「米国の敵は米国」

米国の調査会社が発表した2024年の世界の十大リスクの一位は「米国の敵は米国」だつた。今年は大統領選挙の年だが、米国の政治的な分裂がさらに深刻になる恐れがあるといふ。トランプ氏のやうな人物が米国大統領に一度でも選ばれるだけで驚きだが、議会乱入事件などを惹き起こした後でも支持は衰へず、再選される可能性が高いといふのだから、信じられない。どうして人々はあのやうな人物を信用するのだらうか。

年末に、こんなアランの話を読んだ。(1928年3月3日のプロポ)
いつでも二つの宗教があつた。一つは私達を外へ、現実的なものへと引つ張り、もう一つは逆に私達の中にある何か手懐(てなづ)けられないものへと連れ戻す。ソクラテスは神々が不当な場合をよく分かつてゐて、さう言つてゐた。彼はもつと酷いこと、或はもつと上手いことを言つた。「正しいものが正しいのは神々が望むからではなく、正しいものは正しいから神々がそれを望むのだ。」それは神々を、考へるソクラテスに従はせることだつた。或は、むしろ、神々を「神」に従はせることだつた。しかし、この動きには終はりが無い。思ひを巡らせる人は、今よりも更に清らかな自分、より自由な自分を追ひ求めることを止めないからだ。人は、精神を信じるならば、他のものは余り当てにしない。宗教的な信念が、軽々とは信じないことの核なのだ。
私が信じないのは、いつでも信じてゐるからだ。弱腰の懐疑主義者が何も信じないと言つても虚しい。彼が自分を信じないのであれば、自分が解きほぐし、批判し、判断できると思はないのであれば、仕来りや習はしに、そして身体の皺や傷跡に支配されてゐるのであれば、何も信じないと言つても実に虚しい。逆に、全てを信じてゐるのだから。何かが他より正しいことなどない、と言ふ人には、目に映るもの全てが同じ影響力を持つ。最後には、欲と利害に引きずられる。全く気まぐれな大きな子供になるだらう。しかし、社会は報酬と無視の見事な体系だ。儀式と制度がこれらの軽い人達を集めて導く。流れとともに浮かんで海へと下つてゐるのが分かつてゐるコルク栓のやうに、軽い人達はどこかに向かつてゐるのに気づく。彼等はこの浮かぶコルク栓の旅を本にしさへする。私にはこの人達が独断的だと見え、言葉の上辺の意味で宗教的だとも見える。彼等は、ソクラテスとは全く逆に、正しいこととは神々が望むものだと考へる。例へば戦争は神々が望むのが明らかなら正しいものとなる。彼等自身の財産も、神々が望むのが明らかなら正しい。これがイエズス会士の諦めであり宗教だ。かうした宗教は人の中で完全に消えることはない。人は全てを判断することはできないが、立場を決めないではゐられない出来事や状況、流れもあるからだ。それは適応するといふことだ。それは結局、うまく行くことは真実であり正しいと考へることだ。これに対して永遠なるソクラテスは、多分完全には死んでゐないのだが、内なる神託、秘密の神託により、国務院の高官の中でも、身を擡(もた)げ続ける。揺らめく光であることが多いが、時には輝きを放つ。例へば、明らかに悪質な行ひを前にすると、何も信じない振りをしてゐる人でも立ち止まり、かう言ふ。「あんなことは私はしない。」天と地が讃へようとも、しない。スパイも多分、友情を裏切りはしないだらう。大稼ぎする海賊でも、ゲームでいかさまはしない。
このやりとりで最も驚くべきところに辿り着いた。実用主義者、即ち流れに従ふ者でも、決して自分がさうだとは言はない。プロタゴラスソクラテスに裸にされ、意見にはより得になるか余り得にならないかしかないと口に出すが、同時に、それを言ふことはできないことを認める。それでは得になる意見が得にならなくなるからだ。だから国のための嘘は、得になると言つてはならない。それは真実なのだ。そして、この考へ方の精妙さそのものが、非人間的なものだ。一番得になるのは、得なものが正しいと信じることだからだ。かうして、一番いい加減な人達が、熱狂的信者の姿を取る。そして、逆に、自らの自由な判断に隠れ家を求める人は、ある証明が便利や好都合により少しでも汚されてゐないかどうか、そこまで確信を持てない。自分に気に入ることを真実だとか正しいと受け取るのを恐れるので、相手が正しいと言ひ、さう信じようとすることを、好都合なだけだと暴(あば)く。かうして、イエズス会士はその話が合理主義的となり、ヤンセン主義者の話は懐疑主義的になる。パスカルは、ある種の信じる信じないのやり方により、自由な精神に好まれ続けるだらう。「人民に、法律は正しくない、と言つてはならない。」しかし、結局、彼はさう言つた。さう言つてはならないと言つたのだから。自分のために、私的な覚書で、帽子に。しかし、それでも言ひ過ぎだつた。

