Economist誌のネット版に"The American and Russian right are aligning"といふ記事が載つてゐる。ロシアのプーチン大統領支持者と米国のトランプ大統領の支持者の間には、深い哲学的な一致(a serious, philosophical concordance)がある、といふのだ。
ウクライナは地域の大国であるロシアに従ふべきだ、といふのは、カナダやパナマは米国の言ふことを聞くべきだ、といふのと同じ型の理屈だ。個人主義や基本的人権を重んじるリベラリズムを否定するといふ点でも共通してゐる。国家の位置付けなどの相違点もあるが、EUのグローバル主義者は、共通の敵だ。かうEconomist誌は述べてゐる。
記事に何度も出て来る「プーチンのラスプーチン」アレクサンドル・ドゥーキン氏(1962-)については、東浩紀氏の『ゲンロン』第6号(2017年9月)のロシア現代思想特集に「第四の政治理論の構築にむけて」といふ文章が載せられてゐる。ざつと読み返してみたが、私には理解できない内容だつた。
訳者の乗松亨平氏の解題によれば、この文章が載せられてゐる本は、「リベラリズムと資本主義(第一の政治理論)の超克を目指したコミュニズム(第二)とファシズム(第三)が潰え、新たな「第四の政治理論」が求められている」といふ立場から書かれた本で、「さまざまな思想家が融通無碍に駆り出されるさまは、ポストモダニズムの折衷主義を地でいくもの」であり、「それらの名前を多少とも知る読者からすれば、ドゥーギンによる参照はほとんど戯画的に映るだらう」が、「信じるものを失ったポストモダンの時代には、しばしば冷笑が共感へと裏返る。ドゥーギンはそのような反転を狙うのである」といふことらしい。
ポストモダニズムの折衷主義といふのはよく分からないが、あちこちの有名な思想家から自分に都合の良い部分だけを切り取つて繋ぎ合はせるのだとすれば、元々の思想に通つてゐたであらう一本の筋は消えて、引用者の勝手な議論に根拠のない「箔」をつけるだけのことになる。そのやうなものが思想の名に値するのだらうか。
変転する世界の中で、何を信じれば良いのかが分からなくなつてゐる、といふのは現代人の置かれた共通の状況だらう。そのなかで、何かを信じたい、何処かに自分の居場所を見つけたい、といふ欲求を満たすものとして、ドゥーギン氏の「思想」や米国のMAGA運動が出て来てゐることは確かだ。
グローバル主義が目の敵にされるのは、グローバル化が社会をより複雑にし、自分たちの生活基盤を脅かすものと捉へられてゐるからだらう。リベラリズムは基本的人権の尊重とか美辞麗句を並べてゐるが、自分達は逆差別されてゐるといつた不満もあるに違ひない。
かうした反グローバリズム、反「悪平等」の動きは欧州や日本でも見られるが、歴史の浅いロシアや米国では、より顕著に現れてゐると思はれる。この観点でも、『ゲンロン』第6号の冒頭の座談会は、ロシアには方言がない、など教へられる所が多い。尤もこちらには全く予備知識がないので、全て鵜呑みにしてゐるのだが。
アメリカとロシアがかういふ形で接近するのだとすれば、両国が目の敵にしてゐる欧州は厳しい立場に追ひ込まれるが、日本の立場も欧州に近いものだと言へるだらう。その上、日本には近くに仲間になるやうな国が殆ど見当たらないのだ。