ヨブヘの答へ

ユング(1875-1961)の『ヨブへの答へ』は、一神教の神について考へる機会を与へて呉れる本だ。
ヨブ記
扱はれてゐるのは、旧約聖書の「ヨブ記」である。ヨブは神がサタンに自慢するほど敬虔な人だつたが、挑発に乗つた神が、サタンに、命さへ取らなければ好きにして良いと言つたため、家族や財産を失ひ皮膚病を患ふなど、酷い目に遭ふこととなる。ヨブは、悪くない自分が何故こんな目に遭ふのか、それを知りたいと神に問ひ質さうとする。友人達があれこれと説得を試みるが、ヨブは考へを変へない。最後には神が大風の中からヨブに声を掛ける。神はヨブの問ひには直接答へず、逆に「なんぢ我(わが)審判(さばき)を廃(すて)んとするや、我を非として自身(おのれ)を是とするや」などとヨブを責める。ヨブはかう応じる。「嗚呼(ああ)われは賤(いや)しき者なり 何となんぢに答へまつらんや 唯(ただ)手をわが口に当(あて)んのみ われ已(すで)に一度(ひとたび)言(いひ)たり 復(また)いはじ 已(すで)に再度(ふたゝび)せり 重ねて述(のべ)じ」。かうしたやり取りの後、神は、ヨブの友人達は誤つてをり、ヨブは正しいとして、その財産をかつての二倍にする。新しい家族も出来、離れてゐた親戚、友人も戻つて来て、ヨブは幸せに人生を終へることとなる。
ユングの読み
一般的には、ヨブが神を責めるのを止めて改心し、幸せに暮らした、といふ読み方がされてゐるが、死んで仕舞つた子供達はどうなるのか、そもそも、神は何の為にヨブを酷い目に遭はせる必要があつたのか、サタンに唆されるとは軽率だつたのではないか、等の疑問が沸く。
ユングは『ヨブへの答へ』で、ここで明らかにされた神の暗部をどう受け入れべきか、といふ観点から「ヨブ記」を論じてゐる。そして、神はヨブの問ひに答へなかつた、答へることが出来なかつたが、ヨブとのやり取りを通じて自らの暗部に気づき、人間の優れた面を認めるに至つたと考へる。そして、神の子キリストが人間の姿で生まれるといふのは、神のヨブへの答へだと言ふのだ。キリストが死に際して「わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給ひし」といふ言葉を発する場面は、神とヨブとの対話のクライマックスとも見える来る。
神とはどのやうな存在か
このユングの読み方が、宗教界から大きな批判を招いたのは、当然と言ふべきだらう。ユングは神を精神分析にかけた、といふ言ひ方がされることもあるが、神を人間に引き付け過ぎてゐるのではないか、と思はれる。しかし、ユングは聖書に書かれてゐることを基礎にして自説を展開してゐるのも事実なのだ。
予備知識を持たない日本人が想ひ描く一神教の神は、世界の創造者で、時間や空間を超えた、全知全能の、人智の遥かに及ばない存在ではないだらうか。だが、聖書に描かれた神は、怒りなどの感情を持ち、時間とともに変はるし、全知全能とも言ひ難い。少なくとも、自らの行ひがどのやうな結果を招くかをよく考へないで動いてゐると見える場面が何度も出て来る。自分が創つた人間が気に入らず、大洪水を起こしてノアの家族以外は全て滅ぼしてしまふのは、その一例だ。
また、神は善の極致だとする考へ方も、聖書の記述とは合はない、ユングは見る。そもそも神を唆すサタンも、神が創り出したのではないのか。神の暗い部分を否定するやうな一面的な見方が、心に巣食ふコンプレックスのやうに文明を歪めてゐる、と考へてゐるのだ。1952年に書かれたこの本の背景には、ナチスの暴虐や核兵器による人類の危機がある。全てが善だといふ神の姿を強調しすぎたために、暴力的な異教の神がドイツ民族の心の中で力を持つに至つた、といふのがユングの見方だ。神の中にも悪があるやうに、自分の中にある悪を知ることが、人間の進歩には欠かせないと考へてゐるのだ。
『GOD 神の伝記』
かうした神の見方は、1996年にピューリッツァー賞を受けたジャック・マイルズ(1942-)の『GOD 神の伝記』を思はせる。この本は、ユダヤ教の聖書タナフ(内容はほぼ旧約聖書に対応するが、配列は異なつてゐる)を一つの文学作品と見て、その主人公である神の姿が物語の進行に伴つてどのやうに変はるのかを分析してゐる。一神教の神は、他の宗教にも見られる世界の創造神だけでなく、個人や集団の守護神など、様々な神の役を一人でこなさなければならないので、その物語を矛盾なく進めるのは一苦労だ。
マイルズに拠れば、唯一神はタナフの初めの方では、天地を創造し、ユダヤ人のエジプトからの脱出を助けるなど、主役らしい活躍を見せるのだが、半ばに差し掛かると一人の女の願ひに耳を傾けるといつた小さな役回りになり、最後の方では殆ど言葉も発せず、姿が見えなくなる。「ヨブ記」は、この流れの中でも、一つの大きな転換点となつてゐる。
ユングにとつての神
マイルズにとつて、神は、少なくともタナフの主人公としては姿を消して仕舞ふのだが、ユングにとつての神は、確かに在るものだつた。それは人には知ることのできない神秘ではあるが、私達の心を動かす否定できない力だ。
神話はこの働きを表現したもので、それは聖書でも同じだ。聖書に描かれた神の姿は完結したものではない。私達が無意識の世界を知り尽くすことができないやうに、神の全貌を知ることはできない。しかし、様々な経験から、より豊かな像にすることはできるし、それが私達の務めだ。
かうした考へ方から、ユングは『ヨブへの答へ』の中でも、神の中にある女性的なものの働きを取り上げる。また、聖書の解釈を個人に委ねて仕舞つたプロテスタントには批判的で、1950年にマリアの昇天を正式な教義とする*1といつた動きを見せるカトリックに共感を示す。
聖書、特に旧約聖書については、これまで殆ど何の知識も持つてゐなかつたが、これらの本を読んで、そこで語られてゐるのが極めて複雑な物語なのだといふことが、少し分かつた気がする。

*1:聖母の被昇天と呼ばれる教義につては、このサイトが参考になる。