ベルクソンと量子力学

ベルグソン(1859-1941)の哲学と量子力学との関係については、小林秀雄(1902-1983)が『感想』と題されたベルクソン論の中で取り上げてゐる。引用の多い『感想』の中で、これは独創的な部分ではないかといふことを他の場所に書いたことがあるが、調べて見ると、フランスでは終戦前からすでに話題になつてゐたやうだ。

特に、ド・ブロイ(1892-1987)によるLES CONCEPTIONS DE LA PHYSIQUE CONTEMPORAINE ET LES IDÉES DE BERGSON SUR LE TEMPS ET SUR LE MOUVEMENTといふ論文は興味深い。Revue de Métaphysique et de Morale誌の1941年10月号*1に掲載されたもので、上のJSTORのリンクから見る事ができる。(登録が必要だが、読むだけなら無料。)

言ふまでもなく、ド・ブロイはフランスの理論物理学者で、光が波と粒子の両方の性格を合はせ持つのであれば、物質にも波の性質があるのではないかといふ考へを提唱した。量子力学の基礎を築いた一人であり、1929年にノーベル物理学賞を受賞してゐる。

ド・ブロイは、若い頃からベルクソンの時間や持続(durée)、運動に関する独創的な意見に感銘を受けてゐたが、最近その著作を読み返してみると、"Essai sur les données immédiates de la conscience"(『意識に直接与へられてゐるものに関する試論』、英訳の題名『時間と自由』でも知られる)に、量子力学の考へ方に通じる見方が示されてゐて驚いた、と言ふ。"Essai"は1889年の論文で、ボーアやハイゼンベルグ量子力学(ド・ブロイは「波動力学」といふ言葉を使つてゐる)解釈が出される40年も前に書かれたものなのだ。

ド・ブロイの論文で興味深いのは、ベルクソンがしばしば論じた現実の持続と科学が扱ふ抽象的な時間との差ではなく、空間を取り上げてゐる点だ。『物質と記憶』の第4章や「要約と結論」から引用した後、次のやうに述べてゐる。

この文章は持続に関するものほど知られてゐないだらうが、これを引いたのは、ベルクソンの哲学が、次のやうな考へにつながるし、実際に彼はさう考へたことが何度かあつたことを示すためである。広がりを一様な幾何学的空間で表はすのは、少なくとも一部において、数学者や物理学者が持続を一様な時間で表はすのに似た、偽りの性格を持つといふ考へが、それだ。(244頁)

物質と記憶』の第4章は、二元論の立場から出発したベルクソンが、物質と精神の二つを結びつけるための哲学を模索した部分で、難解さで知られてゐるが、ド・ブロイの読みや引用は非常に的確で、感心する。

時間については、ベルクソンアインシュタインの間に論争があり、ベルクソンは『持続と同時性』といふ本を書いたが、ド・ブロイはベルクソンの書いた一番良くない本だと言つてゐる。ベルクソンアインシュタインの主張をよく分かつてゐなかつたやうで、批判されたのは当然だといふ意見だ。しかし、相対性理論は量子的な現象をうまく説明できない。ベルクソンの哲学は、時間を含めて全てを4次元空間の量に還元すると見える相対性理論とは相容れないが、量子力学とは親和性があるのではないか、さうド・ブロイは話を進める。

運動についてのベルクソンの見方を示すため、ド・ブロイは『創造的進化』の次の一節を引用してゐる。

つまるところ、錯覚はつぎのことに由来する。運動はひとたびおこなわれてしまえば自分の経過につれて不動の軌道曲線をのこしているもので、ひとはあとからその線上にいくらでも不動を数えることができる。そこからひとは結論して、運動はおこなわれているあいだ刻々と自分の足もとに自分が合致していた位置を落としてゆくのだ、というわけである。(真方敬道訳岩波文庫版362頁。傍点をゴチックに変へた。Edition du Centenaireでは756頁。)

このベルクソンの主張が誤つてゐるとすれば大胆さが足りないといふ点だ、とド・ブロイは言ふ。実際、ベルクソンは、軌道を想定してゐるため、実際の運動が軌道上の幾何学的な移動とは異なることを説明するのに苦労してゐる。しかし量子力学では動くものに軌道を当てはめることはできない。一連の観測で得られるのは瞬間瞬間の位置だけであり、同時に運動に関する情報を得ることは諦めねばならない。『時間と自由』の次の一節は、これを予見してゐたかの如くであると言つてゐる。

空間のなかには空間の諸部分しかないのであって、運動体を空間のどの地点に考えようと、ただ位置しか得られないだろう。(中村文郎訳岩波文庫版134頁。Edition du Centenaireでは74頁。ド・ブロイは、「ただ位置しか得られないだろう」の部分を斜体で強調して引用してゐる。)

続いてド・ブロイは同じ『時間と自由』の少し先にある文章を引用する。

要するに、運動のなかに二つの要素を、すなわち通過された空間と空間を通過する行為、継起的諸位置とそれらの位置の総合とを区別しなければならない。…しかし、ここで再び、内浸透の現象、つまり運動性の純粋に内包的な感覚と通過された空間の外延的表象との混合が生じる。(同135-136頁。Edition du Centenaireでは75頁。)

