科学は心を解き明かすことができるか

「ハードプロブレム」

心を科学的に解き明かさうといふ試みは、現在でも熱心に続けられてゐるが、かうした試みに立ちふさがる「ハードプロブレム」がある。山本貴光吉川浩満両氏の『心脳問題』では、「なぜ脳内活動の過程に内面的な経験、つまり心がともなうのか、という疑問」だと説明されてゐる。

同書では、この問題がいつまでも解決されないのは、カント(1724-1804)のアンチノミーが示すやうに人間理性の限界によるのであり、この病には大森荘蔵(1921-1997)の「重ね描き」といふ考へ方が解毒剤として効くが、疑問は消えず、「ハードプロブレム」は「回帰する疑似問題」になる、むしろさうした問題だからこそ取り組み価値がある、といつた説明がなされてゐる。

Bitbol氏の説

この問題に関して、最近、Michel Bitbol氏のThe Tangled Dialectic of Body and Consciousness: A Metaphysical Counterpart of Radical Neurophenomenologyを読んだ。「ハードプロブレム」が解消され得る、或いは「ハードプロブレム」は「疑似問題」であると考へる点では、『心脳問題』と同じだが、Bitbol氏は大森荘蔵が批判してゐるといふフッサール(1859-1938)の考へなどに基づいて、意識を科学に先立つものとして位置づけてゐる。

Bitbol氏の問題意識は、氏の支持するFrancisco Varela(1946-2001)が提唱した「神経現象学」が、「ハードプロブレム」を解消して新しい方法論を提示するにも拘らず、哲学的な検討を放棄するやうに見え、同時に科学者のあり方を根本的に改めることを求めるために、十分に理解されなかつたり無視されたりしてゐる現状を改めたい、といふ点にある。

そのために、氏はこの論文で「知る」とはどういふことかを再検討して、量子力学を参照しながら、「知る」には知る者の参加が欠かせないことを確認する。そして、特に「自らを知る」といふことは、普遍的な法則を探すといふ態度では実現できないことを示す。そして、神経系と経験との関係を「説明する」とは、独立した法則により表現することではなく、この関係を研究することで知覚や行動の新しい可能性が拓かれるといふことを指すのだ、とする。(76節)

「何か」問題への答へ

Bitbol氏は上記のやうな次第で、ある種の知行合一のやうな立場にたどり着くのだが、そもそも「心とは何か」といふ問ひにはどのやうな答へがあり得るのだらうか。「〇〇とは何か」といふ問ひは、対象となるものの本質を尋ねるものだとされるが、そもそも全てのものに本質が備はつてゐるのだらうか。

この形の問ひがうまい答へを見つけることができるのは、制作者の意図が分かつてゐる場合と、他のもので代替できる場合の二つではないかと思はれる。前者は、制作者がゐる場合に限られる。すでに出来上がつたものでなく、そのあるべき姿を示す場合にも、「〇〇とは何か」といふ形で議論されるが、これも制作者の意図に似たものを前提としてゐる。

後者は、例へば「光とは電磁波だ」といふ説明がこれに当る。この説明がうまく行くのは、光も電磁波も、私達が世界から切り出した「物」或いは「事象」だからだ。私達が光といふ名前で呼んでゐたものは、電磁波といふより広いものの一部として捉へ直すことができる。この新しい理解により、私達の世界の見方が整理され、より合理的な係り方ができるやうになる。だから「光とは電磁波だ」といふ説明には有難味や説得力がある。

心は、このどちらの場合にも当てはまらない。心は神が創造したとしても、人間にはその意図を知ることは適はない。また、心は私達が世界から切り出したものではない。むしろ、現象学的に言へば、世界の前提だ。それを世界から切り出したもので置き換へようとする試みがうまく行くはずがない。

科学者の仕事は無くなるのか

「ハードプロブレム」が疑似問題だとすると、科学者の心を解明しようといふ努力は無駄になるのだらうか。確かに心とは何か、といふ問ひに答へが出ることはないだらう。しかし、Bitbol氏が言ふやうに、心と身体との関係を研究することで、両者についての新しい見方をすることができるやうになり、実用的な応用にもつながることは期待できる。

そのためには、言葉の上で意識と神経系との関係を議論したり、過去の哲学者の説の解釈を云々したりするのではなく、新しい経験が必要だ。例へばBrain Machine Interfaceの研究などは、麻痺した腕や足を動かすといつた実用的な目的だけでなく、私達の心といふものについての新たな知見を提供するものとして期待できる。

この種の新しい経験によつて「心とは何か」といふ問ひへの答へが出ることは期待できないが、心とはどのやうなものなのかを、より詳しく知ることができるやうになるだらう。

謎は残る

心をより詳しく知ることができたとしても、心の謎が解けたことにはならない、さう思ふ人もゐるだらう。しかし、全ての謎が解ける訳ではない。滝浦静雄(1927-2011)の『時間』は、次のやうに結ばれてゐた。

ビーリは、彼の時間論の結論に近い言葉として、次のように述べていた。

「時間的生成の一方向性と不可逆性と同様、そのつどの現在の時点には、説明が拒まれている......」。

しかし、実を言えば、「説明が拒まれている」のは、この世に変化があることと、その変化を身に蒙りつつそれを知っている身体的主観の一人が、まさしくこの私だということなのではないだろうか。少なくとも、私なしでは「特定の現在」はないし、したがって本当に現在である限りでの「そのつどの現在の時点」も存在せず、また不可逆な「今の系列」というものもないのである。(岩波新書『時間』202-203頁)

「米国の敵は米国」

米国の調査会社が発表した2024年の世界の十大リスクの一位は「米国の敵は米国」だつた。今年は大統領選挙の年だが、米国の政治的な分裂がさらに深刻になる恐れがあるといふ。トランプ氏のやうな人物が米国大統領に一度でも選ばれるだけで驚きだが、議会乱入事件などを惹き起こした後でも支持は衰へず、再選される可能性が高いといふのだから、信じられない。どうして人々はあのやうな人物を信用するのだらうか。

