本当の話はどこで聞けるのか

日本はなぜ戦争に敗けたのか

要らない書物を整理しようとして、『文藝春秋』2005年11月号の特集「日本敗れたり あの戦争になぜ負けたのか」を見つけ、捨てる前に読み返してみた。半藤一利、保坂正康、中西輝政福田和也加藤陽子、戸髙一成といふ面々の座談会である。*1

  1. 対米戦争の目的な何だったのか
  2. ヒトラーとの同盟は昭和史の謎
  3. 開明派・海軍が持つ致命的欠点
  4. 陸軍エリートはどこで間違えた
  5. 大元帥陛下・昭和天皇の孤独
  6. 新聞も国民も戦争に熱狂した
  7. 真珠湾の罠 大戦略なき戦い
  8. 特攻、玉砕、零戦戦艦大和

といふ9つのテーマについて語り合はれてゐるが、いろいろな観点からの指摘があつて興味深い。三国同盟にはドイツ側からの強い働き掛けがあつた、とか、日本陸軍には共産主義者がゐた、とか、西南の役で海軍の担ひ手であつた薩摩閥の力が弱まり「陸主海従」となつて海軍は陸軍に吸収されることを恐れてゐた、とか、昭和十年代の軍人は同時代の政治家に較べると識見が高かつた、とか、日本の潜水艦が活躍しなかつたのは海軍の人事の問題だ、とか、日本兵の大反乱が起きなかつたのは国民が対米英戦を「自存自衛」の戦ひだと理解してゐたからだ、とか。

かうした専門家の話し合ひを読んでゐると、現実は多様で、「あの戦争になぜ負けたのか」といふ表題で掲げられた問ひへの答へは何だか分からなくなる。加藤氏は「敗戦の理由ということでいいますと、まあ敗けるべき戦争を始めてしまったことに尽きますが、日本の場合は、日露戦争の影響が強すぎたんじゃないかと思います。」と言つてゐる。

歴史における「原因」とは

「敗けるべき戦争を始めてしまったこと」といふのでは、殆ど理由になつてゐないやうにも思はれるが、そもそも、「理由」とか「原因」とかいふ言葉が何を指してゐるのかを、きちんと考へて置くことが大切だらう。何か出来事があると、それには必ず原因があるはずだ、人はさう考へる。しかし、原因は本当にあるのか。どうすれば何が真の原因だと分かるのか。

「原因」は、山や川のやうに自然に在るものではない。人が行動の便宜のために考へ出したものだ。だから、誰が何をしようとして物事を見るかによつて、様々な「原因」があり得る。「原因」をさぐるのは、戦争の例で言へば、戦争を起こさないため、負けないためなどの目指すところがあるからで、その「原因」を消し去れば、戦争が起きない、戦争に負けないといふ結果が得られることが期待されてゐる。(敵対国の混乱を狙ふ人達にとつては、どうすれば戦争が起こせるかといふ問題意識から、戦争の原因を考へることもあるだらうが。)

この「原因」を探して望ましくない結果を招かないやうにするといふ作業が成り立つには、「原因」の数が余り多くなく、人の力で「原因」を無くせることが必要だ。例へば火事。火事の原因は一つではない。火の不始末が原因だとすれば、火の用心を呼びかける。漏電が原因だとすれば、漏電遮断器を付ける。落雷が原因だとすれば、避雷針を付ける。放火を防ぐには、厳しい刑罰を科して抑止したり見回りをしたりする。かうした作業を繰り返し行へば、火事は確かに減らすことが出来る。

ウイルスの変異を防ぐことはどうか。変異は遺伝子の一部が変はることで起きる。遺伝子の一部が変はるのは、ウイルス自体の内部的な理由によるウイルス複製の際の小さな失敗や放射線などの外部からの刺激が原因だらう。さうした様々な「原因」を人間が無くすことはできない。変異したウイルスに対応するワクチンや治療薬を作るといふ事後的な対応をするか、ウイルスを根絶して変異できなくするか、といふことになる。

戦争のやうな規模が大きく複雑な現象になると、その「原因」を絞り込むのは難しくなる。仮に「敗けるべき戦争を始めてしまったこと」が原因だとして、なぜそのやうな戦争を始めたのか、といふ「原因の原因」が問はれることになり、問題は広がつて行く。日露戦争による驕り、国内政治の腐敗による軍部の台頭、ABCD包囲網による経済的な困窮など、様々な要因を挙げることができるだらう。