そして、次のやうにコメントする。

波動力学の観点からは、この言ひ方は完全に満足すべきものとは見えない。次のやうに言ふべきだらう。量子的な実体は、粒子といふ概念、つまり要するに幾何学的空間に位置づけられる点と、波といふ概念によつて、交互に表現することができる、と。波は波動力学では、空間的な位置づけを全く持たない、純粋な状態の運動を表現してゐる。かうして波動力学では、対立する二つのイメージを操つて、運動を空間的な位置決めから切り離すことに成功した。そして、この二つのイメージはその厳密な形では同時に用ゐることができないとされる。それがハイゼンベルグの不確定性の中身だからだ。(250頁)

また、量子論について、次のやうに述べて、ベルクソンの文章との類似を指摘する。

もし時刻t1よりも後の時刻t2において、実験や観察によつて粒子の位置を正確に知ることができるとすると、私達にとつて状況は完全に変はる。何故なら、実現するのは一つの可能性であり、他のどれでもないからだ。かうして、量子論においては古典理論をはるかに超えて、時間が経過することで、新しく予期できない要素がもたらされるやうに見える。これはベルクソンの筆になる言葉と同じだ。彼はかう書いてゐる。「この点を堀り下げるほど、私には次のやうに思はれてくる。もし未来が、現在に並んでゐるのではなく、その後に続くことを定められてゐるのであれば、未来は現在の時点で完全には決定されてゐない、と。そして、この継続が占める時間が(単なる)数量とは別物であるとすれば、そこでは絶えず予期できないもの、新しいものが創造されてゐる、と。」*2

この他に、『時間と自由』の「してみれば、物質の不可入性を立言することは、単に数の観念と空間の観念との連関を認めたというだけのことであり、物質の一特性より、むしろ数の一特性を言い表しているのである。」という文(中村文郎訳岩波文庫版109頁。Edition du Centenaireでは60頁)を引いて、量子力学では同じ場所に二つの粒子が存在することが可能となり、昔ながらの物体の不可入性といふ考へ方が崩れてゐる事実と対比してゐる。

上に述べたもの以外にも、ド・ブロイは量子力学ベルクソンの思想の類似が見られる例をいくつか挙げてゐるが、長くなるので省略する。

ベルクソン自身が量子力学に言及した例は少ないが、ド・ブロイは最後に、その一つとして『思想と動くもの』にベルクソンがつけた次の註を引用する。

そこで人は、きわめて最近の物理学に従って物理的事実を構成する要素的現象の不確定性の仮説をとる場合でも、やはり物理的確定性と言うことができるばかりでなく、そう言わなければならない。というのは、この物理的事実は、曲げることのできない確定性に従うものとしてわれわれに知覚される点では、われわれが自身を自由と感ずるときに果たす行為と根本的に区別されるからである。私が前に暗示したように、それぞれの視覚が要素的な現象の特殊な程度における凝集にとどまるのは、まさに物資をこの確定性の鋳型に流しこみ、われわれをとり巻く現象の中で、それに対する行動をわれわれに許す継起の規則性を得るためではないかと問うかもしれない。さらに普遍的に言うと、生物の活動は、その持続を凝集することによって、事物の支えとなる必然性に寄りかかり、それに自分の寸法を合わせることになる。(河野与一訳岩波文庫版403頁。Edition du Centenaireでは1301頁。)

そして次のやうに締めくくつてゐる。

興味深い示唆だ。これに従へば、生物は必然的に「巨視的」な知覚を持つだらう。何故なら、巨視的なものにおいて初めて明確な決定論が支配し、生物の諸物に対する活動が可能になるからだ*3。この孤立した文を読むと、この偉大な哲学者がその透徹した眼で、新しい物理学の予期されなかつた地平を見渡すことができなかつたことを、どれほど残念に思ふやうになることか。

ベルクソンの基本的な問題意識は、科学の説く必然性から人間の自由を守ることだつた。量子力学の登場により、科学自体が、ある種の確率を含むものとなつた。これは自由の余地を意味するのだらうか。観測による「波束の収束」が、どのやうな物理現象に対応してゐるのかなど、量子力学の解釈については、今だに議論が続いてゐる。それがどのやうな結論に落ち着くにせよ、科学と自由が両立するものであることは議論の余地がないと思はれる。科学は確かに自然の法則性を捉へるが、それは自然をある視点から、つまり一面的に捉へるからだ。科学が描く自然が私達に与へられた自然の全てではない。

この事実は、常識の立場からすれば当たり前だと思ふのだが、科学者の中には、人間には自由など無いと真顔で主張する人が今でもゐる。しかし、全てが決定されてゐるのであれば、「新しさ」とは何だらう。科学は新発見を誇りにし、新しい技術を応用して新製品が世に出されるが、もし古典力学から推測されるように全てが決まつてをり、時間を逆にしても同じやうに世界が成り立つのであれば、そんな世界に「新しさ」などあり得ないのではないだらうか。

量子力学が、人間の自由の問題についてどのやうな回答を出すかはまだ分からないが、ベルクソンの著作は、さうした問題を考へるためにも、様々な示唆を与へて呉れる。

ベルクソンの主な著作には、翻訳が出てゐる。一般的に言へば、若い人には新しい翻訳の方が読みやすいだらう。岩波文庫は、品切れになつてゐるものもあるやうで、Amazonで検索すると、中古品が出て来る場合がある。