年末に、こんなアランの話を読んだ。(1928年3月3日のプロポ)
いつでも二つの宗教があつた。一つは私達を外へ、現実的なものへと引つ張り、もう一つは逆に私達の中にある何か手懐(てなづ)けられないものへと連れ戻す。ソクラテスは神々が不当な場合をよく分かつてゐて、さう言つてゐた。彼はもつと酷いこと、或はもつと上手いことを言つた。「正しいものが正しいのは神々が望むからではなく、正しいものは正しいから神々がそれを望むのだ。」それは神々を、考へるソクラテスに従はせることだつた。或は、むしろ、神々を「神」に従はせることだつた。しかし、この動きには終はりが無い。思ひを巡らせる人は、今よりも更に清らかな自分、より自由な自分を追ひ求めることを止めないからだ。人は、精神を信じるならば、他のものは余り当てにしない。宗教的な信念が、軽々とは信じないことの核なのだ。
私が信じないのは、いつでも信じてゐるからだ。弱腰の懐疑主義者が何も信じないと言つても虚しい。彼が自分を信じないのであれば、自分が解きほぐし、批判し、判断できると思はないのであれば、仕来りや習はしに、そして身体の皺や傷跡に支配されてゐるのであれば、何も信じないと言つても実に虚しい。逆に、全てを信じてゐるのだから。何かが他より正しいことなどない、と言ふ人には、目に映るもの全てが同じ影響力を持つ。最後には、欲と利害に引きずられる。全く気まぐれな大きな子供になるだらう。しかし、社会は報酬と無視の見事な体系だ。儀式と制度がこれらの軽い人達を集めて導く。流れとともに浮かんで海へと下つてゐるのが分かつてゐるコルク栓のやうに、軽い人達はどこかに向かつてゐるのに気づく。彼等はこの浮かぶコルク栓の旅を本にしさへする。私にはこの人達が独断的だと見え、言葉の上辺の意味で宗教的だとも見える。彼等は、ソクラテスとは全く逆に、正しいこととは神々が望むものだと考へる。例へば戦争は神々が望むのが明らかなら正しいものとなる。彼等自身の財産も、神々が望むのが明らかなら正しい。これがイエズス会士の諦めであり宗教だ。かうした宗教は人の中で完全に消えることはない。人は全てを判断することはできないが、立場を決めないではゐられない出来事や状況、流れもあるからだ。それは適応するといふことだ。それは結局、うまく行くことは真実であり正しいと考へることだ。これに対して永遠なるソクラテスは、多分完全には死んでゐないのだが、内なる神託、秘密の神託により、国務院の高官の中でも、身を擡(もた)げ続ける。揺らめく光であることが多いが、時には輝きを放つ。例へば、明らかに悪質な行ひを前にすると、何も信じない振りをしてゐる人でも立ち止まり、かう言ふ。「あんなことは私はしない。」天と地が讃へようとも、しない。スパイも多分、友情を裏切りはしないだらう。大稼ぎする海賊でも、ゲームでいかさまはしない。
このやりとりで最も驚くべきところに辿り着いた。実用主義者、即ち流れに従ふ者でも、決して自分がさうだとは言はない。プロタゴラスソクラテスに裸にされ、意見にはより得になるか余り得にならないかしかないと口に出すが、同時に、それを言ふことはできないことを認める。それでは得になる意見が得にならなくなるからだ。だから国のための嘘は、得になると言つてはならない。それは真実なのだ。そして、この考へ方の精妙さそのものが、非人間的なものだ。一番得になるのは、得なものが正しいと信じることだからだ。かうして、一番いい加減な人達が、熱狂的信者の姿を取る。そして、逆に、自らの自由な判断に隠れ家を求める人は、ある証明が便利や好都合により少しでも汚されてゐないかどうか、そこまで確信を持てない。自分に気に入ることを真実だとか正しいと受け取るのを恐れるので、相手が正しいと言ひ、さう信じようとすることを、好都合なだけだと暴(あば)く。かうして、イエズス会士はその話が合理主義的となり、ヤンセン主義者の話は懐疑主義的になる。パスカルは、ある種の信じる信じないのやり方により、自由な精神に好まれ続けるだらう。「人民に、法律は正しくない、と言つてはならない。」しかし、結局、彼はさう言つた。さう言つてはならないと言つたのだから。自分のために、私的な覚書で、帽子に。しかし、それでも言ひ過ぎだつた。

ここでアランはイエズス会士(jésuite。偽善者といふ意味にもなる。)とヤンセン主義者(janséniste )とを対比してゐる。両者については、以前読んだプロポにも出てきた。難しい宗教的な議論は置くとして、外見的な事実を重視するのが前者で、後者は内面的な真実を追ひ求めると考へれば良いだらう。ここでは、役に立てばそれで良いといふ現実主義と利害を離れた正義を信じる理想主義との代表として登場してゐる。
yoshiharajya.hatenablog.com