ここでアランはイエズス会士(jésuite。偽善者といふ意味にもなる。)とヤンセン主義者(janséniste )とを対比してゐる。両者については、以前読んだプロポにも出てきた。難しい宗教的な議論は置くとして、外見的な事実を重視するのが前者で、後者は内面的な真実を追ひ求めると考へれば良いだらう。ここでは、役に立てばそれで良いといふ現実主義と利害を離れた正義を信じる理想主義との代表として登場してゐる。
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民主主義における「正しさ」
アランが引いてゐる「正しいものが正しいのは神々が望むからではなく、正しいものは正しいから神々がそれを望むのだ。」といふソクラテスの言葉は、プラトンの対話篇の一つ『エウテゥプロン』に基づくものだらう。ただ、この対話篇で論じられてゐるのは、正しいものとは何かといふ問題ではなく、敬虔とは何かといふ問題だが。
この中で、ソクラテスは、「神々に愛されるものが敬虔だ」といふエウテゥプロンが最初に示す定義に対して、神々の間には争ひがあり、それでは同じことが敬虔にも不敬虔にもなつてしまふ、と反論してゐる。
プロタゴラスが、「意見に(正しい、正しくないといふ差はなく、)あるのは有利かどうかだが、それを言ふことはできないと認めた」といふ話の出典はよく分からない。プラトンの『プロタゴラス』には、かうしたやり取りは見当たらなかつた。
ともかく、争ひごとでは、多くの場合、双方が自分が正しいと主張する。一方が自分の非を認めてしまへば、それで争ひは終はる。(もつとも、自分の非を認めながら、改めようとしないといふ開き直りの場合もあるが。)それぞれが信じる神が正しいとすることが異なるといふ状況では、その上にゐる唯一神に頼るか、力づくで解決するかしかない。
法治国家の場合には、憲法をはじめとする法制度によつて、争ひをどのやうに解決するかが決められることになつてゐる。その法制度が「正しくない」となると、世の中が治まらなくなる。
民主主義の場合、法制度そのものも国民が決めることになつてゐるので、「正しくない」こともあり得ることは、前提になつてゐる。少なくとも、時代の変化に応じて、変へるべき部分が出てくることは誰もが認める。ただ、その際の制度の変更についても、予め定められてゐて、これに従ふことが求められる。民主主義では手続きが正統性を保証してゐるのだ。選挙といふのは、かうした民主主義の手続きのうちで一番大切なものの一つだが、トランプ氏はその選挙の結果を覆さうとした。これだけでも、氏が要注意人物であることは明白だ。
何故トランプ氏が支持を得るのか
そんなトランプ氏の人気の理由については、様々な分析があるのだらうが、今回のアランの話では、軽々と信じてしまふ人達には本当の信念が欠けてゐる、といふことが述べられてゐる。これが正しいとすれば、トランプ氏が支持されるのは、本当に信じるべきことが何かが分からなくなつた人々が数多くゐる、といふことだらう。実際、世の中が複雑になると、自分では理解できない事が増える。ネットにはフェイクニュースが溢れ、何を信じれば良いのか分からない。かうした状況では、何かに縋(すが)らうとするのは自然だと言へるかも知れない。そこに、自分の利害だけを考へ、平気で大衆が好みさうな法螺を吹く人間が出て来ると、それが信頼すべき人物に見えて仕舞ふ、さういふこともあるのだらう。勿論、かうした事情は米国だけには限らない。
それでも、指導者を選ぶには、話に一貫性がある、嘘をつかない、決りは守る、といつた、社会で生きる人間としての基本的な資質を充たしてゐることが重要な判断基準になると思はれるのだが。