宇宙「神々を作るための機械」

ベルクソン(1859-1941)の最後の著作『道徳と宗教のニ源泉』は、次のやうな言葉で締め括られてゐる。

Mais, qu'on opte pour les grands moyens ou pour les petits, une décision s'impose. L'humanité gémit, à demi écrasée sous le poids des progrès qu'elle a faits. Elle ne sait pas assez que son avenir dépend d'elle. À elle de voir d’abord si elle veut continuer à vivre. À elle de se demander ensuite si elle veut vivre seulement, ou fournir en outre l’effort nécessaire pour que s’accomplisse, jusque sur notre planète réfractaire, la fonction essentielle de l’univers, qui est une machine à faire des dieux.

小林秀雄(1902-1883)は、この部分を次のやうに訳して引用してゐる。

人々は、大きな手段、小さな手段、のいづれを選ばうとも、一つの決斷をすることを迫られてゐる。人類は、自分の手に成つた進歩の重みに、半ば壓し潰(つぶ)されて、呻(うめ)いてゐる。人類は、自分の未來は、自分次第のものだ、といふ事を、まだ十分承知してゐないのである。先づ、これ以上生存したいのかしたくないのかを知るべきである。次に、自ら問ふがよい、その外に、神々を作る機械に他ならぬ宇宙の本質的な機能が、反抗的なわれわれの地球に於いても亦、遂行されるのに必要な努力をしたいかどうかを」(小林秀雄全集(第五次)別巻Ⅰ18頁)

日本語とフランス語では語順が違ふので印象が異なるが、「神々を作るための機械」”une machine à faire des dieux”といふ言葉は、この本の一番最後に出て来る。QUADRIGE/PUF版の注釈にもあるやうに、『道徳と宗教のニ源泉』は『思想と動くもの』よりも前に出版されたが、執筆されたのは後なので、これがベルクソンが公のために書き残した最後の言葉だといふことになる。小林秀雄は、「かういふ一種豫言者めいた、一種身振のある樣な物の言ひ方は、これまでベルグソンの書いたもののうちには、絶えてなかつたものなのである。」「今、これが遺言だつたと知つて、不見識な話だが、成る程、さういふ次第であつたか、と思つてゐるのである。」と書いてゐる。*1

宇宙が神々を作る機械だといふ言葉は謎めいてゐるが、ここで「神々」といふのは人間を指すと考へて良いだらう。QUADRIGE/PUF版の注釈では、ジャック・シュヴァリエ(1882-1962)の『ベルクソンとの対話』に出て来るプジェ神父(1847-1933)の次のやうな言葉を引用してゐる。*2

確かに、ベルクソンは「人があるべき姿になつた時のやうな、神的な存在を作る機械」と言つても良かつただらう。しかし、詩篇の第八十二章には、「かみは神のつどひの中にたちたまふ 神はもろもろの神のなかに審判(さばき)をなしたまふ」と書かれてゐるではないか。もろもろの神といふのは、人間であり、裁く者達であり、「高き者」の子等なのだ。(QUADRIGE/PUF版 510頁、『ベルクソンとの対話』では1932年2月29日付けの部分。)

この言葉を書いた時にベルクソンがどのやうな宇宙を思ひ描いてゐたのかは分からないが、「私達は星屑から出来てゐる」といふカール・セーガン(1934-1996)の言葉が思ひ出される。1980年に米国で放送された『コスモス』といふ番組で述べた言葉だ。

The nitrogen in our DNA, the calcium in our teeth, the iron in our blood, the carbon in our apple pies were made in the interiors of collapsing stars. We are made of starstuff.

実際に、現在の科学によれば、私達の身体を構成する様々な元素は、星の内部で核融合により生じたとされてゐる。ヘモグロビンに含まれる鉄も、その一つだ。ネットで検索してみると、旧新日鉄が出してゐたNippon Steel Monthlyといふ雑誌に載つた「鉄の起源」といふ良い解説記事があつた。ご一読をお勧めする。また、「人間の材料はどこから来たのか?」といふ国立天文台が作つた図も、参考になる。

 セーガンは、同じ番組で、次のやうな言葉も残してゐる。
We are a way for the universe to know itself.
人間は宇宙が自らを知るための道だ、といふのはどういふ意味だらうか。そもそも何故、宇宙は自分を知る必要があるのか、などと考へ始めると訳が分からなくなるが、宇宙に生命が生まれ、人間が出現して、宇宙の姿を知るに至るといふのは、奇蹟的な出来事であることは確かだ。
童謡「ぞうさん」でも知られる、まどみちお(1909-2014)の詩を思ひ出す。
「きこえてくる」
 
土の中から きこえてくる
水の中から きこえてくる
風の中から きこえてくる
 
ここに 生まれ出ようとして
小さな 数かぎりない生命(いのち)たちが
めいめいの階段を のぼってくる足音が
 
ここに 生まれてきさえすれば
自分が 何であるのかを
自分の目で 見ることができるのだと
心はずませて のぼってくる足音が
 
いったい だれに きいたのか
どんな物をでも そのままにうつす
空のかがみと 水のかがみが
ここに たしかにあることを
ここが 宇宙の
「かがみの間」で あることを
 
土の中から きこえてくる
水の中から きこえてくる
風の中から きこえてくる
 
小さな 数かぎりない生命たちが
ここへ ここへ ここへと
いま ちかづいてくる足音が

 

*1:小林秀雄が、「遺言」だと書いてゐるのは、文字通りの意味ではなく、ベルクソンの遺書は別にある。小林もそこから、ベルクソンが自ら発表した著作以外の講義録、書簡等の公表を禁じた部分を引用し、「彼は、「道德と宗敎の二源泉」で、眞の遺書を書き終へた、と念を押したかつたのであらう。」と言つてゐる。(小林秀雄全集(第五次)別巻Ⅰ17頁)

*2:この注釈では、Edmond Rochedieuの論文についても取り上げ、同氏の「麗しい言葉だが、本の論旨とはうまく合はない」といふ主張に反論してゐる。