民主主義における「正しさ」
アランが引いてゐる「正しいものが正しいのは神々が望むからではなく、正しいものは正しいから神々がそれを望むのだ。」といふソクラテスの言葉は、プラトンの対話篇の一つ『エウテゥプロン』に基づくものだらう。ただ、この対話篇で論じられてゐるのは、正しいものとは何かといふ問題ではなく、敬虔とは何かといふ問題だが。
この中で、ソクラテスは、「神々に愛されるものが敬虔だ」といふエウテゥプロンが最初に示す定義に対して、神々の間には争ひがあり、それでは同じことが敬虔にも不敬虔にもなつてしまふ、と反論してゐる。
プロタゴラスが、「意見に(正しい、正しくないといふ差はなく、)あるのは有利かどうかだが、それを言ふことはできないと認めた」といふ話の出典はよく分からない。プラトンの『プロタゴラス』には、かうしたやり取りは見当たらなかつた。
ともかく、争ひごとでは、多くの場合、双方が自分が正しいと主張する。一方が自分の非を認めてしまへば、それで争ひは終はる。(もつとも、自分の非を認めながら、改めようとしないといふ開き直りの場合もあるが。)それぞれが信じる神が正しいとすることが異なるといふ状況では、その上にゐる唯一神に頼るか、力づくで解決するかしかない。
法治国家の場合には、憲法をはじめとする法制度によつて、争ひをどのやうに解決するかが決められることになつてゐる。その法制度が「正しくない」となると、世の中が治まらなくなる。
民主主義の場合、法制度そのものも国民が決めることになつてゐるので、「正しくない」こともあり得ることは、前提になつてゐる。少なくとも、時代の変化に応じて、変へるべき部分が出てくることは誰もが認める。ただ、その際の制度の変更についても、予め定められてゐて、これに従ふことが求められる。民主主義では手続きが正統性を保証してゐるのだ。選挙といふのは、かうした民主主義の手続きのうちで一番大切なものの一つだが、トランプ氏はその選挙の結果を覆さうとした。これだけでも、氏が要注意人物であることは明白だ。
何故トランプ氏が支持を得るのか
そんなトランプ氏の人気の理由については、様々な分析があるのだらうが、今回のアランの話では、軽々と信じてしまふ人達には本当の信念が欠けてゐる、といふことが述べられてゐる。これが正しいとすれば、トランプ氏が支持されるのは、本当に信じるべきことが何かが分からなくなつた人々が数多くゐる、といふことだらう。実際、世の中が複雑になると、自分では理解できない事が増える。ネットにはフェイクニュースが溢れ、何を信じれば良いのか分からない。かうした状況では、何かに縋(すが)らうとするのは自然だと言へるかも知れない。そこに、自分の利害だけを考へ、平気で大衆が好みさうな法螺を吹く人間が出て来ると、それが信頼すべき人物に見えて仕舞ふ、さういふこともあるのだらう。勿論、かうした事情は米国だけには限らない。
それでも、指導者を選ぶには、話に一貫性がある、嘘をつかない、決りは守る、といつた、社会で生きる人間としての基本的な資質を充たしてゐることが重要な判断基準になると思はれるのだが。

利か理か

アラン(1868-1951)が1928年2月18日に書いたプロポ。

怒りは思ひの最初の結果だ。この厳(いかめ)しさはあまりにも脆く、僅かな風にもなびく炎のやうに、身を屈め、変はるのが見える。だから人々はトランプ遊びをするのだ。それは偶然とルールの二つの重みで、思ひを短く切る。それでも、ゲームが終はるや否や、カードを混ぜてゐる時に、激しい言ひ争ひが起こるのを見るだらう。いつでも、あり得ただらうことに係るものだ。声は脅す調子で大きくなり、各々の中の暴君が唸り声を上げる。幸ひにも、救ひの手は近くにある。カードを配る人ははつきりとした運命を割り当て、各々は、この紛(まが)ふことない印を並び変へて、そこに起きて了つた現実を見る。この俄(にはか)雨で、雲や蒸気はすぐに凝縮される。誰もが自分の手札と思ひを隠す。かうして、敵意のあるものでも、思ひが隠されれば、ある種の平和が成る。
戦ひになるのは、決して儲かるからではなく、理が有ると言ひ張るからだ。理が有るといふのは、自らの中に、全ての人に当てはまる規則を見い出すことだ。それは自分の中で独(ひと)りで、世界の全ての人々を回心させることだ。人々が皆、賛同するのを、心から賛同するのを望むことだ。それは、しかし、人々が賛同を拒むとは考へてもみない、といふことだ。理は私に有るのではないか。あらゆる権力、あらゆる野心がここでその本当の顔を見せる。理が有ると言ひ張る者ほど弱く備へを持たぬ者はゐない。私が言ひたいのは、自分の中で震へてゐる者だ。ゲームをする人は現実により負ける。現実は誰の心も傷つけない。心を傷つけるのは、相手の理を認めるのを拒むことだ。
全ての思ひでは、平等が前提になつてゐる。私が思ふとは、私にとつて有利な意見を示すことではなく、正しい明らかな意見を、知られれば直ぐに皆のものになる思ひを示すことだ。私は世界のコンサートの中にゐるかのやうに思ひを巡らせる。私には、もう拍手喝采が聞こえる。だから、誰にも疑ひ、否定し、非難する権利がある。私はそれを恐れない。私が思ひ巡らしてゐたときにしてゐたのは、自分の思ひに対して可能なあらゆる非難を投げてみることでなくて何だらう。しかし、だからこそ、どんな細かな批判も、拒否の小さな印も、耳に障(さは)る。ここでは最善の議論が一番悪い。示された思ひに遠慮なく踏み込み、変へ始めるからだ。かうして世界の立法者、精神の王は、すぐに脅かされ、王座を追はれる。立ち直り、苛立つが、笑はれる。かうした失望は人を凶暴にする。
実際に、人が命を懸けるのは、思ひがあるからだ。思ひの持つ威厳に比べれば、他はものの数ではない。本当の戦ひは意見の戦ひだ。宗教の戦ひだとさへ言へよう。最大の冷酷さが、最大の慈愛と混ざり合つてゐる。説得したいと思ふ相手を私は高く評価し、深く愛してゐるからだ。私はその相手を裁き手とする。だが、彼が逆らへば、私は侮辱された、王座を奪はれたと感じる。すぐに、彼の中には何か悪魔的な強情さがあると考へる。狂信は、様々な心の乱れの中でも一番恐るべきものだが、他方で、全ての心の乱れには狂信が含まれると言ふべきだらう。誰もが相手の内に心を探し、同意を求める。かうして裁き手へと昇進した相手は、この王権を濫用する。二人の王、対等な二つの主張、これでは血が流される。政治的な激憤は損得の上に成るものではない。逆に、損得の駆け引きは、カードの駆け引きのやうに、さわぐ心を静める。だが、各々が自分が正しいと判断する意見を示す。さうして自分の王座を賭ける。痛い点、争ひと苛立ちの焦点は、思ひだ。それが最も高位の主張だからだ。いや、ただ一つの主張なのだ。不正は、財布ではなく理を傷つける。誰もがそれを否定しようとするが、それは、傷つけられた者が傷ついてなどゐないと思はせようとするからだ。抑へられた怒りは尚更激しい。

ロシアとウクライナの思ひ

アランは、自らに理が有るといふ思ひが戦ひの源だと言ふ。このアランの考へをロシアとウクライナの戦争に適用してみよう。

ロシアの思ひは、統一ドイツがNATOに残るのを認める代はりに、NATOを東側に拡大することはしない、といふ約束*1を西側が破つたではないか、といふものだらう。それがかつてのソ連領のウクライナにまで及ぶとなれば、我慢も限界だ、といふことになる*2