ベルグソンには、このほかに『道徳と宗教の二源泉』があるが、ド・ブロイの話には出て来ないので、省略した。

ド・ブロイ自身の著作は、現在は手に入りにくいようだ。以前、『物質と光』といふ本が岩波文庫から出てゐた。中には「量子力学に関する哲学的研究」と題された文章も含まれてゐるが、連続性と個別性など、物理学で用ゐられる概念の検討を行つたもので、ベルクソンについての言及は無い。科学史に関心がある人以外には、あまりお勧めではない。

*1:この号は、同じ年の1月にナチス占領下のパリで死んだベルクソンの追悼号である。

*2:真方敬道訳岩波文庫版『創造的進化』では396頁にあたる部分。但し、文章は少し異なる。この部分に限らず、ド・ブロイが引用する文章や示されてゐる頁はEdition du Centenaireとは少し異なる場合が多い。参照してゐる版の違ひか。

*3:量子力学の生みの親の一人であるシュレディンガーが書いた『生命とは何か』といふ本にも、同様の説が述べられてゐる。

中江兆民にとつての哲学(承前)

兆民の哲学は『続一年有半』で窺ひ知ることができ、唯物論的なものであると書いたが、少し詳しく見ると、単純な唯物論ではないところが面白い。

精神とは本体ではない、本体より発する作用である、働きである。本体は五尺軀である、この五尺軀の働きが、即ち精神てふ霊妙なる作用である。譬へばなほ炭と焰との如きである、薪と火との如きである。(岩波文庫版116頁)

兆民がこの点を強調するのは、精神が死後も残るとの説は人間の身勝手な考へから出たものだといふ思ひが強いからだ。そして、精神よりも物質の方が不朽不滅だと言ふ。次のやうな言ひ方までしてゐる。

釈迦(しゃか)耶蘇(ヤソ)の精魂は滅して已に久しきも、路上の馬糞は世界と共に悠久である、天満宮即ち菅原道真の霊は身死して輒(すなわ)ち亡びても、その愛した梅樹の枝葉は幾千万に分散して、今に各々世界の何処にか存在して、乃ち不朽不滅である。(同112頁)

そして、唯心論者(虚霊派哲学士)が唱へるやうな精神は「言語的泡沫」に過ぎないと言つてゐる。

かう主張しながら、他方で、実証主義(現実派哲学)を批判してゐるのが兆民の特徴と言ふべきだらう。

かく論ずる時は、この一派は極て確実拠(よ)るべきが如くに見えるが、その現実に拘泥するの余り、皎然(きょうぜん)明白なる道理も、いやしくも実験に徵し得ない者は皆抹殺して、自ら狭隘にし、自ら固陋に陥いりて、その弊や大に吾人の精神の能を誣(し)いて、これが声価を減ずるに至るのである、これ正にこの派において放過すべからざる欠失である。(同141頁)

と言ふのも

惟ふに今日世の中の事、必ず目視て耳聴き科学検証を経たるもののみ確実で、余は悉く不確実だといはば論理の半以上は抹殺せねばならぬこととなり、極て偏狭固陋の境に自画せねばならぬこととなる。かつ日常の事、必ずあり得べきもの、または必ずあるべからざるものは、皆直ちに人言を信じて、必しも検証を施さないで、それで己れも許し人も許して、而して真に確実で動かすべからざるものが幾何(いくら)もある。且つたとひ科学の検証を経ずとも、道理上必ずあるべき、またあるべからざる事も、幾何もある。(同142頁)

現実の世界では、実証主義者が言ふやうな科学的検証を経ないものが、正しいと信じられてをり、それで通つてゐると言ふわけだ。さうした例として挙げられてゐるのは、世界に涯てがあるかといふ問題である。

即ち世界が無限であるといふ事の如き、たとひ科学の検証がなくとも限極があるといへば、大変大怪大幻詭であるといはねばならぬ。世界とは唯一の物で、およそ容れざる所ろないもので、有も容るべく無も容るべく、空気も容れ依天児(エーテル)も容れ、太陽系天体も容れ千数太陽系の天体も容れ、もしこの系の外真空界なりとせば、この真空界をも容れて居るはずである。かくの如きものに限極のある道理がない、もし限極ありとの科学の検証があっても信ずべからずではない、何そ現実派の想像に怯懦なるやといはねばならぬ。(同142頁)

別の例として、世界に始めがあるか、といふ問ひも取り上げられてゐる。

またこの無限無極の世界が何らかの原因ありて、無中に有とせられて即ち創造せられて出来たといはば、たとひ千百科学の検証ありても信ずべきでない、吾人がしばしば論じた如く、無よりして有とは道理においてあるべきではない。故に世界が今日の状を為す前には、何の状を為したかは知れないが、とにかく何らかの状を為して居たには相違ない、畢竟創造せられたものではなく、固より無始のものでなければならぬ。(同143頁)

上記のやうな議論は、本職の哲学者からすれば、「突つ込みどころ満載」だらう。カントの『純粋理性批判』も読んでゐないのか、と言ひたくなりさうだ。しかし、兆民はフランスの哲学の教科書を翻訳して『理学沿革史』を書いた時には、確かにカントについても読んでゐる。

