内村鑑三『代表的日本人』

内村鑑三(1861-1930)の『代表的日本人』は、著者が34歳の1894年に書かれた"Japan and Japanese"の改訂版"Representative Men of Japan"(1908年)の翻訳だ。その序文は、次のやうなものだ。*1

此の小著は、今より十三年前、日清戦争の最中、『日本及び日本人』(Japan and Japanese)なる表題をもつて刊行せられたるもののうち、其の主要部分の再版にして、一友人の手により多くの訂正を加へられたるものである。我が國に對する余の青年時代の愛の全く冷却したるに拘らず、余は我が國民の有する多くの美しき性質に盲目たり能はざるのみならず、彼女こそは今なほ『我が祈り、我が望み、我が勤めを、自由に』與ふべき國土、然り、唯一の國土である。余が今なほ我が國人の善き諸性質ー普通に我が國民の性質と考へられてゐる盲目なる忠誠心と血腥い愛國心を除いた其以外の諸性質ーを外なる世界に知らしむる一助となさんことが、おそらくは外國語をもつてする余の最後の試みなりと思はるる本書の、目的とするところである。(5頁、ゴチック部分は原文では傍点。以下同様。)

岩波文庫版には「獨逸語版 跋」も載せられてゐて、興味深い。例へば、こんな文章も見つかる。

余は、基督教外國宣教師より、何が宗教なりやを學ばなかつた。すでに、日蓮法然蓮如、其他敬虔なる尊敬すべき人人が、余の先輩と余とに宗教の本質を知らしめたのである。(11頁)

代表的日本人として取り上げられてゐるのは、以下の五人である。

西郷隆盛 ー新日本の建設者ー

上杉鷹山 ー封建領主ー

二宮尊徳 ー農民聖人ー

中江藤樹 ー村落教師ー

日蓮上人 ー佛教僧侶ー

内村は、これらの人物の何が世界に誇るに足ると考へたのだらうか。

西郷隆盛

西郷隆盛(1828-1877)は、日本の開国といふ困難な課題に立ち向かつた「敬天愛人」の人として描かれてゐる。そして、西郷が「天」といふ言葉を数多く用ゐたことについて、次のやうな意見が述べられてゐる。

彼はその心のなかに自己と全宇宙とより更に偉大なる「者」を見出し、彼と秘密の會話を交はしつゝあつたと余輩は信ずる。『道を行ふ者は、天下擧(こぞつ)て毀(そし)るも足らざるとせず、天下擧(こぞつ)て譽むるも足れりとせず。』(中略)西郷は、右の如き、またそれに類する、他の多くの事を語つた。彼は、すべてこれらの事を、直接、「天」より聞いたのであると余は信ずる。(26頁)

天の声を聞く人は、正義の人である。

『敬天』の人は、正義の崇敬者遵奉者たらざるを得ない。『道(正義)の普く行はるること』が、彼の「文明」の定義であつた。彼にとり、天下に正義ほど貴重なるはなかつた。彼の生命は言ふ迄もなく、彼の國さへも、正義にまさりて貴重ではなかつた。」彼は曰うた、『正道を踏み(正義のために)国家を以て斃るゝの精神無くば、外國交際は全かる可からず。彼の強大に委縮し、圓滑を主として、曲げて彼の意に順從する時は、輕侮を招き、好親却つて破れ、終に彼の制を受くるに至らん』と。(49頁)

政治の基盤として道徳的な基礎を築かうとした点が、西郷の偉さだと考へてゐた訳だ。

上杉鷹山

内村は、五人を紹介する各文章の始めに、西洋の読者のためであらう、時代背景などについての説明を置いてゐる。上杉鷹山(1751-1822)の場合には、「封建制政体」についての説明があるのだが、今日の読者が驚くやうな意見も述べられてゐて、面白い。例へば、

『進歩した機構』は、盗人を縛る役にこそ立て、聖人の助けにはならない。余輩は、代議政治の制度は、一種の進歩した警察制度であると考へてゐる。詐欺師と悪黨は、それによつて十分に抑へられる。併し如何に大群の警官も、一人の聖人又は英雄の代用を爲すことはできないのである。(中略)封建制度とともに其に結附いてゐた忠義、武勇、多量の雄雄しさや人情味が我我より喪はれはしなかつたかを、我我は惧れるのである。(55頁)

鷹山は、地上に神の国の似姿を実現させた政治家として描かれてゐる。ここでも、道徳の重要性が強調されてゐる。

東洋の學問の一つの美しい特徴は、道德から離れて經濟を取扱はなかつたことである。富は、東洋の哲學者にとりては、必ず德の結果である。そして富と德との二つは、果(み)が木に對して有つと同じ關係を、相互に對して有つてゐるのである。(69-70頁)