他方でウクライナにしてみれば、クリミア半島だけでは飽き足らず、ウクライナ全土を属国化しようとするロシアは、絶対に許せない、となるのは当然のことだ。この二つの思ひは両立しない。戦争は避けられない。

ところで、ロシアとウクライナのどちらに理が有るのだらうか。

ロシアの言ひ分は、約束は守るべきだ、といふ理に基づく。Pacta sunt servanda.合意は守らねばならない、といふのは法に基づいた世の中が成り立つための最も基本的な原理だとされる。

しかし、NATOの東方不拡大の約束は、国家間の正式な約束だと言へるだらうか。条約といふ形式は備へてゐないし、行政府間の文書の交換もしてはゐないと思はれる。単なる政治的な約束で、国際法上の拘束力は持たないのではないだらうか。

また、約束の中身が問題にされることもあるだらう。国内法では、公序良俗に反する約束は無効とされるが、国際法では強行規範jus cogensに反する協定は無効だといふ理論がある。もつとも、何がjus cogensに当るか、といふ点についての合意が出来てゐないので、実効性はまだ無い、といふのが実情のようだが*3

他方で、ウクライナの言ひ分には、国際法上、立派な根拠がある。ロシアによる侵攻が、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対する武力による威嚇又は武力の行使を禁止する国連憲章第2条4項に違反することは明らかだ。

理はウクライナの側にある。

戦争は防げなかつたのか

国際法上、ロシアに非があることは確かだとしても、これで問題が解決するわけではない。戦争の行方はまだ分からないが、膠着状態になりつつのではないかと見える。どこかの時点で、例へばウクライナがロシアによるクリミア併合を認める代はりに、ロシアはウクライナNATO加盟を容認する、といつた妥協が図られることになるだらう。どちらの思ひも遂げられずに終はる、といふことになるのではないか。

さうした中途半端な結果のために、両国とも既に数多くの人命を犠牲にしてゐる。このやうな愚かな戦争を防ぐことはできなかつたのか。どの時点で誰がどのやうな決断をしてゐれば、この戦争は起こらなかつたのか。

この問ひに対する答へは、将来の歴史家が出すのだらうが、冷戦後の西側の対応について、反省すべき点があるやうに思はれる。NATOの東方不拡大は、確かに口約束に過ぎないものだつたかも知れない。しかし、冷戦の勝利に酔つて、ロシアへの配慮が欠けた部分もあつたのではないか。勝ち過ぎは良くないのだ。東欧諸国にも民主主義を広めるといふ大義名分は立派なもので、賛同すべきものだが、もつと時間をかけて関係者の合意を得ながら進めるべきではなかつたか。

当事国にも誤算があつたに違ひない。プーチン大統領は、ウクライナがすぐに降伏すると踏んでゐたのだらう。他方で、ウクライナもロシアの切迫した思ひを十分に理解してゐなかつたのではないか。また、西側諸国の支援があるにしても、ロシアとの直接対決につながるやうな軍事介入は、最初から期待できなかつた。軍事力の差が大きい中で、どのやうな出口を見出すか、といふ難しい問題は残されたままだ。

イスラエルの勝ち過ぎ

勝ち過ぎといふ点では、ガザ地区でのイスラエルの軍事行動も、将来に禍根を残すのではないかと懸念される。ハマスによる攻撃や人質拉致は非難されるべき行為だし、ある程度の対抗措置は許されるとしても、一般住民に一万人以上の犠牲者をだすやうな軍事活動は、明らかにやり過ぎだ。

ハマスの行動の狙ひはよく分からないが、ヨルダン川西岸地区でのイスラエルによる入植は、パレスチナ独立国家とイスラエルが共存するといふ1993年のオスロ合意による二国家解決案を、事実上反故にするものだ。さうしたイスラエルの姿勢に対して積り積もつた不満が噴出したものであることは確かだらう。

今回の軍事行動がどのやうな形で終結するかは分からないが、イスラエルは、アラブ諸国は言ふまでもなく、国際世論までも敵に回して仕舞つた。長い目で見れば、米国の支援も、いつまでも期待できるとは限らない。さうなつた時に、イスラエルはどのやうにして自らを守るのだらうか。

アランは、自らに理があるといふ思ひと乱れる心とが結びついた時の危ふさを語つてゐたが、ウクライナやガザで起きてゐることを見てゐると、先日亡くなつたキッシンジャー氏(1923-2023)の現実主義を思ひ起こさずにはゐられない。理念を無視した外交だとして批判を受けることも多かつたのだが。

 

 

*1:この約束については、ジョージワシントン大学National Security Archiveの記事が参考になる。

*2:ソ連支配下にあつたバルト三国は2004年にNATOに加盟してゐるが、これらの国々とウクライナでは、ロシアにとつての重みが違ふと言へるだらう。

*3:国連の国際法委員会の報告書が現状を知る参考になる。

東浩紀『訂正可能性の哲学』

東浩紀氏の『訂正可能性の哲学』を読んだ。東氏については、東日本大震災の際にTwitterで述べられた意見を見て以来、その活動に興味を持つてゐる。Twitterで何を語つてゐたのかは、すつかり忘れて仕舞つたが、氏が立ち上げたゲンロンの会員にもなり、送られてくる来る本にも目を通すやうにしてゐる。

この本の前に出された『一般意志2.0』と『観光客の哲学』は、怠惰な読者である私には、何が言ひたいのか良く分からないといふ印象の本だつたが、この『訂正可能性の哲学』を読んで、東氏が何を目指してゐたのかが理解できたやうな気がした。

この本が目指すもの

最近発表された「『観光客の哲学』中国語簡体字版四冊刊行に寄せて」といふ文章からも読み取ることができるが、東氏の基本的な問題意識は、友と敵を峻別する政治的な論理を超えた新しい共同体の理念をどう築くか、衰退してゐる民主主義を如何にして活性化するか、といふ点にあると言へるだらう。

