利か理か

アラン(1868-1951)が1928年2月18日に書いたプロポ。

怒りは思ひの最初の結果だ。この厳(いかめ)しさはあまりにも脆く、僅かな風にもなびく炎のやうに、身を屈め、変はるのが見える。だから人々はトランプ遊びをするのだ。それは偶然とルールの二つの重みで、思ひを短く切る。それでも、ゲームが終はるや否や、カードを混ぜてゐる時に、激しい言ひ争ひが起こるのを見るだらう。いつでも、あり得ただらうことに係るものだ。声は脅す調子で大きくなり、各々の中の暴君が唸り声を上げる。幸ひにも、救ひの手は近くにある。カードを配る人ははつきりとした運命を割り当て、各々は、この紛(まが)ふことない印を並び変へて、そこに起きて了つた現実を見る。この俄(にはか)雨で、雲や蒸気はすぐに凝縮される。誰もが自分の手札と思ひを隠す。かうして、敵意のあるものでも、思ひが隠されれば、ある種の平和が成る。
戦ひになるのは、決して儲かるからではなく、理が有ると言ひ張るからだ。理が有るといふのは、自らの中に、全ての人に当てはまる規則を見い出すことだ。それは自分の中で独(ひと)りで、世界の全ての人々を回心させることだ。人々が皆、賛同するのを、心から賛同するのを望むことだ。それは、しかし、人々が賛同を拒むとは考へてもみない、といふことだ。理は私に有るのではないか。あらゆる権力、あらゆる野心がここでその本当の顔を見せる。理が有ると言ひ張る者ほど弱く備へを持たぬ者はゐない。私が言ひたいのは、自分の中で震へてゐる者だ。ゲームをする人は現実により負ける。現実は誰の心も傷つけない。心を傷つけるのは、相手の理を認めるのを拒むことだ。
全ての思ひでは、平等が前提になつてゐる。私が思ふとは、私にとつて有利な意見を示すことではなく、正しい明らかな意見を、知られれば直ぐに皆のものになる思ひを示すことだ。私は世界のコンサートの中にゐるかのやうに思ひを巡らせる。私には、もう拍手喝采が聞こえる。だから、誰にも疑ひ、否定し、非難する権利がある。私はそれを恐れない。私が思ひ巡らしてゐたときにしてゐたのは、自分の思ひに対して可能なあらゆる非難を投げてみることでなくて何だらう。しかし、だからこそ、どんな細かな批判も、拒否の小さな印も、耳に障(さは)る。ここでは最善の議論が一番悪い。示された思ひに遠慮なく踏み込み、変へ始めるからだ。かうして世界の立法者、精神の王は、すぐに脅かされ、王座を追はれる。立ち直り、苛立つが、笑はれる。かうした失望は人を凶暴にする。
実際に、人が命を懸けるのは、思ひがあるからだ。思ひの持つ威厳に比べれば、他はものの数ではない。本当の戦ひは意見の戦ひだ。宗教の戦ひだとさへ言へよう。最大の冷酷さが、最大の慈愛と混ざり合つてゐる。説得したいと思ふ相手を私は高く評価し、深く愛してゐるからだ。私はその相手を裁き手とする。だが、彼が逆らへば、私は侮辱された、王座を奪はれたと感じる。すぐに、彼の中には何か悪魔的な強情さがあると考へる。狂信は、様々な心の乱れの中でも一番恐るべきものだが、他方で、全ての心の乱れには狂信が含まれると言ふべきだらう。誰もが相手の内に心を探し、同意を求める。かうして裁き手へと昇進した相手は、この王権を濫用する。二人の王、対等な二つの主張、これでは血が流される。政治的な激憤は損得の上に成るものではない。逆に、損得の駆け引きは、カードの駆け引きのやうに、さわぐ心を静める。だが、各々が自分が正しいと判断する意見を示す。さうして自分の王座を賭ける。痛い点、争ひと苛立ちの焦点は、思ひだ。それが最も高位の主張だからだ。いや、ただ一つの主張なのだ。不正は、財布ではなく理を傷つける。誰もがそれを否定しようとするが、それは、傷つけられた者が傷ついてなどゐないと思はせようとするからだ。抑へられた怒りは尚更激しい。

ロシアとウクライナの思ひ

アランは、自らに理が有るといふ思ひが戦ひの源だと言ふ。このアランの考へをロシアとウクライナの戦争に適用してみよう。

ロシアの思ひは、統一ドイツがNATOに残るのを認める代はりに、NATOを東側に拡大することはしない、といふ約束*1を西側が破つたではないか、といふものだらう。それがかつてのソ連領のウクライナにまで及ぶとなれば、我慢も限界だ、といふことになる*2