彼は、時代の諸〃の慣行に驚くべきほど捉はれずして、彼が天から託された民を、大名と百姓とが等しく踏み行かなければならぬ『人の道』に、導き行かんことを志した。(70頁)

上杉鷹山の事業については無知だつたが、「ペリイの艦隊が江戸灣に現れたるより五十年前、北日本の山嶽地方の一角に、西洋醫術が一般公衆に用ひられてゐた」といふ話を読むと、その先見性、開明性がよく分かる。

二宮尊徳

二宮尊徳(1787-1856)といふ名前や薪を背負つて読書する姿は知つてゐても、具体的にどのやうな事を成したのかは知らない人が多いのではないだらうか。内村は、道徳の力で農業改革を実現した人物として描いてゐる。

内村は十九世紀初頭の日本の農業についての解説から始めるのだが、その中では、次の一節が眼を引く。

余輩は日本農業は農業として世界に於て最も注目すべきものであると思つてゐる。一塊一塊の土が思慮深き取扱を受け、地より生ずる一草一草に殆ど親の愛に近い配慮と注意が與へられてゐる。(81頁)

次に、孤児になり伯父に引き取られた、『大学』を夜中に読んで、貴重な油を使ふと怒られた、自分で油菜を育て得た油で本を読んでも、「自分は家の者には誰も読書といふやうな斯様な儲けにならない仕事をさせて置くことはできない」と言はれ、乾草や薪を取りに山に行く途すがら勉強した、といつた幼少期の逸話が語られる。そして、ここでも道徳は有用な位置づけを与へられてゐる。
道德力を經濟問題の諸改革に於ける主要な要素とする斯くの如き農村復興計畫は、これまで殆ど提案せられたことはない。それは「信仰」の經濟的適用であつた。この人には清教徒(ピュウリタン)の血の通つてゐる所があつた。或はむしろ、この人は未だ西洋直輸入の「最大幸福哲學」に汚されざる純粹の日本人であつたと言ふべきである。(89頁)

國家老たちを前にして『年饑ゑて民を救ふの途を得ざる時に當り、何を以て饑渇の民を救ひ之を安んぜん乎』といふ有名な説話を述べた、などといふ話を読んで、ネット上で読むことのできる尊徳の著作に少し目を通したが、非常に立派な思想家でもあることが窺はれた。

中江藤樹
中江藤樹(1608-1648)は近江聖人として知られる。小林秀雄(1902-1983)は『本居宣長』のなかで藤樹に触れ、次のやうに書いてゐる。
中江藤樹が生まれたのは、秀吉が死んで十年後である。藤樹は、近江の貧農の倅(せがれ)に生れ、獨學し、獨創し、ついに一村人として終りながら、誰もが是認する近江聖人の實名を得た。勿論、これは學問の世界で、前代未聞の話であつて、彼を學問上の天下人と言つても、言葉を弄する事にはなるまい。(第五次全集第十四巻86頁)
内村は、旧日本の教育についての解説から話を始めるのだが、そこには、次のやうな文が見つかる。
我我は歴史、詩歌、行儀作法を少なからず教へられた。併し主たるものは道德、しかも實踐的な道德であつた。(112頁)
我が國の教師たちは、人は級に分つべからざるもの、人は一個の人間として、すなはち面と面、靈魂と靈魂と相對して、取扱はれねばならぬものと信じてゐた(と余は直觀的に考へる)。それ故に彼等は我我を一人づつ、各自その肉體的心的精神的の特質に応じて、薫陶した。(113頁)
現代のごとき適者生存の原則にもとづく教育制度は、寛仁愛人の君子(ジェントルマン)をつくるに、最も適當であると考へられた。それゆゑ、この點に於ては、我が國の舊時代の教師たちは、その教育理論に於てソクラテスプラトーと一致してゐたのである。(113頁)

内村は、熊澤蕃山の弟子入りや岡山侯の訪問(これについては史実かどうか疑問があるらしい)などの逸話を紹介した後、藤樹が『論語は聖賢の言行を記したるものなれば、無用の事はなけれども、今日の上に合はざる事あり。』といふ説を述べたことについて、かう書いてゐる。

彼が人爲の「律法」(法、ノモス)と、永遠に存在する「眞理」(道、ロゴス)とを、明確に區別したことは、左の如き注目すべき言葉によつて示されてゐる、ーー
 道ト法トハ別ナル者ナリ。心得違ヒテ法ヲ道ト覺リタル誤、多シ。法ハ、中國聖人ト雖、代々替レリ、況ヤ吾國ヘ移シテ行ヒ難キコト多シ。(中略)...法ハ、聖人、時所位ニ應ジテ事ノ宜シキヲ制作シ玉ヒ、其代ニ在リテ道ニ配ス。時ナリ所位、替リヌレバ、聖法ト雖、用ヒ難キ者アリ、不合ヲ行フトキハ却テ道ニ害アリ。
而して此は、聖書が今日極端な靈感主義者によりて無謬と考へられてゐると同じだけ、所謂「經書」が無謬と考へられてゐた時代に、語られたのである。(132頁)
そして、恐らく羨望の心をもつて、一村人として生涯を終へた藤樹につき、次のやうな感想を述べてゐる。