この本の結論は、著者自身が「おわりに」に書いてゐる。

哲学とはなにか、と問いながらこの本を書いた。本書の主題である「訂正可能性」は、その問いに対する現時点での回答である。哲学とは、過去の哲学を「訂正」する営みの連鎖であり、ぼくたちはそのようにしてしか「正義」や「真理」や「愛」といった超越的な概念を生きることができない。それが本書の結論だ。

また、この本を書いたのには別の意図もあつたことについて、いくつかの箇所に書かれてゐる。人文学を擁護することがその一つだ。

ニ〇ニ三年のいま、日本では人文学の評判は落ちるところまで落ちている。言論人や批評家にかつての存在感はない。(中略)

人文学は信頼を回復しなければならない。人文学には自然科学や社会科学とは異なった役割があることを、きちんと論理的に伝えなければならない。じつは本論はそのような意図でも書かれている。(134頁)

中でも、哲学を擁護することにある。

けれどもいくら成り立ちが解明されても、人間が人間であるかぎり、ぼくたちは結局同じ幻想を抱いて生きることしかできない。正義や愛を信じることしかできない。だとすれば、ぼくたちに必要なのは、ルールを解明する力ではなく、まずはそのルールを変える力、ルールがいかに変わりうるかを示す力ではないか。

哲学はまさにその変革可能性を示す営みであり、だから生きることにとって必要なのだというのが、ぼくがみなさんに伝えたかったことである。(346頁)

印象に残つたこと

この本で印象的だつたのは、先づ、東氏が自分の著作について、非常に意識的であることだ。

第一部ではポパー、トッド、ウィトゲンシュタインクリプキ、ローティ、アーレントといつた多様な人達の説が参照されるのだが、それらを結びつけてゐるのは、「結局のところはぼくの直感である」であると述べる。これが「専門家からすれば根拠のないアクロバット」、「一般の読者からすれば不必要に哲学者の名前を並べた迂遠なもの」に見えることを、承知の上で、さうしてゐるのだ。その理由についても第一部の末尾で説明されてゐる。

かうした自省的な姿勢は、上の中国語版に寄せた文章にもあるやうに、「大学と出版の葛藤」「学問と非学問の葛藤」を抱へながら「大学教員ではなく中小企業経営者」をしてゐるといふ東氏の生き方と不可分なものだと言へるだらう。

次に印象的だつたのは、第二部でのルソーの著作の深い読みだ。『社会契約論』のやうな社会科学の著作だけではなく、小説である『新エロイーズ』も取り上げて、一般意志についてのルソーの考へを解き明かさうとする、その手際は見事と言ふしかない。小説も書いてゐる東氏の面目躍如だ。

本の最後の方に、大好きなトクヴィルが引用されてゐたのは、驚きでもあり、嬉しくもあつた。

何の為に本を読むのか

ここからは、東氏の説とは外れるかも知れないが、この本を読んで考へたことを書いてみる。先づ、人はなぜ本を読むのか、といふこと。

東氏はクリプキ懐疑論者についての説などを援用して、かう書いてゐる。

それゆえ人文学は、すべての重要な概念について、歴史や固有名なしの定義など最初から諦めて、先行するテクストの読み替えによって、すなわち「訂正」によって、再定義を繰り返して進むことを選んでいるのである。

先行する学者の業績を元にして議論を進めるのは、単なる衒学趣味でも、無批判な尊重でもないと言ふのだ。

しかし、当たり前のことだから言ふまでもないのかも知れないが、古典とされるやうな昔の本を読むのは、何よりも先づ、過去の偉人から学ぶためだ。人間は神様ではないので、どんなに立派な人物の説でも、進んだ現代の知識を踏まへれば、誤りもあるだらう。しかし、今でも通用する知恵も含まれてゐるはずだ。だからこそ古典なのであり、人はさうした本を読むのだ。

思想家にとつては、過去の思想は批判の対象であり、整理し分析すべきものなのかも知れない。しかし、一般の読者にとつては、それが面白いか、役に立つか、といふ点こそが大切なのだ。専門家の間でどんなに高く評価されてゐるものでも、チンプンカンプンで何の役に立つのか分からないやうな本は、社会的には無用の長物に過ぎない。

思想は役に立てば良いのか

しかし、面白ければ良い、役に立てば良い、といふ訳でもない。過去の偉人たちの考へを正しく知らなければ、古典を読んでも駄文を読んでも同じことになるだらう。小林秀雄(1902-1983)は、若い頃にこんなことを書いてゐる。

 大衆はその感情の要求に從つて、その棲む時代の優秀な思想家の思想を讀みとる。だから彼等はこれに動かされるといふより寧ろ自ら動く爲に、これを狡猾に利用するのだ。だから思想史とは實は大衆の手によつて變形された思想史に過ぎぬ。そこに麗々しく陳列されてゐるすべての傑物の名は、單なる惡い洒落に過ぎぬのだ。この大衆の狡猾を援助する爲に生まれた一種不埒ふらちな職業を批評家といふのなら、彼らがいつも假面的であるのは又已むを得ない。

 逆に、どんな個人でも、この世にその足跡を殘さうと思へば、何等かの意味で自分の生きてゐる社會の協贊を經なければならない。言ひ代へれば社會に負けなければならぬ。社會は常に個人に勝つ。思想史とは社會の個人に對する戰勝史に他ならぬ。こゝには多勢に無勢的問題以上別に困難な問題は存しない。「犬は何故しつぽを振るのかね」「しつぽは犬を振れないからさ」。この一笑話は深刻である。

 ある時代のある支配的な思想と、これに初動を與へたある獨創的個人とはまさしく緊密につながり合つてゐる。今日人々は何故にこのつながりだけを語つて、この間に越え難いひらきが又同時に在る處を語らないか。流行に過ぎない。(「✕への手紙」第五次全集第二巻277頁*1

偉大な思想家の説くところは、単純ではない。複雑な現実を前にして、これを正確に描かうとする思想家は、「言語表現の危機に面接する」からだ。そこで「卓抜な思想程消え易い」といふ逆説が生まれる。