カント以爲ラク是等相容レサル諸種リテ所以他無吾人心中自ラサルノ理有ルガメニシテレヲチニ事物中リトスニ此一念畢竟妄タルヲレストナレハ吾人智慧固有構造有リテヨリ事物本體交渉有事無レハナリ(『理学沿革史 下』国立国会図書館版 648-649頁)

翻訳ではなく自ら著した『理学鉤玄』でも、同様の記述がみられる。にも拘はらず、まさにここでカントが批判してゐる、心の中の論理をそのまま世界に適用するといふ行ひをしてゐるのだ。

その真意がどこにあるのか、幸徳秋水の序文にあるやうに「わづか十日か二十日の間に、病苦をしのんで大急ぎで書き上げねばならぬ」といふ状態で書かれた文章であるため、知ることは難しい。

『続一年有半』は、次のやうな文章で終へられてゐる。

かくして道徳論理と順次論道すべきはずではあるが、元これ組織的に哲學の一緒を編するのではない、組織的に一書を編するのは、著者今日の境遇の容るさざる所ろである、故に首章より輒(すなわ)ち雑乱を極めて居る。但大体趣旨とする所ろは、神の有無、霊魂の滅不滅、世界の有限無限、及び始終ありやなきや、その他無形の意章*1等、古来学者の聚訟(しゅうしょう)する五、七件を把て意見を述べたに過ぎない。他日幸にその人を得てこの間より一のナカヱニスムを組織することがあるならば、著者に取て本懐の至りである。(岩波文庫版174-175頁)

 

 『一年有半・続一年有半』は、岩波文庫に詳しい註を付した本がある。光文社の古典新訳文庫には、現代語訳もあるが、やはり原文で読みたい。

*1:「意章」はidéeの訳語である。

中江兆民にとつての哲学

中江兆民(1847-1901)が、『一年有半』の中で「日本に哲学なし」と言つたことは良く知られてゐる。兆民の念頭にあつた哲学とは、どのやうなものなのだらうか。

 わが日本古より今に至るまで哲学なし。本居篤胤の徒は古陵を探り、古辞を修むる一種の考古家に過ぎず、天地性命の理に至ては瞢焉(ぼうえん)たり。仁斎徂徠 の徒、経説につき新意を出せしことあるも、要、経学者たるのみ。ただ仏教僧中創意を発して、開山作仏の功を遂げたるものなきにあらざるも、これ終に宗教家範囲の事にて、純然たる哲学にあらず。近日は加藤某、井上某、自ら標榜して哲学者と為し、世人もまたあるいはこれを許すといへども、その実は己が学習せし所の泰西某々の論説をそのまま輸入し、いはゆる崑崙に箇の棗を呑めるもの、哲学者と称するに足らず。それ哲学の効いまだ必ずしも人耳目に較著なるものにあらず、即ち貿易の順逆、金融の緩慢、工商業の振不振等、哲学において何の関係なきに似たるも、そもそも国に哲学なき、あたかも床の間に懸物なきが如く、その国の品位を劣にするは免るべからず。カントやデカルトや実に独仏の誇りなり、二国床の間の懸物なり、二国人民の品位において自ら関係なきを得ず、これ閑是非にして閑是非にあらず。哲学なき人民は、何事を為すも深遠の意なくして、浅薄を免れず。(岩波文庫版31-32頁*1

 カントやデカルトが哲学者のあるべき姿として想定されてゐることは分かる。本居宣長平田篤胤は、「天地性命の理」*2を明らかにしてゐないので失格。「性命の理」は、「人の性、天の命を貫く理」といふことらしい。伊藤仁斎荻生徂徠も、中国古典の注釈者に過ぎない。仏教者には見るべき者もあると言つてゐるが、具体的な名前は挙げられてゐない。『碧巌録』が愛読書であつたらしいので、禅宗の僧だらうか。

兆民が哲学の欠如を嘆いたのは、次のやうな理由からだつた。

 わが邦人これを海外諸国に視るに、極めて事理に明に、善く時の必要に従ひ推移して、絶て頑固の態なし、これわが歴史に西洋諸国の如く、悲惨にして愚冥なる宗教の争ひなき所以なり。明治中興の業、ほとんど刃に衄(ちぬ)らずして成り、三百諸侯先を争ふて土地政権を納上し遅疑せざる所以なり。旧来の風習を一変してこれを洋風に改めて、絶て顧籍せざる所以なり。而してその浮躁軽薄の大病根も、また正に此にあり。その薄志弱行の大病根も、また正に此にあり。その独造の哲学なく、政治において主義なく、党争において継続なき、その因実に此にあり。これ一種小怜悧、小巧智にして、而して偉業を建立するに不適当なる所以なり。極めて常識に富める民なり、常識以上に挺出することは到底望むべからざるなり。亟(すみや)かに教育の根本を改革して、死学者よりも活人民を打出するに務むるを要するは、これがためのみ。(岩波文庫版32頁)

兆民は文部省編輯局が出した『理学沿革史』*3の翻訳を担当してゐるし、『理学鉤玄』といふ哲学解説書も書いてゐる。「理学」といふのは兆民流の訳語で、『理学鉤玄』の最初に次のやうに書いてゐる。

