科学は心を解き明かすことができるか

「ハードプロブレム」

心を科学的に解き明かさうといふ試みは、現在でも熱心に続けられてゐるが、かうした試みに立ちふさがる「ハードプロブレム」がある。山本貴光吉川浩満両氏の『心脳問題』では、「なぜ脳内活動の過程に内面的な経験、つまり心がともなうのか、という疑問」だと説明されてゐる。

同書では、この問題がいつまでも解決されないのは、カント(1724-1804)のアンチノミーが示すやうに人間理性の限界によるのであり、この病には大森荘蔵(1921-1997)の「重ね描き」といふ考へ方が解毒剤として効くが、疑問は消えず、「ハードプロブレム」は「回帰する疑似問題」になる、むしろさうした問題だからこそ取り組み価値がある、といつた説明がなされてゐる。

Bitbol氏の説

この問題に関して、最近、Michel Bitbol氏のThe Tangled Dialectic of Body and Consciousness: A Metaphysical Counterpart of Radical Neurophenomenologyを読んだ。「ハードプロブレム」が解消され得る、或いは「ハードプロブレム」は「疑似問題」であると考へる点では、『心脳問題』と同じだが、Bitbol氏は大森荘蔵が批判してゐるといふフッサール(1859-1938)の考へなどに基づいて、意識を科学に先立つものとして位置づけてゐる。

Bitbol氏の問題意識は、氏の支持するFrancisco Varela(1946-2001)が提唱した「神経現象学」が、「ハードプロブレム」を解消して新しい方法論を提示するにも拘らず、哲学的な検討を放棄するやうに見え、同時に科学者のあり方を根本的に改めることを求めるために、十分に理解されなかつたり無視されたりしてゐる現状を改めたい、といふ点にある。

そのために、氏はこの論文で「知る」とはどういふことかを再検討して、量子力学を参照しながら、「知る」には知る者の参加が欠かせないことを確認する。そして、特に「自らを知る」といふことは、普遍的な法則を探すといふ態度では実現できないことを示す。さらに、神経系と経験との関係を「説明する」とは、独立した法則により表現することではなく、この関係を研究することで知覚や行動の新しい可能性が拓かれるといふことを指すのだ、とする。(76節)

「何か」問題への答へ

Bitbol氏は上記のやうな次第で、ある種の知行合一のやうな立場にたどり着くのだが、そもそも「心とは何か」といふ問ひにはどのやうな答へがあり得るのだらうか。「〇〇とは何か」といふ問ひは、対象となるものの本質を尋ねるものだとされるが、そもそも全てのものに本質が備はつてゐるのだらうか。

この形の問ひがうまい答へを見つけることができるのは、制作者の意図が分かつてゐる場合と、他のもので代替できる場合の二つではないかと思はれる。前者は、制作者がゐる場合に限られる。すでに出来上がつたものでなく、そのあるべき姿を示す場合にも、「〇〇とは何か」といふ形で議論されるが、これも制作者の意図に似たものを前提としてゐる。

後者は、例へば「光とは電磁波だ」といふ説明がこれに当る。この説明がうまく行くのは、光も電磁波も、私達が世界から切り出した「物」或いは「事象」だからだ。私達が光といふ名前で呼んでゐたものは、電磁波といふより広いものの一部として捉へ直すことができる。この新しい理解により、私達の世界の見方が整理され、より合理的な係り方ができるやうになる。だから「光とは電磁波だ」といふ説明には有難味や説得力がある。

心は、このどちらの場合にも当てはまらない。心は神が創造したとしても、人間にはその意図を知ることは適はない。また、心は私達が世界から切り出したものではない。むしろ、現象学的に言へば、世界の前提だ。それを世界から切り出したもので置き換へようとする試みがうまく行くはずがない。

科学者の仕事は無くなるのか

「ハードプロブレム」が疑似問題だとすると、科学者の心を解明しようといふ努力は無駄になるのだらうか。確かに心とは何か、といふ問ひに答へが出ることはないだらう。しかし、Bitbol氏が言ふやうに、心と身体との関係を研究することで、両者についての新しい見方をすることができるやうになり、実用的な応用にもつながることは期待できる。

そのためには、言葉の上で意識と神経系との関係を議論したり、過去の哲学者の説の解釈を云々したりするのではなく、新しい経験が必要だ。例へばBrain Machine Interfaceの研究などは、麻痺した腕や足を動かすといつた実用的な目的だけでなく、私達の心といふものについての新たな知見を提供するものとして期待できる。

この種の新しい経験によつて「心とは何か」といふ問ひへの答へが出ることは期待できないが、心とはどのやうなものなのかを、より詳しく知ることができるやうになるだらう。

謎は残る

心をより詳しく知ることができたとしても、心の謎が解けたことにはならない、さう思ふ人もゐるだらう。しかし、全ての謎が解ける訳ではない。滝浦静雄(1927-2011)の『時間』は、次のやうに結ばれてゐた。

ビーリは、彼の時間論の結論に近い言葉として、次のように述べていた。

「時間的生成の一方向性と不可逆性と同様、そのつどの現在の時点には、説明が拒まれている......」。

しかし、実を言えば、「説明が拒まれている」のは、この世に変化があることと、その変化を身に蒙りつつそれを知っている身体的主観の一人が、まさしくこの私だということなのではないだろうか。少なくとも、私なしでは「特定の現在」はないし、したがって本当に現在である限りでの「そのつどの現在の時点」も存在せず、また不可逆な「今の系列」というものもないのである。(岩波新書『時間』202-203頁)