顔を躾ける

アラン(1868-1951)の1922年3月4日付けのプロポ。

誰もの顔に飛んでくる類(たぐひ)の表情がある。話すのを止められないお喋りのやうに、露(あらは)にするのを止めることができない目、鼻、口がある。新聞を買ふ時にも、偉さうな人、脅すやうな人、決然とした人、あるいは陰気な人や、馬鹿にしたやうな人がゐるのが分かる。私の知合ひは、いつでも笑つてゐた。これは悲しい特権で、人を愚かにする。賢さうな風の人は気の毒だ。それは守れない約束だから。言つてみれば、顔が最初に考へて、実際の会話は、無言の返事といつまでも折り合ふことがない。ぎこちなさは、主として、自ら望んではゐないのに送り出してしまふこの伝言によつて生じると、私は考へてゐる。伝言の意味は、本人も知らないのだ。鼻や眉や口髭の具合で刺客の顔をした人に出会ふと、私には、臆病で、そのために凶暴にもなり得る人が見える。衣装を着けてはゐるが、役が何なのか知らない役者のやうだ。

この小さな禍(わざはひ)から、望まないことは何も表さないやうに顔を躾(しつ)けるべし、といふ昔ながらの礼儀の決りが出て来る。主(あるじ)である心は、先づ、避難所に隠れるやうに、中立的な見かけの後ろに引き下がらねばならない。この用心をしないと、見かけの虜(とりこ)になり、いつでも返事が間に合はないこととなる。心や感情は、そして美しさでさへ、先づ隠されるべきもの、取つて置くべきものなのだ。人の顔は、かうして表すのを拒むことで完成し、言つてみれば裏返しになる。これにより自身のなかに身を隠すのだ。他人の中のかうした逃走を一筆(ひとふで)で追ふことは、画家の仕事だ。写真家には出来ない。美しい顔の人がこの大きな秘密をよく知つてゐるとは言へない。かうしてその人物は物見高い人々の餌食となる。微笑みが価値を持つには、先づ鏡や家具に向かつて微笑まないことだ。『パルムの僧院』には、眼が見るものと会話してゐるかのやうなブルジョワ娘が出て来る。この馬鹿げた小娘を神のやうなクレリアと比べてみ給へ。クレリアの顔には、演技ではない無関心しか表れてゐなかつた。しかし、我々の文学陳列室で一番美しい肖像は、多分、『村の司祭』のヴェロニクだらう。驚くほど美しい娘で、その表情は痘瘡で暗く仮面を被つたやうになつてゐるが、深い感情の効果で元の美しさを取り戻す。女性の真の力とは、望むときに美しくなれるといふことだらう。全ての女性の本物の力とは、さういふものだ。美しさとは、多分、この美しさの巡りに他ならないだらう。心の豊かな女性は、絶えず新しい姿を見せる。画家にはやるべき事がたくさんある。この動く魔法を表現しなければならないからで、それが「絵を生かす」といふことだ。

それは効果によつて感じ取ることができる。また、本物の媚(こび)は、気に入られることを避けようとする。その最も正しい動きとは、美しくあるのを拒むことだ。知性にはいつでも、理解しすぎるのを拒むことが含まれてゐるやうに。それは結局、自然のものを低く見て、心を許すことの価値を高めることだ。ここで私は母から娘への教へを書いてゐるやうだが、私の意図は別にある。見る者への効果を考へてゐるのではない。関心があるのは、印が返つて来て送り手に強く働きかけるといふ点だ。美しさも、褒めそやしに応へると醜くなる。私が言ふことの証拠はすぐに見つかるだらう。包まれてゐない美しさは、やがて多少の気難しさ、不安、ある種の攻撃的な愚かさを示すやうになる。同様に、注意深さの印は、注意を殺す。観察者は、一番良い状態にあるときには、ぼんやりしてゐるやうに見える。

人の顔が、そのあらゆる面で私達を欺くことは、これで十分述べた。そして、私は悲劇の仮面といふものがよく分かるやうになる。それは変はらない形で、役を告げてゐる。貧しい人の顔では、大きな集まりを整へるには強さが足りなかつたのだ。

思ひついたことを何でも口にするのが不躾(ぶしつけ)なことは常識だらうが、美しさも隠すべきだといふのは、意外に思ふ人もゐるかも知れない。

この話を読んで、フランスの語学学校で見かけた米国人の女の子を思ひ出した。その娘は、いかにも米国人らしい明るい娘で、育ちも悪くない感じだつたが、「見て、私、綺麗でせう」と全身で叫んでゐるといふ印象を与へた。見てゐると、フロム(1900-1980)が『愛するといふこと』に書いてゐる、現代では人々は少しでも良い商品を探すやうに愛する相手を探してゐる、そこで誰もが自分を商品のやうに売り込まうとする、といふ話が思ひ浮かんだりした。他方で、フランス人の女の子の多くは、自尊心が高いと言ふか、自分を売り込まうといふ態度はあまり見せないやうな気がした。

 アランといふ人は女性にモテた人で、1943年9月18日の日記には、「いつでも新しい恋を受け入れ、ハーレムを支配してゐるなどと言はれたこともある」が、「私は浮気をしない放蕩者débauche fidèleだつたのだ」などと書いてゐる。