「フィロゾフィー希臘言ニシテ世或シテ哲學ヨリ不可ナル易經窮理シテ理學スモ相同 (国立国会図書館デジタルコレクション版 1頁)

フィロゾフィーといふ言葉をそのままに訳せば聖人、哲人になる事を願ふので「哲学」で良いが、「其本原ヲ窮究スル」といふ趣旨を踏まへれば「理学」といふ訳語が適する、と言ふのである。

『理学鉤玄』では、哲学(理学)を次のやうに定義してゐる。

理學ラス其旨趣タル諸種學術相通シテ原本スル講求シテ事物最高層透徹スルニ所謂最高層トハヘハ天地日月禽獸蟲魚凡動植屬吾人耳目五官スル者之實質(マチエール)クハ實體ルニ此等實體采色若クハ聲音若クハ形貌若クハ輕重實其本相ニシテ空幻サル乎即キハ吾人スルニスルニシテ物實ルニサル事無キヲ乎又吾人キモ其感覺思念决斷スルハ頭腦機關(オルガニスム)ノラシムルナル乎將虚靈不昧(スピリチユエール)ノ精神ナル者有一身主宰リテ此等能力スト乎斯天地萬有者有リテセシ乎将偶然トシテ突如トシテリタル乎世界萬物皆個々圓成シテ各々獨立不倚ナル乎將一個本根(シュプスタンス)リテ皆之レニ統屬スト乎吾人善クルハ吾人心實决斷シテ乎将ラスラス外来目的牽引セラレテルト

此等皆所謂事物最高層ニシテ窮究スルハ理學ナリ

 (国立国会図書館デジタルコレクション版 3-4頁)

また、同書では哲学を次の図のやうに分類してゐる。

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中江兆民による哲学の分類

兆民自身がどのやうな哲学を持つてゐたかは、『続一年有半』を見ると窺ひ知ることができる。「一名無神無霊魂」といふ副題からも分かるやうに、唯物論的な考へ方である。

余は理学において、極めて冷々然として、極めて剥出しで、極めて殺風景にあるのが、理學者の義務否な根本的資格であると思ふのである。故に余は断じて無仏、無神、無精魂、即ち単純なる物質的学説を主張するのである。五尺軀、人類、十八里の雰囲気、太陽系、天体に局せずして、直ちに身を時と空間との真中≪無始無終無辺無限の物に真中ありとせば≫に居いて宗旨を眼底に置かず、前人の学説を意に介せず、ここに独自の見地を立ててこの論を主張するのである。 (岩波文庫版 115頁)

日本に哲学が欠けてゐるために、「小怜悧、小巧智にして、而して偉業を建立する」ことができない、といふのが兆民の見立てだが、その哲学についての考へ方は、当時の西洋哲学の立場を踏まへたもので、常識的なものだと言へるだらう。教科書の翻訳である『理学沿革史』は勿論のこと、『理学鉤玄』についても西洋哲学の紹介のための本なのだから、当然と言ふべきだが。

考へるべき問題は、かうした哲学を学ぶことが、本当に日本人の「小怜悧」を克服することにつながるか、といふ点ではないかと思ふ。

 

 『一年有半・続一年有半』は、岩波文庫に詳しい註を付した本がある。光文社の古典新訳文庫には、現代語訳もあるが、やはり原文で読みたい。

*1:この引用でも分かるやうに、兆民の文章には漢語が多く、ここでは一つを除いて省略したが、岩波文庫でも多くの仮名が振つてあり、巻末には出典を含めた詳しい註がある。

*2:岩波文庫ではこの言葉には註がついてゐないが、『易』の「説卦伝」に次のやうな言葉がある。「昔者聖人之作易也。將以順性命之理。是以立天之道曰陰與陽。立地之道曰く柔與剛。立人之道曰仁與義。」昔者(むかし)聖人の易を作るや、将(まさ)に以て性命(せいめい)の理に順(したが)わんとす。是(ここ)を以て天の道を立てて陰と陽とと曰(い)い、地の道を立てて柔と剛とと曰(い)い、人の道を立てて仁と義とと曰(い)う。(本田済『易下』朝日文庫版351頁)

*3:1886(明治19)年出版。原本はAlfred Fouillée "Histoire de la Philosophie"

カール・シュミット『政治的なるものの概念』

今朝の朝日新聞大澤真幸氏による連載コラム「古典百名山」にカール・シュミット(1888-1985)の『政治的なるものの概念』が取り上げられてゐた。シュミットはここで敵と友の区別が政治の本質であることを主張してゐる。

政治的なものとは何かを定義するために、シュミットは政治に固有のカテゴリーを探すことから始める。そして、倫理では善・悪、美学では醜・悪、経済では得・損といふ区別が基本的なものであることに対応して、政治的なものは友・敵といふ区別によつて特徴づけられると主張する。

以前に、かうした考へ方は複雑な世の中を単純化するもので、意図は真面目なものだとしても、弊害が大きいといふ意見を述べた。ところが、上記のコラムには、次のやうに書かれてゐた。