それでは、思想を正しく理解するにはどうすれば良いか。そもそも、正しい読み方を一つに決めることができるのか。

「訂正」とは

残念ながら、簡単な回答は無い。思想家が残した文章を読み返し、有力な解釈だとされるものを参照して、自分なりに正解だと思はれるものを探すしかない。「訂正」といふのは、過去の思想家の誤りを正すといふことではなく、新しい読み方を探す作業だと考へることもできるだらう。

思想といふのは生き物だと見るのが良いのではないだらうか。生きてゐるので、その姿を固定することはできない。別の記事に書いたことがあるが、アラン(1986-1951)の師のラニョ(1851-1894)は、「厳密な証明は精神を物に変へる」と言つてゐた。

 『訂正可能性の哲学』で示された東氏のルソーに関する意見は、さうした新しい読みを提供したものだと言へるだらう。

かうした「訂正」の作業は、一人だけで済ませられるものではないことも、忘れてはならない。思想が社会的な力を持つためには、なるべく多くの人に共有される必要がある。大衆に迎合することでルソーの名前を単なる「悪い洒落」で終はらせてはならないが、「社会の協賛」は必要だ。そこでは、議論のための議論ではなく、ともに「訂正」を行ふ仲間を集めることが、重要な戦略になるだらう。ゲンロンといふ会社は、さうした仲間づくりの場所としての狙ひも持つてゐるの違ひない。

*1:「✕への手紙」は小説といふことになつてゐるが、この部分は小林秀雄の考へを示したものと読んで良いだらう。

量子力学と古典力学の境目

量子力学の解釈問題

量子力学は不思議な学問だ。その基本的な形は1920年代に確立されたが、量子力学の意味するところは何かについて、依然として議論が続いてゐる。Internet Encyclopedia of Philosophyといふサイトの記事は、議論の現状を知るために有用だ。

この記事では、量子力学の代表的な解釈として、コペンハーゲン解釈多世界解釈、隠された変数の理論、自発的収縮理論の四つを紹介してゐる。コペンハーゲン解釈は、最も一般的な解釈で、量子状態は物理世界を記述するものではなく、測定によつて得られるものを予測するための手段だと考へる。もつとも、同じ「コペンハーゲン解釈」といふ言葉を使つても、その中身については人によつて違ひがある。

多世界解釈は、観測する度に世界が分裂するといふ荒唐無稽な説で、私には発案者Hugh Everett III(1930-1982)の知的遊戯だつたとしか思へない。それでも、これを信じてゐる学者も多いので、代表的な解釈の一つとして挙げられてゐる。

隠された変数の理論は、量子力学が未完成な理論であると考へ、観測には現れない変数を加へることで、それを補はうとする。 David Bohm(1917-1992)パイロット波理論が有名だ。自発的収縮理論は、量子力学の大きな謎とされる観測による波動関数の収縮について、収縮は観測により起こるのではなく自然の過程で生じるとする。

四つの代表的な解釈は全く異なるもので、100年を経てもかうした議論が尽きないといふことには、何か本質的な問題が絡んでゐるやうに思はれる。

量子力学古典力学の境目

量子力学古典力学の境目も分かりにくい。相対性理論ニュートン力学との関係では、特殊相対論に限れば、ローレンツ変換の式とガリレオ変換の式を比べて、前者で光の速度cを無限大にすれば、後者になることがはつきりと分かる。相対性理論はより一般的な理論で、ニュートン力学はその近似的なものだと理解できる。

ところが、量子力学ではさう簡単には行かない。量子力学の最も有名な式と言へばシュレディンガー方程式だが、これは古典力学のどのやうな方程式とも似てゐない。解析力学に出て来るハミルトニアンが使はれてゐるなど、類似点を探すことはできるし、元々、シュレディンガー方程式を考へ出す過程で、古典力学とのつながりを保つための対応原理が意識されてゐたので、両者を結びつけることは不可能ではない。量子力学の(古い)教科書を見ると、エーレンフェストの定理などが紹介されてゐる。

それでも疑問は残る。シュレディンガー(1887-1961)が考へた波動力学ハイゼンベルク(1901-1976)の行列力学は、形式は全く異なるが同等であるとされる。フォン・ノイマン(1903-1957)は、無限次元の関数空間であるヒルベルト空間を用ゐることで、量子力学に数学的な基礎を与へた。かうした話を聞くと、対象自体が持つ性質ではない、何か抽象的なものが量子力学の重要な要素になつてゐるのではないかと思はれて来る。

量子力学が扱ふ世界が、古典力学では説明できない不思議に満ちてゐることは確かだ。エネルギーが不連続になり、光も電子も、相矛盾すると思はれる粒子の性質と波の性質を併せ持つ。しかし、特殊相対性理論ニュートン力学の場合とは異なり、プランク定数hをゼロにすれば古典力学に帰着するといつた簡単な関係にはなつてゐない。

四つの解釈を生む原因とも言へるのは観測による波束の収縮をどう捉へるかといふ問題なのだが、量子力学古典力学の関係が見えにくいのは、観測に関はる根本的な問題が隠れてゐるからではないだらうか。

現象学量子力学

Michel Bitbol(1954-)といふフランスの学者による論文 A Phenomenological Ontology for Physics: Merleau-Ponty and QBismは、この問題を考へる際に有益な情報が山盛りの興味深いものだ。Bitbol氏は量子力学の哲学的な意味を長年研究してきた人で、その主張は、上記の四つの解釈ではコペンハーゲン解釈に近いと言へるだらう。物自体を知ることはできないといふカント哲学の考へ方などを踏まへて、量子力学が提起する知識の制約の問題を扱つてゐる。この論文では、次のやうな説が述べられてゐる。

世界の姿を完全に表現することは不可能なのではないかといふ疑念は量子力学の成立当初からボーア(1885-1962)等が抱いてゐたが、かうした量子力学の制約は「文脈依存性」に由来する。文脈依存性とは、微小世界の性質が、これを明らかにするための物質的な手段や文脈と切り離すことができない、といふ事情を指す。これは避けることのできない本質的な制約だ。それにも拘らず、物理学者達は世界の表現といふ目標に固執して来た。様々に変化する現象の底に、変はらない本質、不変の法則を求めるといふギリシャ以来の文化的伝統があるからだ。