しかも彼は全く樂しくその生涯を送つたと思はれる。彼の文章の何處にも一抹の落膽の調子を捉へることはできない。實際に、如何して此の人がその陽明學型の儒教をもつて斯くの如くに幸福であり得たかは、我我自身の神觀と宇宙觀をもつてしては殆んど想像することができないのである。(135頁)

日蓮上人

仏教の僧侶である日蓮(1222-1282)をキリスト教徒の内村が褒めるといふのは、一見、奇異に感じられる。しかし、内村を惹きつけたのは、日蓮の教義ではなく、その宗教に対する姿勢だつた。

彼は倣ふべき何らの先例なく、一つの「經」と一つの「法」とのために生命を投げ出して敢然と立つたのである。彼の生涯の興味あるは、彼が主張し弘布した教義的見解よりも、寧ろ彼がそれを主張した勇敢なる行爲にある。眞の意味に於ての宗教的迫害は、日本に於ては、日蓮を以て始まつたのである。(156頁)

偉大なる事業は常に斯くのごとくにして生れる。一個の不屈なる靈魂と、それに對立する世界と、ーー永遠に偉大なるものの現るべき希望は其處に存する。二十世紀は當に此の人より、彼の教義にあらずとも、彼の信仰と勇氣とを學ぶべきである。基督教はそもそも日本に於て斯くの如き起源を有したか。(159-160頁)

キリスト教徒が仏教の僧侶を称へることの問題は、内村自身、よく理解してゐる。

實際、日本に於ける基督信徒にとりては、此の人に稱讚の辭を呈することは、イスカリオテのユダに好意ある言葉を語るだけ不敬虔に響くのである。
 併し余としては、もし必要とあらば、此の人のために我が名譽を賭する。彼の教義は概ね今日の批評學の試驗に堪へ得ないことは余も認める。彼の論爭は上品でない、全體の調子は狂氣の如くである。彼は確かに不均衡の性格であつた、たゞ一方向にのみ餘りに尖鋭であつた。併し乍ら彼よりその知識上の誤謬、遺傳されし氣質、時代と環境が彼の上に印したる多くのものを剥ぎ取れば、然らば諸君はその骨髓まで眞實なる一個の靈魂、人間として最も正直なる人間、日本人として最も勇敢なる日本人を有するのである。僞善者は二十五年以上もその僞善を保つことはできない。また僞善者は彼のために何時でも生命を投出さんとする幾千の隨身者を有つこともできない。(168頁)
もし彼にして狂せしならば、彼の狂氣は高貴なる狂氣であつた、それはかの最も高貴な形態の自尊心と區別し難きものであつた、即ち果すべく遣された使命の價値によつて己自身の價値を知るといふ自尊心である。自己自身について斯かる評價をいだきたる者は、「歴史」上、日蓮がたゞ一人ではなかつたのである。(169-170頁)
これ以上に獨立なる人を、余は我が國人の間に考へることはできない。實際、彼は彼の獨創と獨立によつて、佛教を日本の宗教たらしめたのである。彼の宗派のみ獨り純粹に日本的である、しかし他の凡てはその起源を或は印度、或は支那、或は朝鮮の人人に有つたのである。彼の大望もまた、彼の時代の全世界を抱容せるものであつた。彼は彼の時までは佛教は印度から日本まで東方に向つて進み、彼の時よりは日本から印度へ改善されたる佛教西方に向つて進むべきであると語つてゐる。それゆゑ彼は受動的受容的な日本人の間にあつて一つの例外であつた。(172-173頁)
争闘性を差引きし日蓮、我等の理想的宗教家である。」これが内村の結論だ。

 

この本についての書評は、ネット上でもいくつか読むことができる。若松英輔氏による

NHK 100分de名著 げすとこらむ

同氏のインタビューもある。

『内村鑑三 悲しみの使徒』インタビュー

松岡正剛の千夜千冊でも取り上げられてゐる。

内村鑑三の著作は、青空文庫で読むことができる。国会図書館のデジタルコレクションでは、画像で送られてくるので面倒な部分もあるが、『求安録』のやうな、青空文庫ではまだ読めない本も閲覧できる。

*1:手元にあるのは1941年に初版が出た鈴木俊郎氏の訳による岩波文庫で、現在、同文庫で流通してゐる鈴木範久氏訳のものよりも古い。以下の引用は、全て1941年版による。