 まったく逆に、この政治概念は、近代性ということをまじめに純粋に受け取ったときにこそ導かれるアイデアである。近代性とは、誰もが受け入れる(内容豊かな)普遍的な価値や善は存在しない、ということだ。全員に自明なものと見なされる善の観念や宗教的な規範はない。だから普遍的な善や正義が存在しているかのように仮定し、それらによって政治行動や戦争を正当化することは許されない。
 では近代の条件のもとで、政治はどうするべきなのか。暴力的とも見える仕方で秩序を押し付けるほかない。それこそが、友と敵の区別だ。「この命令を受け入れる者が友である」とする決然たる意志が必要になる。

確かに、平和な政治が成り立つためには、ある種の価値観が共有されてゐることが必要だ。それが無い場合には、力に頼るしかない。今、中国政府が香港で目指してゐるのは、まさにかうした暴力による秩序の確立だらう。逆に言へば、中国と香港には共有の価値観は存在しないことを中国政府が自ら示してゐるのだ。

シュミットは、政治的な敵は、倫理的な悪や美学的な醜であること、あるいは経済的な競争相手であることを必ずしも意味しない、と述べてゐる。経済的には敵と組むのが有利なこともある。しかし、敵は敵だ。自らの在り方と異質なものは、必要に応じて力を使つてでも排除するしかない。

大澤氏は、次のやうに解説してゐる。

シュミットが反対したのは、中立的な枠組みを与えておけば話し合いで秩序が生まれるとか、利害の調整だけで秩序が得られる、といった発想だ。内実をもった普遍的価値が前提にできないとき、こうした方法では現実的な秩序は導出できない。

米国のBlack Lives Matterの運動は、シュミットの主張の正しさを示してゐる、と言へるかも知れない。しかし、政治を力の問題に限定することは、政治を貧しいものにするのではないだらうか。むしろ、普遍的価値を共有させることこそ、政治の役割ではないのか。

シュミットは、純粋に宗教上の、あるいは倫理上、法律上、経済上の理由で戦争をするのは馬鹿げてゐると言ふ。宗教上などの対立が強まれば、命のやりとりが係る政治的対立に発展するが、政治の立場からすれば、対立の理由は何であれ、友・敵といふカテゴリーが当てはまるかどうかが問題なのだ。

シュミットの理論は、現代の状況を見るための有力な視点を提供するものかも知れない。しかし、かうした理論が注目されるのは、異なる立場を踏まへた利害の調整による平和の維持といふ、本当の政治が今の時代に欠けてゐることを示してゐるやうに思はれる。

日本語訳の『政治の本質』には、シュミットの論文の他に、マックス・ウェーバー(1864-1920)の「職業としての政治」も収められてゐる。

英訳”The Concept of the Political"には、シュミットの1929年の論文"The Age of Neutralizations and Depoliticizations”と解説が入つてゐる。

御進講録

『御進講録』といふ本がある。吉川幸次郎(1904-1980)の師である狩野直喜(1868-1947)が大正天皇昭和天皇に御進講した際の原稿を整理して1984年に出版されたものだ。「尚書堯典首節講義」「古昔支那に於ける儒学の政治に關する理想」「我國に於ける儒學の變遷」及び「儒學の政治原理」の4つの講義が収められてゐる。

今回は「我國に於ける儒學の變遷」を読み返して見たのだが、宮崎市定(1901-1995)による解説には、次のやうに書かれてゐる。

第三部「我国に於ける儒学の変遷」は、昭和四年十一月中、二回の御進講の内容である。日本は奈良時代における儒学の輸入に始まり、如何に異国の文物制度を我国に適応せしむるかに努力し、次第に目的を達成して、本来の国俗と融合せしめ、徳川時代に至りては、独自の発達を遂げて、時には中国に先行する研究方法を発明し、彼地の学者がこれを勦竊 *1して、自己の著述を飾るに至った経過を述べる。最も要領を得たる日中文化交渉史の概観と言うべきである。

 徳川時代に日本の儒学が進んだのは、鎖国が一因で、中国からの最新研究が入つて来なくなつたので、あれこれ読んで博学になるのではなく、「僅か計りの書を熟讀」して自己の考へを練つたので、独創の見も出て来た、といふ話は面白い。やはり儒学の本場は中国なので、そこの最新研究は気になる。それを追ひかけてゐては、独創は難しい。

伊藤仁斎(1627-1705)が「命」「性」「天道」「理」などの言葉について精密に研究して朱熹(1130-1200)の解釈の誤りを指摘したのは、清の考証学者戴震(1724-1777)の業績に先立つこと七十年であるとか、山井鼎(?-1728)の『七經孟子考文』は足利学校に残されてゐた古写本で明以来の版本の文字の誤りを正したものだが、この本は乾隆帝が編纂させた『四庫全書』の経部に外国人の著述として唯一収められてゐるとか、興味深い。なほ、「勦竊」の話が出て来るのは伊藤仁斎ではなく荻生徂徠(物茂卿)のところである。