同氏は、かうした主張を1990年代から続けて来たのだが、物理学者達からは殆ど注目されなかつた。しかし、最近では、量子力学を現象を超えた実在の表現ではなく、測定により得られる情報に関する原則的な制約を示すものとする見方が広がつて来た。実際に、最近の量子力学の教科書には、以下のやうな記述が見られる。

量子力学は、古典力学に出てくる粒子の位置や運動量の値のように測定以前から存在している物理的実在を扱う理論ではなく、物理量の確率分布に基づいた一種の情報理論である(堀田昌寛『入門現代の量子力学量子情報・量子測定を中心として』まえがき)

Bitbol氏は、この論文で、かうした新しい量子力学についての見方が、現象学の考へ方と類似してゐることを指摘して、メルロ=ポンティ(1908-1961)の量子力学についての論を紹介してゐる。メルロ=ポンティ量子力学について語つてゐたことは知らなかつたが、死後に発表された未完の『見えるものと見えないもの』、1959年から1960年のコレージュ・ド・フランスの講義録に量子力学への言及があるといふ。例へば『見えるものと見えないもの』からは、次のやうな文が引用されてゐる。

Quantum physics does not put all truths on the side of the 'subjective', which would maintain the idea of an inaccessible objectivity. It rather challenges the very principle of this division and brings the contact between the observer and the observed in its very definition of 'reality' (Merleau-Ponty, Le visible et l'invisible p.33)

*1

ここでは、量子力学が観察者と観察対象の分離といふ考へ方を覆すものであることが明確に述べられてゐる。

他分野への波及

量子力学の数学的な形式が、少なくともその一部が、観察者と観察対象の不可分性を示してゐるのだとすれば、この事情は、量子力学に限られたものではなく、その数学形式は他分野でも応用できる可能性がある。実際に、量子社会科学といふ新しい研究分野も立ち上がりつつある。Bitbol氏には”Why should we use quantum theory? The case of the human sciences”といふ論文*2もあり、そこに幾つかの事例も紹介されてゐる。また、Quantum social science に関するWikipediaの記事は、より最近の研究も紹介してゐて有用だ。

まだ生まれたばかりの分野で、その手法も様々であり、量子力学の応用についても賛否両論があるのだが、かうした新分野での定量的な研究が進めば、量子力学で用ゐられる数学の形式の、どこまでが観察者と観察対象の不可分性に由来するもので、どこまでが対象となる物理現象に由来するものであるか、といつた点も明らかになつて来るかも知れない。

*1:手元にある本では、文章の初めはLes considérations d'échelle, par exemple, si elles sont vraiment prises au sérieux, devraient non pas faire passer toutes les vérités de la physique du côté de «subjectif»...となつてをり、Quantum physicsといふ言葉は出て来ない。文章を分かりやすくするためにBitbol氏が意訳してゐるものと思はれる。

*2:ACADEMIAのサイトから見ることができる。ACADEMIAは論文発表の場として設けられたサイトだが、無料の登録で、様々な研究者が掲載した論文を読むことができるので、重宝してゐる。

タイムドメイン ウーファー zeppo

久しぶりに音楽再生のタイムドメインの話題。

Kappa Infinito*1さんが開発されたタイムドメイン ウーファーzeppoを試聴して来た。雑司ヶ谷試聴室。zeppoといふのはイタリア語で「満ち溢れる」といふ意味だとのこと。

インパルス特性を重視して波形の忠実な再生を目指すタイムドメインの考へ方*2で設計されたスピーカーでは、小口径のスピーカー1個で全ての周波数の音を出すフルレンジ型のものが多いのだが、周波数帯の両端、特に低音ではやや不満が残ることは否めない。これを補ふために、DENSO TEN社のECLIPSEなどでウーファーが売り出されてゐる。その他にも世の中にウーファーはたくさんあるのだが、タイムドメインの設計思想で作られたものでないと、音がぼやけて、むしろ無い方がましといふ結果になつて仕舞ふのだ。

Kappa Infinitoさんのウーファーは、箱型のECLIPSEのものとは違ひ、Yoshii9のやうな円筒形で、8cmのユニットを使つてゐる。円筒形で余分な音が更に小さくなり、似たやうな要素が使はれてゐることから、Yoshii9などのメインのスピーカーとの相性も良いと予想される。電気的なローパスフィルターは使はず、物理的な音の出口を小さくすることで高音域を絞る仕組みを採用して、位相のズレを防いでゐる。

さて、実際の音は如何。聴いてみると、本当に自然な音がする。低音が強化されるのは勿論だが、中高音もカドが取れ、さらに本物の楽器の音に近づくと感じる。音の繋がりも全く違和感なし。

Yoshii9は素晴らしいスピーカーなのだが、音源によつては、低音楽器の場合などに、言つてみれば本来は丸い形の音が、どこか欠けてゐて、半月や三日月のやうに聞こえる気がすることがある。マニアの性かも知れないが、一度それが気になり出すと、音楽を楽しめなくなる。zeppoを付けて聴くと、さうしたストレスが全く無くなり、音楽に集中してゐる自分がゐる。

zeppoを加へたシステムから出て来るのは、地響きするやうな低音でも、(ウーファーだから当たり前だけど)煌めく高音でもない。ただただ自然な楽器の音、人の歌声だ。購入者から「ウーファーを入れると、ティンパニーの音が自分で演奏したときに聴こえる音になりました。」といつた反応が出てゐるのも納得。楽器を演奏する人の購入が多いらしい。

正確で立体的な音像を重視する関根さんが作られたウーファーだけあつて、映画であれば、いかにも自然なヘリコプターの羽の音や街の騒音が、画面の然るべき位置から聞こえて来る。ウーファーとしては小型で場所も取らない。タイムドメインのスピーカーの愛用者には、強くお勧めする。さうでない人も、zeppoを組み込んだタイムドメインの音を、是非、一度聴いてみて欲しい。忠実な再生音に驚かれると思ふ。