他方でウクライナにしてみれば、クリミア半島だけでは飽き足らず、ウクライナ全土を属国化しようとするロシアは、絶対に許せない、となるのは当然のことだ。この二つの思ひは両立しない。戦争は避けられない。

ところで、ロシアとウクライナのどちらに理が有るのだらうか。

ロシアの言ひ分は、約束は守るべきだ、といふ理に基づく。Pacta sunt servanda.合意は守らねばならない、といふのは法に基づいた世の中が成り立つための最も基本的な原理だとされる。

しかし、NATOの東方不拡大の約束は、国家間の正式な約束だと言へるだらうか。条約といふ形式は備へてゐないし、行政府間の文書の交換もしてはゐないと思はれる。単なる政治的な約束で、国際法上の拘束力は持たないのではないだらうか。

また、約束の中身が問題にされることもあるだらう。国内法では、公序良俗に反する約束は無効とされるが、国際法では強行規範jus cogensに反する協定は無効だといふ理論がある。もつとも、何がjus cogensに当るか、といふ点についての合意が出来てゐないので、実効性はまだ無い、といふのが実情のようだが*3

他方で、ウクライナの言ひ分には、国際法上、立派な根拠がある。ロシアによる侵攻が、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対する武力による威嚇又は武力の行使を禁止する国連憲章第2条4項に違反することは明らかだ。

理はウクライナの側にある。

戦争は防げなかつたのか

国際法上、ロシアに非があることは確かだとしても、これで問題が解決するわけではない。戦争の行方はまだ分からないが、膠着状態になりつつのではないかと見える。どこかの時点で、例へばウクライナがロシアによるクリミア併合を認める代はりに、ロシアはウクライナNATO加盟を容認する、といつた妥協が図られることになるだらう。どちらの思ひも遂げられずに終はる、といふことになるのではないか。

さうした中途半端な結果のために、両国とも既に数多くの人命を犠牲にしてゐる。このやうな愚かな戦争を防ぐことはできなかつたのか。どの時点で誰がどのやうな決断をしてゐれば、この戦争は起こらなかつたのか。

この問ひに対する答へは、将来の歴史家が出すのだらうが、冷戦後の西側の対応について、反省すべき点があるやうに思はれる。NATOの東方不拡大は、確かに口約束に過ぎないものだつたかも知れない。しかし、冷戦の勝利に酔つて、ロシアへの配慮が欠けた部分もあつたのではないか。勝ち過ぎは良くないのだ。東欧諸国にも民主主義を広めるといふ大義名分は立派なもので、賛同すべきものだが、もつと時間をかけて関係者の合意を得ながら進めるべきではなかつたか。

当事国にも誤算があつたに違ひない。プーチン大統領は、ウクライナがすぐに降伏すると踏んでゐたのだらう。他方で、ウクライナもロシアの切迫した思ひを十分に理解してゐなかつたのではないか。また、西側諸国の支援があるにしても、ロシアとの直接対決につながるやうな軍事介入は、最初から期待できなかつた。軍事力の差が大きい中で、どのやうな出口を見出すか、といふ難しい問題は残されたままだ。

イスラエルの勝ち過ぎ

勝ち過ぎといふ点では、ガザ地区でのイスラエルの軍事行動も、将来に禍根を残すのではないかと懸念される。ハマスによる攻撃や人質拉致は非難されるべき行為だし、ある程度の対抗措置は許されるとしても、一般住民に一万人以上の犠牲者をだすやうな軍事活動は、明らかにやり過ぎだ。

ハマスの行動の狙ひはよく分からないが、ヨルダン川西岸地区でのイスラエルによる入植は、パレスチナ独立国家とイスラエルが共存するといふ1993年のオスロ合意による二国家解決案を、事実上反故にするものだ。さうしたイスラエルの姿勢に対して積り積もつた不満が噴出したものであることは確かだらう。

今回の軍事行動がどのやうな形で終結するかは分からないが、イスラエルは、アラブ諸国は言ふまでもなく、国際世論までも敵に回して仕舞つた。長い目で見れば、米国の支援も、いつまでも期待できるとは限らない。さうなつた時に、イスラエルはどのやうにして自らを守るのだらうか。

アランは、自らに理があるといふ思ひと乱れる心とが結びついた時の危ふさを語つてゐたが、ウクライナやガザで起きてゐることを見てゐると、先日亡くなつたキッシンジャー氏(1923-2023)の現実主義を思ひ起こさずにはゐられない。理念を無視した外交だとして批判を受けることも多かつたのだが。

 

 

*1:この約束については、ジョージワシントン大学National Security Archiveの記事が参考になる。

*2:ソ連支配下にあつたバルト三国は2004年にNATOに加盟してゐるが、これらの国々とウクライナでは、ロシアにとつての重みが違ふと言へるだらう。

*3:国連の国際法委員会の報告書が現状を知る参考になる。