在るものと在るべきもの

アラン(1868-1951)が1912年12月2日に書いたプロポ。

最後には信仰といふものが分かるだらう。それで神学論争は終はる。この道を照らすのが偉大なカントの著作だ。しかし彼の著書に読者は尻込みする。それは無理もない所だ。仕事や趣味でカントを読む人達は、理解するよりも批判しようとする。苦労した分を何とか小さな勝利で取り返さうとするのだ。
私の意見では、カントの中心的な考へは以下のやうなものだ。物事には二つの秩序がある。在る秩序と人が志すので成る秩序だ。在るものの象徴は、私達の頭上の星が輝く空だ。在るものを発明することはできない。認めなければいけない。志すのではなく、頭を下げなければいけない。広大な世界に向かつて議論するのではなく、自分に向かつて議論せねばならない。例へば、外にあるものが現実のものかといふ子供じみた議論はしない。それ以外に現実は無いのだから。そこに身を置いて、しつかりと記述し、測る。概念を用ゐて経験に秩序を与へる。経験を置き換へるのではない。神が在るかを探ることはしない。それは世界が良いのか悪いのかと自問することになる。世界は良くも悪くもなく、在るのだ。だから、ここでは信じるのではなく知るのだ。希みも絶望も持たず、小さな嘘も大きな嘘も無しで、必然性を見つめること、これが理論的な叡智だ。正義が在ると言ふ人達は嘘つきか、もつとよくあるのは、心が弱くて、知ることだけが問題なのに信じようとする人達だ。
正義は存在するのではない。正義が属するのは、無いからこそ作らなければいけないものの秩序だ。正義は、人が為せば成る。これが人間の問題だ。
ここで顕微鏡や望遠鏡の焦点を合はせようとしないやうに。正義が見つかることはない。正義は無い。諸君が志せば成るのだ。認めることや見つめることしか知らない人は、かう応じるだらう。「私もそれを志したい。しかし、既に在るのでなけれは、どうして在ることが可能になるのか。この世界では、そこに含まれてゐるものしか現れない。だから私は正義を志すのではなく、探すのだ」と。しかし、それでは二つの秩序を混同することになる。私は、正義が成るかどうか知らない。まだ無いものは知る対象ではないからだ。しかし、私はそれを志さなければいけない。それが人の仕事だ。それに、信じないでどうして志すことができるだらうか。それでは、志す振りをして心の底では「私が志しても何も変はらない」と言ふことになるだらう。勿論、君が志すといふのがそんな調子なのならば、君の言ふ通りだ。正義は成らないだらう。私は正義は成ると信じなければいけない。これが、神学の雲をつかむ議論からやうやく自由になつた信仰の対象だ。 
人々が、信じなければいけない、信じることは人の一番の義務だ、と主張する時、全く誤つてゐる訳ではないのが分かる。ただ、彼らは何か在るものを信じようとしたのだ。信じるべき対象は、無いもの、だが在るべきもの、志すことで成るもの、なのに。だから信じるといふのは、結局、自らの志を信じることになる。これをオーギュスト・コントは、存在する唯一の神は人間であり、摂理とは人々の合理的な志に他ならない、と彼流に言ひ表した。バレス*1は教会に関して本当の言葉を見出すことはないだらう。彼は信じてゐないからだ。

この頃のプロポは、 Dépêche de Rouenといふ地方の新聞に連載されたコラム記事だつた。読者としては一般の人々が想定されてゐる。

カントは、プラトンデカルトと並んで、アランが愛読した哲学者だつた。日本でも、「デカンショ節」のデカンショデカルト・カント・ショーペンハウエルの略であるといふ説もあるやうに、大正時代や昭和の初めには、学生は一度は手に取つてみる本とされてゐた*2

アランは、オーギュスト・コント(1798-1857)の「存在する唯一の神は人間(Humanité)だ」といふ言葉を引いてゐることからも伺はれるやうに、人間中心の合理主義的な考へを持つてゐた。人間の意向とは関はりなく存在してゐる物の世界とは別に、人間が自らの意志で創り上げる世界があると考へてゐた。

文中で、在るものの象徴として挙げられてゐる「私達の頭上の星空」は、言ふまでもなくカントの『実践理性批判』に出て来る次の有名な一節を踏まへたものだ。

それを考えること屡々にしてかつ長ければ長いほど益々新たにしてかつ増大してくる感嘆と崇敬とをもって心を充たすものが二つある。それはわが上なる星の輝く空とわが内なる道徳的法則とである。(波多野精一、宮本和吉訳 岩波文庫版225頁。フォントの関係で一部表記が異なる。)

 近代の物理学は天文学から始まつたとも言へるのだが、ニュートン力学はカントにとつて常に正しい知識の典型例だつた。どうして人間にそのやうな絶対的な知識を得ることができるのか、といふ問ひが『純粋理性批判』の出発点だつたが、そのニュートン力学の自然観は、相対性理論量子力学によつて大きな修正を迫られた。合理主義も、精神分析や解釈学によつて、その根拠が脅かされてゐる。

とは言へ、私達の好むと好まざるとに関はらず厳然と存在してゐる世界と、私達が築き上げることができる世界、私達の意志が無ければ成り立たず、すぐに崩れてしまふ世界とを区別するといふものの見方は、今でも有効なものではないだらうか。

 

*1:フランスの政治家で、フランス国粋主義の中心的な人物だつたモーリス・バレス(1862-1923)を指すと思はれる。

*2:1926(大正15)年生まれの渡邉恒雄氏は、哲学科の出身といふこともあるだらうが、出征の際に『実践理性批判』を持つて行つたとインタビューで語つてゐた。