因果性と相補性

山本義隆氏の編訳によるニールス・ボーア(1885-1962)の論文集『因果性と相補性』を読む。

相補性とは

「相補性」はボーアの言葉。原子物理学の領域のやうに、プランク定数が無視できない状況では、「(従来の)因果的記述の枠組みに適合させられない新しい規則性が登場」する。かうした新しい状況を表現する言葉が「相補性」だ。

考察している対象の振る舞いにかんして異なる設定の実験によって私たちが手に入れる、見かけ上はたがいに相容れない情報は、あきらかに従来のやり方では相互に関連づけることはできないけれども、(経験全体の包括的な説明にとっては同様に欠かすことのできないものであって、)それらはたがいに相補的であると見なしうるのです。(岩波文庫124頁)

「たがいに相容れない情報」の典型例としては、電子や光が、実験の設定によつて、一点に存在する粒子のやうにも、広がりを持つ波のやうにも見えるといふことが挙げられる。粒子の姿も波の姿も、どちらも電子や光の姿だが、これらの姿を現すのは、特定の実験設定がある場合で、一つの設定で二つの姿を同時に見せることはない。二つの姿は、電子や光といふものが示す相補的な姿なのだ。

「どちらの姿が本当の姿なのか」といふのが普通に浮かぶ疑問で、だからこそ、光については粒子説と波動説が何世紀もの間、対立して来た。しかし、実は状況に応じてどちらの姿も現すといふのが真相だつた。

どう見るかによつて物事が異なつて見える、といふのは普通の経験だが、その奥には見方に依らない本当の姿がある、私達はさう考へる。歴史的な出来事は、史料が十分でないことも多く、見方次第で様々な説明が可能で、真相は藪の中といふこともあるが、物の世界では私達がどう見るかに関はらず決まつた物の姿がある、それが量子力学以前の常識だつた。相補性は、さうした常識を覆す考へ方なのだ。

物理現象の客観的な記述は不可能なのか

それでは、物理現象を客観的に記述することは不可能なのか。ボーア自身の言ふところを聞かう。

私は、このような所見の表明により、原子物理学では因果的記述を放棄すると言うとき、私たちは、豊富な現象を理解することが不可能であるというような浅薄なことを主張しているのではなく、ここで直面している新しいタイプの法則を、分析と総合のあいだの必要なバランスにかんして哲学が一般的に指示するところにしたがって説明しようとする真剣な努力にかかわっているのだということをお伝えしたかったのです。まさにこの点で、人間の知識の他の領域においてもまた、私たちは、相補性の観点によってのみ回避しうるように思われる見かけ上の矛盾に直面しているということを指摘するのは、私には興味深いことです。しかしながら、原子物理学の分野における最近の発展が、「機械論か生気論か」あるいは「自由意志か因果的必然性が」というような問題のいずれか一方の立場を選ぶことの助けになるというような、ひろく語られている見解に与することは、私には到底できません。まさに原子物理学のパラドックスが解決されたのが、決定論か非決定論かという旧来の問題にたいしていずれか一方の側に立つということによってではなく、ただもっぱら観測の可能性と定義の可能性を吟味することによってのみであったという事実は、むしろ、生物学や心理学の件の問題にかんしていかなる態度をとればよいのかということについて、再検討を促しているでしょう。(同131頁)

この文章を含む論文が掲載されたのは、Philosophy of Science誌の1937年7月号だが、この時期から、ボーアは相補性の概念が生物学や心理学の態度を改める可能性を考へてゐたことが分かる。電子のやうな基本的な粒子でさへ、見方によつて粒子にも波にも見えるといふ多様性を持つてゐるのだとすれば、生物のやうな複雑なものが「機械論か生気論か」といつた単純な二分法で片づけられるはずがないのは、明らかだと言ふべきだらう。ボーアは、生物学や心理学も、古典物理学的な世界像に縛られてゐたことを指摘してゐるのだ。

ボーアといふ人

ニールス・ボーアといふ人は、普通の日本人には余り馴染みのない人だと思ふが、「訳者序文」には、次のやうに書かれてゐる。

20世紀前半を代表する物理学者がアインシュタイン(1879-1955)とボーア(1885-1972)であることは、誰もが認めるであろう。しかし、タイプは相当異なる。かたやアインシュタインが20世紀物理学のスーパー・スターであるとするならば、ボーアはさしずめ20世紀物理学のゴッド・ファーザーにあたる。実際、アインシュタイン孤高の人であったとすれば、ボーアは理論物理学における最大でほとんど唯一の学派を築きあげ、アインシュタインがどちらかというと異端であったのにひきかえて、ボーアはメイン・ストリートを歩み続けた。(同3頁)

かうしたボーアの姿とは大きく異なるボーア像を描いたのが、アダム・ベッカー『実在とは何か』だ。「量子力学に残された究極の問い」といふ副題がついたこの本は、量子力学の解釈問題を扱つた本だが、それぞれの解釈を物理学的に論じるといふよりも、主な解釈を提唱した人物の評伝を並べたやうな本だ。

この本の著者は、ボーアの提唱したコペンハーゲン解釈には問題があるといふ立場で、ボーア自身も曖昧で冗長な話しぶりで、何を言ひたいのか分からない人物として描かれてゐる。これに反して、量子力学についての独自の解釈を打ち出すなど多くの業績を残したものの政治的立場から不遇だつたデヴィッド・ボーム(1917-1992)や、学者の枠をはみ出した生活を送り多世界解釈といふ突飛な理論を提唱したヒュー・エヴェレット(1930-1982)については、親近感を込めた筆で書いてゐる。

ベッカーの本は、人物評伝としては面白いが、量子力学の解釈問題自身が、過去の問題と見える現在の状況では、物理学の本としての中身は古いものだと言ふべきだらう。

量子力学の考へ方が、他分野にどのやうに波及してゐるのかは興味深い問題なので、引き続き勉強してみたい。