東浩紀『訂正可能性の哲学』

東浩紀氏の『訂正可能性の哲学』を読んだ。東氏については、東日本大震災の際にTwitterで述べられた意見を見て以来、その活動に興味を持つてゐる。Twitterで何を語つてゐたのかは、すつかり忘れて仕舞つたが、氏が立ち上げたゲンロンの会員にもなり、送られてくる来る本にも目を通すやうにしてゐる。

この本の前に出された『一般意志2.0』と『観光客の哲学』は、怠惰な読者である私には、何が言ひたいのか良く分からないといふ印象の本だつたが、この『訂正可能性の哲学』を読んで、東氏が何を目指してゐたのかが理解できたやうな気がした。

この本が目指すもの

最近発表された「『観光客の哲学』中国語簡体字版四冊刊行に寄せて」といふ文章からも読み取ることができるが、東氏の基本的な問題意識は、友と敵を峻別する政治的な論理を超えた新しい共同体の理念をどう築くか、衰退してゐる民主主義を如何にして活性化するか、といふ点にあると言へるだらう。

この本の結論は、著者自身が「おわりに」に書いてゐる。

哲学とはなにか、と問いながらこの本を書いた。本書の主題である「訂正可能性」は、その問いに対する現時点での回答である。哲学とは、過去の哲学を「訂正」する営みの連鎖であり、ぼくたちはそのようにしてしか「正義」や「真理」や「愛」といった超越的な概念を生きることができない。それが本書の結論だ。

また、この本を書いたのには別の意図もあつたことについて、いくつかの箇所に書かれてゐる。人文学を擁護することがその一つだ。

ニ〇ニ三年のいま、日本では人文学の評判は落ちるところまで落ちている。言論人や批評家にかつての存在感はない。(中略)

人文学は信頼を回復しなければならない。人文学には自然科学や社会科学とは異なった役割があることを、きちんと論理的に伝えなければならない。じつは本論はそのような意図でも書かれている。(134頁)

中でも、哲学を擁護することにある。

けれどもいくら成り立ちが解明されても、人間が人間であるかぎり、ぼくたちは結局同じ幻想を抱いて生きることしかできない。正義や愛を信じることしかできない。だとすれば、ぼくたちに必要なのは、ルールを解明する力ではなく、まずはそのルールを変える力、ルールがいかに変わりうるかを示す力ではないか。

哲学はまさにその変革可能性を示す営みであり、だから生きることにとって必要なのだというのが、ぼくがみなさんに伝えたかったことである。(346頁)

印象に残つたこと

この本で印象的だつたのは、先づ、東氏が自分の著作について、非常に意識的であることだ。

第一部ではポパー、トッド、ウィトゲンシュタインクリプキ、ローティ、アーレントといつた多様な人達の説が参照されるのだが、それらを結びつけてゐるのは、「結局のところはぼくの直感である」であると述べる。これが「専門家からすれば根拠のないアクロバット」、「一般の読者からすれば不必要に哲学者の名前を並べた迂遠なもの」に見えることを、承知の上で、さうしてゐるのだ。その理由についても第一部の末尾で説明されてゐる。

かうした自省的な姿勢は、上の中国語版に寄せた文章にもあるやうに、「大学と出版の葛藤」「学問と非学問の葛藤」を抱へながら「大学教員ではなく中小企業経営者」をしてゐるといふ東氏の生き方と不可分なものだと言へるだらう。

次に印象的だつたのは、第二部でのルソーの著作の深い読みだ。『社会契約論』のやうな社会科学の著作だけではなく、小説である『新エロイーズ』も取り上げて、一般意志についてのルソーの考へを解き明かさうとする、その手際は見事と言ふしかない。小説も書いてゐる東氏の面目躍如だ。

本の最後の方に、大好きなトクヴィルが引用されてゐたのは、驚きでもあり、嬉しくもあつた。

何の為に本を読むのか

ここからは、東氏の説とは外れるかも知れないが、この本を読んで考へたことを書いてみる。先づ、人はなぜ本を読むのか、といふこと。

東氏はクリプキ懐疑論者についての説などを援用して、かう書いてゐる。

それゆえ人文学は、すべての重要な概念について、歴史や固有名なしの定義など最初から諦めて、先行するテクストの読み替えによって、すなわち「訂正」によって、再定義を繰り返して進むことを選んでいるのである。