*1:正式には、クニテック株式会社のKappa Infinito事業部。

*2:由井(よしい)啓之氏が提唱した理論。タイムドメイン社のサイトで、技術的な情報をみることができる。

ヨブヘの答へ

ユング(1875-1961)の『ヨブへの答へ』は、一神教の神について考へる機会を与へて呉れる本だ。
ヨブ記
扱はれてゐるのは、旧約聖書の「ヨブ記」である。ヨブは神がサタンに自慢するほど敬虔な人だつたが、挑発に乗つた神が、サタンに、命さへ取らなければ好きにして良いと言つたため、家族や財産を失ひ皮膚病を患ふなど、酷い目に遭ふこととなる。ヨブは、悪くない自分が何故こんな目に遭ふのか、それを知りたいと神に問ひ質さうとする。友人達があれこれと説得を試みるが、ヨブは考へを変へない。最後には神が大風の中からヨブに声を掛ける。神はヨブの問ひには直接答へず、逆に「なんぢ我(わが)審判(さばき)を廃(すて)んとするや、我を非として自身(おのれ)を是とするや」などとヨブを責める。ヨブはかう応じる。「嗚呼(ああ)われは賤(いや)しき者なり 何となんぢに答へまつらんや 唯(ただ)手をわが口に当(あて)んのみ われ已(すで)に一度(ひとたび)言(いひ)たり 復(また)いはじ 已(すで)に再度(ふたゝび)せり 重ねて述(のべ)じ」。かうしたやり取りの後、神は、ヨブの友人達は誤つてをり、ヨブは正しいとして、その財産をかつての二倍にする。新しい家族も出来、離れてゐた親戚、友人も戻つて来て、ヨブは幸せに人生を終へることとなる。
ユングの読み
一般的には、ヨブが神を責めるのを止めて改心し、幸せに暮らした、といふ読み方がされてゐるが、死んで仕舞つた子供達はどうなるのか、そもそも、神は何の為にヨブを酷い目に遭はせる必要があつたのか、サタンに唆されるとは軽率だつたのではないか、等の疑問が沸く。
ユングは『ヨブへの答へ』で、ここで明らかにされた神の暗部をどう受け入れべきか、といふ観点から「ヨブ記」を論じてゐる。そして、神はヨブの問ひに答へなかつた、答へることが出来なかつたが、ヨブとのやり取りを通じて自らの暗部に気づき、人間の優れた面を認めるに至つたと考へる。そして、神の子キリストが人間の姿で生まれるといふのは、神のヨブへの答へだと言ふのだ。キリストが死に際して「わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給ひし」といふ言葉を発する場面は、神とヨブとの対話のクライマックスとも見える来る。
神とはどのやうな存在か
このユングの読み方が、宗教界から大きな批判を招いたのは、当然と言ふべきだらう。ユングは神を精神分析にかけた、といふ言ひ方がされることもあるが、神を人間に引き付け過ぎてゐるのではないか、と思はれる。しかし、ユングは聖書に書かれてゐることを基礎にして自説を展開してゐるのも事実なのだ。
予備知識を持たない日本人が想ひ描く一神教の神は、世界の創造者で、時間や空間を超えた、全知全能の、人智の遥かに及ばない存在ではないだらうか。だが、聖書に描かれた神は、怒りなどの感情を持ち、時間とともに変はるし、全知全能とも言ひ難い。少なくとも、自らの行ひがどのやうな結果を招くかをよく考へないで動いてゐると見える場面が何度も出て来る。自分が創つた人間が気に入らず、大洪水を起こしてノアの家族以外は全て滅ぼしてしまふのは、その一例だ。
また、神は善の極致だとする考へ方も、聖書の記述とは合はない、ユングは見る。そもそも神を唆すサタンも、神が創り出したのではないのか。神の暗い部分を否定するやうな一面的な見方が、心に巣食ふコンプレックスのやうに文明を歪めてゐる、と考へてゐるのだ。1952年に書かれたこの本の背景には、ナチスの暴虐や核兵器による人類の危機がある。全てが善だといふ神の姿を強調しすぎたために、暴力的な異教の神がドイツ民族の心の中で力を持つに至つた、といふのがユングの見方だ。神の中にも悪があるやうに、自分の中にある悪を知ることが、人間の進歩には欠かせないと考へてゐるのだ。
『GOD 神の伝記』
かうした神の見方は、1996年にピューリッツァー賞を受けたジャック・マイルズ(1942-)の『GOD 神の伝記』を思はせる。この本は、ユダヤ教の聖書タナフ(内容はほぼ旧約聖書に対応するが、配列は異なつてゐる)を一つの文学作品と見て、その主人公である神の姿が物語の進行に伴つてどのやうに変はるのかを分析してゐる。一神教の神は、他の宗教にも見られる世界の創造神だけでなく、個人や集団の守護神など、様々な神の役を一人でこなさなければならないので、その物語を矛盾なく進めるのは一苦労だ。
マイルズに拠れば、唯一神はタナフの初めの方では、天地を創造し、ユダヤ人のエジプトからの脱出を助けるなど、主役らしい活躍を見せるのだが、半ばに差し掛かると一人の女の願ひに耳を傾けるといつた小さな役回りになり、最後の方では殆ど言葉も発せず、姿が見えなくなる。「ヨブ記」は、この流れの中でも、一つの大きな転換点となつてゐる。
ユングにとつての神
マイルズにとつて、神は、少なくともタナフの主人公としては姿を消して仕舞ふのだが、ユングにとつての神は、確かに在るものだつた。それは人には知ることのできない神秘ではあるが、私達の心を動かす否定できない力だ。
神話はこの働きを表現したもので、それは聖書でも同じだ。聖書に描かれた神の姿は完結したものではない。私達が無意識の世界を知り尽くすことができないやうに、神の全貌を知ることはできない。しかし、様々な経験から、より豊かな像にすることはできるし、それが私達の務めだ。
かうした考へ方から、ユングは『ヨブへの答へ』の中でも、神の中にある女性的なものの働きを取り上げる。また、聖書の解釈を個人に委ねて仕舞つたプロテスタントには批判的で、1950年にマリアの昇天を正式な教義とする*1といつた動きを見せるカトリックに共感を示す。
聖書、特に旧約聖書については、これまで殆ど何の知識も持つてゐなかつたが、これらの本を読んで、そこで語られてゐるのが極めて複雑な物語なのだといふことが、少し分かつた気がする。

*1:聖母の被昇天と呼ばれる教義につては、このサイトが参考になる。