ棄てる人は、狂つてゐる。絶対に自分に正直であらうといふ考へから、この働きを一時止めようと努める人は、自分自身を変へ、酷く傷つけることとなり、従つて全然正直でも、まじめな観察者でもなくなる。告白といふ慣習は、この危険な空論を実行に移してゐて、ほとんど火に油を注ぐやうに、迷ふ心をでつち上げた罪に向けて放り出してゐた。

例を挙げよう。ある人が自分の中に、戦争のための戦争を愛する心があると気づく。健全な道徳によれば、この動きは理性と意志によつてすぐに消される。しかし、もしあなたが、対象物を科学的に観察しようといふ欲望の支配に身を任せると、それが生き延びるのを許し、あなたは好戦的になる。自分の性質や性格を受け入れることで、あなたは満足するかも知れない。だが、あなたは大事なことを忘れてゐる。要するに、人の本質は自分を変へるための努力にあるといふことだ。「私はこの怒りや興奮の動きを乗り越えることができない」と、あなたは言ふ。「この悲しみや憎しみには勝てない。独自の法則に従つて大きくなるのだから。」これは全くの事実だ、もし、それが事実であることを容認すれば。否定すれば、事実ではなくなる。ここが、私の性格が木片や鉛の玉のやうな物の性質とは異なるところだ。物はあるがままに受け入れる他はない。他方で、あるがままの私を受け入れるといふのは、自分ではないものを自分と捉へるといふことだ。卑怯者の詭弁である。

翻訳が拙いので、アランの言ひたいことがうまく伝はるかどうか分からないが、別の言葉で言へば、人間の性格とは既に決められてあるものではなく、自ら選び取るものだ、といふことになるだらう。自分とは「ある」ものではなく「なる」ものなのだ。「自分はどんな人間なのか」といふ問ひは、「自分はどこに行きたいのか」といふ問ひと似てゐる。

 アラン自身が「統制に強弱があるのは、その通りだ。」と認めてゐるやうに、意志の力で全てが変へられる訳ではない。生まれ持つた気質といふものは確かにある。しかし、何が変へられ、何は変へられないのかを予め知ることはできない。変へる努力をしてみる他に、知る術はない。

これは現実の姿(sein存在)とあるべき姿(sollen当為)との違ひを区別する、といふ問題だとも言へるだらう。人は、あるべき姿を考へることができる。それは、人が選ぶ力を持つてゐることを意味する。

世の中には、この自由意志を否定する意見もある。さういふ主張をする人にとつては、あるべき姿といふ言葉は意味を持たない。私達が何を望み、何を考へようと、すべては決められてゐて、なるやうにしかならないのだから。これこそ、アランの言ふ「卑怯者の詭弁」だと言ふべきだらう。

何があるべき姿かといふ問題は、簡単ではない。時代や文化が違へば、答へも異なる。しかし、社会が秩序を保ち、人が意味のある人生を生きるためには、何らかのあるべき姿が必要だ、といふことは時代や文化を超えた真理だ。