物の世界と人の世界

アラン(1868-1951)の1913年1月10日付のプロポ。

人の性格は互ひに異なる二種類の経験によつて形作られる。物の世界と人の世界といふ二つの世界があるからだ。自分の持物を相手に働く農夫は、多くの物に頼り、人には殆ど頼らない。逆に、長官、副知事、ネクタイ屋、物書きは、物には殆ど頼らず、多く人々に頼る。政治家は他の誰よりも人々に頼る。似たやうな定めを持つのは、役者くらゐだらう。ここから、全く異なる人柄が形づくられ、考への向く先が別になる。ここで考へと言ふのは、実際に考へてゐることで、学校で学んだ言葉ではない。私がこんな事を思つたのは、蹄鉄を打つ村の鍛冶屋を見てゐた時だつた。良い顔、礼儀、お世辞、そしてどんな形の祈りを以つてしても、槌の一振りでも省くことはできない。知識にも打ち方にも多い少いはあるが、駆引きは無しだ。彼の鉄は、彼が作つたままだ。鉄が良いものだとすれば、彼は認められる。彼の運命は彼自身、その眼、その腕に多く依存する。その才能を言ひ争ふ余地はない。自分の嘘や他人の嘘は何にもならないだらう。友情や憎しみでも大して変はらない。仕事柄、信心深くはない。他の人とは違ふのが、彼の強みだ。物の世界の法に従ふこと、これが彼の分別だ。槌を打つことで考へる。それで上手く考へてゐるのだ。私達が科学と呼ぶものは、全て、物への働きかけだけを前提としてゐる。数学者もこちら側だ。数も形も、祈りを相手にはしないのだから。
しかし、人を動かすには祈りしかない。気に入られなければならない。諂(へつら)はねばならない。人々と同じやうに語り、同じやうに考へねばならない。要するに他人に似ることだ。役者は観客を真似る。弁護士は始めに訴訟人を、次いで裁判官を真似る。私は「裁判官が跛ならば足を引きずることを学べ」といふ中国風の諺を考へ出す。演説家は聴衆のさわぐ心に合はせる。だからプラトンは、弁論術は、料理のやうに、一種の諂ひだと言つてゐた。仕事が人を形作る。時計を直したいのなら、うまく行くかは私次第だ。私は全ての注意力を注ぐ。私の考へは、全て外に出てゐる。この鉄や銅の部品には、さわぐ心も悪意も無く、それぞれの形に従つて押し合ふだけなのだから。しかし、銀行家の仕事をしたり、起業するのならば、この種の見方は適さなくなる。逆に、如才なさ、礼儀、感情を表さないこと、だ。見る眼よりも人の気に入る眼だ。信じれば山も動く、と言へるのはこの時だ。信念は感染(うつ)るからだ。信念は人を動かすのだ。問題は何かを為さうとすることよりも、願ふことなのだ。即興が決まりだ。何を言へば良いのか、予測できないのだから。そして、効果はいつも不確かなのだ。そこから、運命論による怠けや、哀れむべき考へ方、子供の理屈、そして驚くべき成功が出て来る。しかし、職人は、立派な者もさうでない者も、統べることを知らない。人間的な事柄の性質上、職人が栗を拾ひ、食べるのは喜劇役者だ。

 このプロポを読むと、この国の文系と理系といふ問題を思ふ。文系は人の世界に住んでをり、理系は物を相手にしてゐる。アランの言ふやうに、仕事によつて異なる物の見方を身につけるやうになるのは自然なことだが、両者を繋ぐ共通の教養といつたものも必要だと思ふ。

コロナ禍への日本政府の対応を見てゐると、政治家と専門家の意思疎通がうまく行つてゐないと感じる。政治家は、物の世界の論理が分かつてゐないのではないか。「為せば成る」、全力で取り組めば出来ないことは無い、といふ考へ方をしてゐるやうに見える。うまく行かないのは、言ふことを聞かない奴がゐるからだと思つてゐるのではないか。しかし、残念ながら物の世界には、どんなに頑張つても無理なことがあるのだ。ウイルスとはどのやうなものか、感染を防ぐには何が必要か、といつた事柄について、全く知識が無いのでは、政策を考へることなど出来ないだらう。人を動かすのが政治家の仕事だが、ただ「頑張れ」と言ふだけではなく、基本的な方針を示さなければ、大きな組織は動かない。

専門家の方も、事実を述べるだけでは済まない人の世界について、理解が不足してゐる場合もあつたのではないか。そもそも、新しい事態を前に、断言が難しいことも多いだらう。政治家が明確な発言をしないので、心ならずも発言せざるを得ない場面もあつたやうに見える。自分達の発言に対する社会の(とは言つてもSNSといふ限られた社会かも知れないが)反応に驚くこともあつただらう。

文系の物の世界に対する理解の不足は、この国の情報通信技術の立ち遅れの一因になつてゐるし、他方で、人の世界についての無理解が、理系の総理大臣の突飛な言動を生んでゐるやうに思はれる。

専門化が進んで知識量が爆発的に増える現代では、知らない事が多いのは当たり前だ。その中で、社会的な意思決定をどのやうに行ふか、その基礎となる共通の教養をどう育てるか、が問はれてゐる。

人の世界についての教養は、例へば社会科教育のあり方の問題になるが、既存の制度がどのやうなものかを教へるよりも、「何故」を教へることが大切ではないだらうか。日本人に制度設計の意識が乏しいのは、様々な制度の良し悪しを比較するといつた訓練が足らないからだといふ気がする。