最後の方には、尊王攘夷思想と宋学との関係についても述べられてゐる。

なほ題名は「我國に於ける儒學の變遷」となつてゐるが、本文では「皇國」といふ言葉が使はれてをり、皇に「オ」といふカナが振つてある。

かういふ歴史を学んでも、やはり日本は東の果ての国だといふ想ひを強くする。それは必ずしも悪いことではない。世界的な文化の中心地は、争ひの地でもあつた。様々な混乱で失はれた文物が島国に残されてゐるといふこともあるのは、上記の『七經孟子考文』でも分かるとほりだ。辺境の国には辺境なりの生き方があるし、そもそも、世界の国の大半は中心国ではないのだ。

*1:狩野直喜の原稿にある言葉。読み方不明。手元の小さな漢和辞典にはこの言葉は無く、ネットで検索しても日本語のサイトは見当たらず。剽窃と同じ意味らしい。

日本人の脳、日本の言葉

角田忠信(1926-)といふ人が『日本人の脳』といふ本を出したのは1978年、今から40年ほど前の事だ。2016年には『日本語人の脳』といふ本も出てゐる。角田氏は、独自の試験方法を用ゐて、日本語(及びポリネシア語)を母国語とする人は、その他の言語を母国語とする人達とは違つて、母音を言語処理の優位半球(多くの場合左脳)で処理してゐる、といふことを見出した。さらに、虫の声や動物の鳴き声も日本語を母語とする人は、優位半球で処理してゐる。日本人には虫や動物も何かを語るやうに聞え、それ以外の大多数の人達には雑音に過ぎないといふのだ。人の叫び声は母音を伸ばしたものであるが、欧米の人も中国人も、それを言葉の優位半球では処理してゐない。叫びは言葉ではないのだ。西洋人では論理(ロゴス)と感情(パトス)が別々の半球で処理されてゐるが、日本人は両者を同じ半球で処理する。日本人の脳では生き物の世界とものの世界が分けられてゐるのだ。

角田氏自身の論文は、ネットで見られるものもある。

「正常な人の脳に見られる最近の知見」(『計測と制御』昭和60年11月)

この角田氏の主張は、日本人の特殊性を強調するものとして、欧米では殆ど相手にされなかつた。試験方法が特殊で、追試が難しかつたことも、さうした冷淡な反応の一因だらう。しかし、ポリネシア語でも同じ現象が見られるのだとすれば、単に日本人が変はり者だといふ話ではなく、世界への向き合ひ方として、西洋型(大陸型とも言へるだらう)とは異なる自然との共生を重視した型があり得ることを示す説になるだらう。

この本を読んだのは数年前だが、これを思ひ出したのは、コーラスの先生から、日本人の発声について、口を横に開いて発音する「あ」を美しい音だと感じるのは、日本人とポリネシア人だけだ、といふ話を聞いたからだ。「ぶりつ子」アイドルが出すやうな甘えた「あ」の音は、西洋音楽的な発声ではバツなのださうだ。

そこで、日本語とポリネシア語には何か関係があるに違ひない、と思いネットを調べてみると、崎山理(1937-)といふ研究者が2012年に、

日本語の混合的特徴―オーストロネシア祖語から古代日本語へ音法則と意味変化―
といふ論文を書いてゐるのを見つけた。日本語の起源については、様々な議論があつて、怪しい説にも事欠かないが、これは国立民族学博物館の研究報告に載つてゐるものなので、学問的にある程度認められたものだと見て良いだらう。

日本語は,北方のツングース諸語および南方のオーストロネシア語族の両文法要素を継承する混合言語である。日本語の系統もこの視点から見直そうとする動きがすでに始まっている。これまでに発表したいくつかの拙稿では日本語におけるオーストロネシア系語源の結論部分だけを述べたものが多かったが,本稿では音法則を中心とした記述に重点を置き,意味変化についても民俗知識に基づいた説明を行った。

といふもので、日本語の語源についても、新しい観点を提供するものだと感じた。

この崎山氏の論文を読みながら思ひ出したのは、Jared Diamond氏の名著"Guns, Germs, and Steel"。第17章"Speedboat to Polynesia"には、現在のポリネシアで話されてゐる言語の大半は台湾から出てゐる、といふ話が書かれてゐる。だとすれば、台湾から日本に流れて来た人達によつてオーストロネシア語と共通の根を持つ言葉が齎されたと考へることは不自然ではない。勿論、日本語は混合言語なので、これで全てが説明されるわけではないが、韓国語と日本語はあれほど文法的に似てゐるのに、共通の言葉が少ないのは何故だらうといふ疑問に、一つの回答を与へて呉れる。

日本といふ国は、西洋諸国は言ふまでもなく、中国とも異なる特徴を持つてゐる。さうした特徴を誰にでも理解できる形で整理して示すことは、世界文化の発展にも貢献することになる。研究者の奮起を期待したい。

 

 

 

日本人と漢籍

渡部昇一(1930-2017)『実践快老生活』の第五章は「不滅の「修養」を身につけるために」と題されてゐるが、その中に、高齢者に適してゐるのは「人間学」であり、人間学の中心になるのは古典や歴史だ、といふ話が出て来る。

ここで渡部氏が古典として例に挙げてゐるのは、『論語』『聖書』『菜根譚』といつた書物である。すぐにこれらの本を読むよりも、『論語』のまえに中島敦(1909-1942)の『弟子』を読むこと、吉川英治(1892-1962)の『三国志』を読んでから中国王朝の興亡について学ぶことなどを勧めてゐる。また『易経』『神学大全』といつた本の名前も挙げられてゐるが、すべてに精通するのは専門家に任せて、自分の気に入つたところを暗記するのが良いと言つてゐる。

