ジャンセニストは厳しい友で、情け容赦がない。諸君の弱さを見ないで、いつも強いところを打つからだ。これは敬意を表してゐるのだ。まさに諸君が拒否できないことを要求するので、恐ろしい。諸君に自由な人たれと求める。その助け方は、手助けしようとしない、といふものだ。自助努力なしでは何事もうまく行かない、といふのが基本的な信条だからだ。私は彼を、軽蔑で溢れる杯に擬(なぞら)へる。彼流の慰め方はそんな風だ。取締り強ひるといふ外的な手段では人間は本当には変はらず、本人だけが固い決心で自分を変へられる、さう信じてゐて、魔法の杖を一振りして気付かせたら、奇跡を待ちながら見守るのだ。そして、その奇跡で彼が喜ぶとは言はないし、その素振りを見せるのも嫌ふ。人が彼を喜ばせるために自助努力をするかも知れず、それでは何の意味も無くなるからだ。「諸君が救はれるかどうかは諸君次第でなければならない。諸君の意思が為し得ることを、この世にある他の何物も為し得ない。強制でも、哀れみでも、愛を以つてしてもできない。」彼はかう考へる。諸君がラテン語、音楽、絵画或いは知恵を学びたいと思つたら、これらを身に付けたジャンセニストを探し給へ。諸君は最初は何故だか分からないまま、彼が好きになるだらう。そして多分二十年後に、彼だけが諸君を愛してゐたことに気づくだらう。鉄を鍛える職人だ。
イエズス会士は寛容な友で、余り諸君を当てにせず、方法を工夫し、諸君を習慣といふ細い絆で捉へる。最初は微笑むこと、彼と一緒にゐるのを楽しむことしか求めない。人間の弱さが身に沁みて分かつてゐて、いつでも弱さに目を着け、動き続ければ結局人間は引き摺られると思つてゐるのだ。諸君がやらなければいけない事を嫌々ながら、彼の機嫌を取るために、或いはただ真似をする気でやるとしても、彼はそこには殆ど目をやらず、服装や作法に、そして外に表れた優雅さに注意する。優雅さが欠けるとどんなに才能がある人でも直ぐに躓(つまづ)く。彼の場合、諸君は最初から好かれてゐると感じ、彼を好きではないことで自分を責める。ただ、二十年後、自分の怠け心さへも利用することを彼から学ぶと、彼が彼自身をそして全てを軽んじてゐて、同じやうに諸君を少し軽く見てゐることに気づく。だが、イエズス会士も正しい。外面や礼儀の手立てを無視すると、上手く組み立てられた人の生活はあり得ないのだから。そこで出来ることなら二人を師とし、友とし給へ。ジャンセニストとイエズス会士と言つたのは、この言葉で姿が目に浮かぶからだ。しかし、この二種類の人間がキリスト教の組織、異端、ゴルゴダの丘の事件よりも古いことはしつかり知つて置くやうに。要するに、作法の宗教と分別の宗教と、二つがある。作法は全てではない。しかし作法、態度、聖堂や儀式に相応しいある種の品位は欠かせない。イエズス会の考へでは、それで十分であり分別は後から着いて来る。逆に、それで分別が死に、育ちの良い司祭は最早何も考へなくなる、とジャンセニストのやうに考へることも出来る。だから二つの時が必要だ。先づ崇拝の時で、良い教育に対応する。次に儀式や品位そのもの、歌の上手い者達の将来を分別する反省の時だ。教育の部分は規律の中身であり本質のやうなものだ。恵まれてゐないと得られない。
ジャンセニスム(ヤンセン主義)は、17世紀から18世紀に主としてフランスで発展した宗教運動に源を持つ神学上の教義で、後に政治的、哲学的な動きとなった。カトリック教会と絶対王政の動きに対応して出てきた。
ジャンセニスムの定義は、ジャンセニスト(ヤンセン主義者)が、自分達は単にカトリック教徒だとして自らこの呼称を殆ど用ゐなかつたため、問題が多い。しかしながら、その特徴として、恩寵(la grâce)についての聖アウグスティヌスの教へを、人間の自由によつては善を為し救ひを得ることはできないとの説と捉へ、これに厳密に従はうとしたことを挙げることができる。善や救ひは神の恩寵によつてのみ可能だとされた。またジャンセニストは、精神的な厳格主義、イエズス会やその決疑論(カズイスティック)への敵対、及び、教皇庁の強すぎる権限への敵対といふ特徴を持つ。17世紀末には、この精神的な潮流は政治的な様相も合はせ持つやうになり、絶対王政への反対者は概ねジャンセニストだとされた。
ジャンセニスムはカトリック改革の中から生まれた。その名はイーペルの司教で1640年に出版された「アウグスティヌス」の著者コルネリウス・ヤンセンに由来する。この著作は、恩寵に関する数十年来の論戦の到達点であり、一部のカトリック聖職者の間でイエズス会への敵意が増してゐたことに呼応するものである。恩寵の問題に関するアウグスティヌスの真の立場を確定すると主張し、それは人間の自由に重きを置き過ぎるイエズス会の立場とは反対のものだとした。