先行する学者の業績を元にして議論を進めるのは、単なる衒学趣味でも、無批判な尊重でもないと言ふのだ。

しかし、当たり前のことだから言ふまでもないのかも知れないが、古典とされるやうな昔の本を読むのは、何よりも先づ、過去の偉人から学ぶためだ。人間は神様ではないので、どんなに立派な人物の説でも、進んだ現代の知識を踏まへれば、誤りもあるだらう。しかし、今でも通用する知恵も含まれてゐるはずだ。だからこそ古典なのであり、人はさうした本を読むのだ。

思想家にとつては、過去の思想は批判の対象であり、整理し分析すべきものなのかも知れない。しかし、一般の読者にとつては、それが面白いか、役に立つか、といふ点こそが大切なのだ。専門家の間でどんなに高く評価されてゐるものでも、チンプンカンプンで何の役に立つのか分からないやうな本は、社会的には無用の長物に過ぎない。

思想は役に立てば良いのか

しかし、面白ければ良い、役に立てば良い、といふ訳でもない。過去の偉人たちの考へを正しく知らなければ、古典を読んでも駄文を読んでも同じことになるだらう。小林秀雄(1902-1983)は、若い頃にこんなことを書いてゐる。

 大衆はその感情の要求に從つて、その棲む時代の優秀な思想家の思想を讀みとる。だから彼等はこれに動かされるといふより寧ろ自ら動く爲に、これを狡猾に利用するのだ。だから思想史とは實は大衆の手によつて變形された思想史に過ぎぬ。そこに麗々しく陳列されてゐるすべての傑物の名は、單なる惡い洒落に過ぎぬのだ。この大衆の狡猾を援助する爲に生まれた一種不埒ふらちな職業を批評家といふのなら、彼らがいつも假面的であるのは又已むを得ない。

 逆に、どんな個人でも、この世にその足跡を殘さうと思へば、何等かの意味で自分の生きてゐる社會の協贊を經なければならない。言ひ代へれば社會に負けなければならぬ。社會は常に個人に勝つ。思想史とは社會の個人に對する戰勝史に他ならぬ。こゝには多勢に無勢的問題以上別に困難な問題は存しない。「犬は何故しつぽを振るのかね」「しつぽは犬を振れないからさ」。この一笑話は深刻である。

 ある時代のある支配的な思想と、これに初動を與へたある獨創的個人とはまさしく緊密につながり合つてゐる。今日人々は何故にこのつながりだけを語つて、この間に越え難いひらきが又同時に在る處を語らないか。流行に過ぎない。(「✕への手紙」第五次全集第二巻277頁*1

偉大な思想家の説くところは、単純ではない。複雑な現実を前にして、これを正確に描かうとする思想家は、「言語表現の危機に面接する」からだ。そこで「卓抜な思想程消え易い」といふ逆説が生まれる。

それでは、思想を正しく理解するにはどうすれば良いか。そもそも、正しい読み方を一つに決めることができるのか。

「訂正」とは

残念ながら、簡単な回答は無い。思想家が残した文章を読み返し、有力な解釈だとされるものを参照して、自分なりに正解だと思はれるものを探すしかない。「訂正」といふのは、過去の思想家の誤りを正すといふことではなく、新しい読み方を探す作業だと考へることもできるだらう。

思想といふのは生き物だと見るのが良いのではないだらうか。生きてゐるので、その姿を固定することはできない。別の記事に書いたことがあるが、アラン(1986-1951)の師のラニョ(1851-1894)は、「厳密な証明は精神を物に変へる」と言つてゐた。

 『訂正可能性の哲学』で示された東氏のルソーに関する意見は、さうした新しい読みを提供したものだと言へるだらう。

かうした「訂正」の作業は、一人だけで済ませられるものではないことも、忘れてはならない。思想が社会的な力を持つためには、なるべく多くの人に共有される必要がある。大衆に迎合することでルソーの名前を単なる「悪い洒落」で終はらせてはならないが、「社会の協賛」は必要だ。そこでは、議論のための議論ではなく、ともに「訂正」を行ふ仲間を集めることが、重要な戦略になるだらう。ゲンロンといふ会社は、さうした仲間づくりの場所としての狙ひも持つてゐるの違ひない。

*1:「✕への手紙」は小説といふことになつてゐるが、この部分は小林秀雄の考へを示したものと読んで良いだらう。