かうした複雑な現象についての原因を考へることで、新たな戦争を防止できるかどうかは、分からない。原因は一つではないし、それが人の力で制御できるといふ保証もないのだから。また、時代が変はれば周囲の状況も異なる。

他方で、歴史を漫然と眺めてゐても、複雑な動きに目が眩むばかりで、その姿を捉へることはできない。何らかの問題意識を持ち、その観点から見ることで、歴史について語ることができるやうになる。歴史における「原因」とは、さうした一定の視点に基づく、頭の整理のための道具なのだと言ふべきだらう。

本当の原因を知るには

歴史における原因が上に書いたやうなものだとして、日本があの戦争に負けた本当の原因は何だらうか。その答へは一つではないし、観点によつて異なることは既に述べた。大切なのは、事実に即して、重要な原因と考へられるものを漏れなく数へあげることだ。そのためには、『文藝春秋』の座談会のやうに、異なる分野の専門家が集まつて意見を交はすことが欠かせない作業となる。さうした意見交換を行ふための場が必要になる。

「事実に即して」と書いたが、何が事実かを決めることも、必ずしも容易ではない。フェイクニュースの時代には、意図的に事実を歪めようとする人達が暗躍する。例外的な事実を強調して、全体の印象を変へるといふのも、よく見られる手法だ。

テレビの党首討論が詰まらない、見てゐても役に立たないのは、出席者が票を集めるといふ目的だけを考へてゐて、視聴者の印象を自分に有利なものにするために、断片的な「事実」を並べるからだ。上記の座談会で、戦争ほど新聞が儲かるときはないので、朝日新聞毎日新聞(当時は東京日日)が報道合戦をした、といふ事実が指摘されてゐるやうに、報道機関にも弱点がある。

何が重要な事実なのかを、バランスよく列挙するためには、票だとか視聴率だとかいつた目先の目的に囚はれないで語りあふ場が必要なのだ。時には自分の誤りも素直に認めながら、それぞれの専門的な知識に基づいて、意見を交はすことができる場だ。*2

新しい試みの例

さうした場を作る新しい試みも、出てきてゐる。東浩紀氏が創業したゲンロンが運営してゐるシラスもその一つだ。視聴回数に応じて宣伝費が手に入るYoutubeでは、どうしても数を稼ぐための内容になる。シラスは、有料にすることで、数はすくなくても質の高い視聴者を集めようとしてゐる。

トイ人も、興味深い試みだ。これは今のところ意見交換の場ではなく、学問の成果を普及させるための試みだが、クラウドファンディングによつて資金を集め、「アカデミックSNS」を作らうとしてゐる(詳細はこちら)。

インターネットといふ便利な道具で、情報の発信に必要なコストは殆どゼロになつたが、その結果、ネットを流れる「情報」の質は低下し、フェイクニュースのやうに、人を正しく導くのではなく道を誤らせるために流される「情報」まで出て来たのが現状だ。

この状況が、シラスやトイ人のやうな新しい試みによつて変へられ、インターネットが人々にとつて本当に有益な道具へと発展することを期待したい。

 

*1:この座談会は2006年に文春新書になつてゐる。第一部に座談会の記録が、第二部に出席者の「あの戦争に思うこと」が載せられてゐる。

*2:そもそも事実とか真実は、一人で決めるものではない。アインシュタイン相対性理論を考へ出したやうに、科学の世界では、一人の力で新しい真実が見いだされると見える。しかし、仮に、アインシュタインの主張を裏付ける実験ができなかつたとすれば、誰が彼の説を信じただらうか。たとへ信じる人があつたとしても、それで彼の説は真実になつたと言へるだらうか。

真実といふのは社会で共有されて初めて真実になると考へるべきだらう。一人だけの真実といふものもあり得るが、それはあくまでも個人的なものに過ぎない。社会的に意味を持つ真実は、共有されなければ成り立たない。それを裏付けるための作業がなければ、真実にはならない。仮に、たつた一人しか理解できない説が正しいものだとしても、それだけでは社会は動かせない。社会的には存在しないのと同じなのだ。