ここに挙げられてゐる本は、『聖書』と『神学大全』を除けば、どれも中国の古典か、これを元にして日本で書かれた本である。少し先を読むと『百人一首』『伊勢物語』『古今和歌集』などの純粋に日本の本も出て来るが、これらはどれも文学的な作品で、人としての生き方、宗教などを正面から扱つたものではない。哲学的な古典とは、渡部氏にとつてはキリスト教の本でなければ、漢籍だつた訳だ。渡部氏自身が、かう言つてゐる。

戦前の中学は漢文や英語の水準がすこぶる高く、二年生の時の漢文の授業は『論語』だったのである。ちなみに中学五年(今の高校二年)の漢文には『資治通鑑(しじつがん)』も含まれていたが、今なら大学の中国文学科の学生が読むようなものである。中学の頃に『論語』などの古典の名文句を暗記させられたことは一生の知的財産になっているように思う。

(『知的余生の方法』40頁)

ところが、今日の日本では、かうした中国の古典は殆ど顧みられることがない。例へば、人事院公務員研修所が有識者に依頼して2011(平成23)年に「若手行政官への推薦図書」といふ資料を作つてゐる。ここには新渡戸稲造(1862-1933)『武士道』、福澤諭吉(1835-1901)『文明論之概略』、マックス・ウェーバー(1864-1920)『官僚制』、マキャベリ(1469-1527)『君主論』など、70冊余りの本が並んでゐるのだが、漢籍は一つもない。中国の古典に関係がある本として、安岡正篤(1898-1983)『政治家と実践哲学』と司馬遼太郎(1923-1996)『項羽と劉邦』の二つがあるだけだ。

明治維新で江戸時代を否定して西洋文明を追ひかけることとなり、江戸幕府が奨励した朱子学には陽が当たらなくなつた。それでも残つてゐた漢籍の教育は、敗戦で戦前の文化が否定されて、殆ど消滅状態となつてゐる。

情報化時代、国際化時代の今日、何千年も前の中国の古典を読む意味などあるのだらうか。加藤周一(1919-2008)はこんなことを言つてゐる。

論語』が古典であるのは、何世紀にもわたって中国を支配し、また日本でも大きな影響を早くから及ぼして、徳川時代に支配的となったあらゆる思想の根本に、『論語』があるからです。『論語』を読むこと、それを自分なりに理解するということは、したがって中国思想を自分なりに理解すること、また日本の徳川時代--しかし徳川時代ものの考え方はいまの日本にも残っていますから、また明治以降の日本でのものの考え方の全体を、自分なりに理解するということになるでしょう。

(『頭の回転をよくする読書術』光文社版47-48頁、ゴチックは原文では傍点)

しかし、この本も初版は1962(昭和37)年に出されてをり、半世紀以上前の話である。

ともかく、中国の古典をもう一度読んでみようといふ人には、朝日新聞社が出してゐた『中国古典選』が便利だと思ふ。朝日選書、朝日文庫の両方で出てゐたが、残念ながら今は絶版のやうだ。吉川幸次郎(1904-1980)の監修。『論語』は吉川氏自身が注釈してゐて、中国の古注と新注などの『論語』解釈の歴史から伊藤仁斎(1627-1705)、荻生徂徠(1666-1728)など日本の学者の説まで紹介されてをり、冒頭の解説を読むだけで、大いに勉強した気になる。

島田虔次(1917-2000)が注釈をつけた『大学・中庸』の解説も、私のやうな初心者には非常に為になる。例へば、四書五経といふ言葉は聞いたことがあるが、四書と五経の違ひなど余り考へたことはなかつたところ、島田氏に、かう教へられる。

儒教の歴史を唐宋の際で二分して、唐以前の儒教を「五経」中心の儒教、宋以降のそれを「四書」中心の儒教、とするのは中国史の常識である。宋以降一千年、今から七○年前の清朝の滅亡まで、もっとも尊重され読まれてきた経典は「四書」であったのであり、そして『大学』『中庸』が、それぞれその「四書」の一つであることはことわるまでもない。「五経」の注釈の代表的なものが後漢の鄭玄(じょうげん)(127-200)のそれであるのに対し、「四書」の注釈の最高権威は南宋朱子(1130-1200)のいわゆる「四書集注(しっちゅう)」(『大学章句』『論語集注』『孟子集注』『中庸章句』の総称)であった。

(中国古典選6『大学・中庸上』朝日文庫版5頁)

小林秀雄(1902-1983)によれば、吉川幸次郎はこんな意味の言葉を残してゐるらしい。

徳川三百年を通じての出版物のベスト・セラーは、と聞かれゝば、それは「四書集註」だと答へざるを得まい。凡そ本といふものが在るところには、武士の家にも、町人の家にも、必ずこの本は在つた。廣く買はれ、讀まれた點では、小説類も遠くこれに及ばない。

(「天命を知るとは」小林秀雄全集第12巻、404頁)

それほど重要だつた古典が、日本の文化から消えようとしてゐることも、考へさせられる。