疑ふこと、共存の基礎

フランスのPodcastの番組Avec Philosophieで、「知るためには根源的な疑ひが必要か」といふ話を流してゐた。ラジカル radical といふ言葉は、ラテン語の「根」といふ言葉を語源に持ち、「根本的な」といふ意味を持つが、日常的なフランス語では、極端な思想を持つ人の狂信的な考へといふ否定的な意味で使はれることが増えた。他方で、哲学者には、正しく知るためには、根つこの部分から調べ直す必要があると考へる人がゐる。さうした哲学者の例として、デカルト(1596-1650)とフッサール(1859-1938)とを比べて取り上げてゐた。

デカルトの懐疑とフッサールの判断保留(エポケー)の違ひ

番組に登場したNatalie Depraz氏とPhilippe Cabestan氏は、

  • フッサールにとつて意識とは常に何かについての意識であり、世界に開かれてゐる。
  • フッサールデカルトの「我思ふ」が一種の公理であり形式的なものに留まると考へた。
  • デカルトの懐疑は一つの手段だが、フッサールの判断保留は根本的な態度である。
  • 「我思ふ」は個人的で世界の内に留まつてゐるが、エポケーでは自分を含めて世界そのものが消され、そこから超越的主体性が見出される。

といつた点を指摘してゐた。番組で紹介されたAlexandre Löwitの論文L'«épochè» de Husserl et le doute de Descarteでは、以下の3つが挙げられてゐる。

  1. フッサールのエポケーでは、デカルトのものとは異なり、否定的な要素は全くない。世界は存在し続けてゐるが、私がそれに対して何等の立場をも取らないのである。
  2. デカルトの懐疑が一時的なものであるのに対し、フッサールのエポケーはそのまま変はらず続く。
  3. フッサールのエポケーは世界の構成要素の全てを対象としてをり、物質や身体としての自分だけでなく精神としての自分をも含む。

かうした話を聞くと、ニュートン力学相対性理論量子力学との違ひを連想する。デカルトの世界観は、ニュートン力学のやうに、絶対的な時間、絶対的な空間の中で明確な形状と位置を持つ物体が運動してゐる姿が前提となつてゐると言へるだらう。真理は、明確で変はらないものとしてある。他方で、フッサールの世界観は、さうした絶対的な基準を持たず、この世に生まれ出た純粋な意識から全てを引き出さうとする。この立場は、絶対的な観測系を否定する相対性理論や、物の在り方が観測と不可分だと考へる量子力学とよく似てゐる。

価値観が見失はれた時代の哲学

この番組が企画された背景には、何を信じればよいかが分からなくなつてゐる現代の状況がある。フェイクニューズ(昔の言葉で言へば流言蜚語か)が飛び交ひ、極端な意見を持つ者の間で非難の応酬が止まない。自分の立場を正しいものと信じてゐるので、それを守るためには、嘘をつくことも厭はないのだらう。或いは、所詮、世の中に絶対的な真理や絶対的な正義などないのだから、勝てば官軍、儲けた者の勝ちだと思つてゐる人も少なくないだらう。

しかし、かうした狂信や虚無的な考へ方が主流になると、社会は維持できなくなる。分業が進んだ現代では、社会の構成員が助け合つてゐるといふ事実が見えにくくなつてゐるが、競争を前提とする市場経済が共通の価値観により支へられてゐるのは、アダム・スミス(1723-1790)が既に指摘してゐるところだ。共通の価値観、一定の規律を持たない社会では、貧富の格差が拡大し、相互不信が高まり、権力が腐敗する。

個々の利害を超えて、社会として成り立つための共通の価値観を作りだすことは、どうすれば可能だらうか。そこで哲学はどのやうな役割を果たすことができるか。

真実を探り当てる

全ての行動は、何を正しいと考へるかが出発点になる。デカルトフッサールも、絶対的な真理を目指した。そのためにデカルトは全てを疑ふことから始めて、考へる私といふ疑ひ得ないものを見出した。しかしそこには唯我論の危険がある。フッサールは、意識が世界を知るといふのは、継続的な行ひであると考へた。真実は、一度見出せば明確に決り変はらないものなのではなく、探究を続けるに従つて深まるものだと見た。

神ならぬ人間には、絶対的な真理を手にすることはできない。人間にとつての真理は、常に暫定的なもの、今のところの真理、これまでにたどり着けた真理に留まる。かうした見方が正しいとすれば、真実は相対的なものなのだから社会の共通の価値観などあり得ないと考へる人もゐるかも知れないが、人間としての限界を踏まへて、自分とは異なる意見も尊重するといふ姿勢が共有されれば、そこから社会としての最低限の決りを作り上げることもできる。民主主義といふのは、かうした考へ方に基づいた制度だと言へる。

多様性の許容を阻むもの

しかし、現実には心理的な事情や宗教的な理由で、自分は絶対的な真実を持つと主張する人達がゐる。価値観が見失はれた時代には、人は何かを信じたくなる。疑ふといふのは大変な仕事なのだ。何かを信じた方が話は簡単になる。多様性を認めるには、心の強さが欠かせない。

また、一神教を信じる人達にとつては、人間の知恵には限界があるからこそ、神を信じるべきだ、といふことになるのだらう。信者にとつては布教は義務だ、といふ話も聞く。宗教ではないが、今の中国の共産主義も、絶対的な真理として喧伝されてゐる。

だが、「コーランか、剣か」といふ言葉で知られるイスラム教も、実際には他の宗教との共存を容認してきた歴史もある。現代のテロリストがイスラム教を旗印に掲げてゐる例が目に付くのは事実だが、それはこの論文にもあるやうに、テロリストがイスラム教を正しく理解してゐるからではなく、洗脳の道具として使つてゐるだけに過ぎないと見ることもできるだらう。イスラム教にさうした道具として使はれ易い面があることは、否定できないが。

極端な貧困や政治的指導層の保身など、宗教や信条とは別の次元での要因も大きいと見るべきだらう。さうした要因を取り除くことができれば、人間の限界についての理解を基礎とした多様な価値を持つ人々の共存も不可能ではないと思ふ。