量子力学と古典力学の境目

量子力学の解釈問題

量子力学は不思議な学問だ。その基本的な形は1920年代に確立されたが、量子力学の意味するところは何かについて、依然として議論が続いてゐる。Internet Encyclopedia of Philosophyといふサイトの記事は、議論の現状を知るために有用だ。

この記事では、量子力学の代表的な解釈として、コペンハーゲン解釈多世界解釈、隠された変数の理論、自発的収縮理論の四つを紹介してゐる。コペンハーゲン解釈は、最も一般的な解釈で、量子状態は物理世界を記述するものではなく、測定によつて得られるものを予測するための手段だと考へる。もつとも、同じ「コペンハーゲン解釈」といふ言葉を使つても、その中身については人によつて違ひがある。

多世界解釈は、観測する度に世界が分裂するといふ荒唐無稽な説で、私には発案者Hugh Everett III(1930-1982)の知的遊戯だつたとしか思へない。それでも、これを信じてゐる学者も多いので、代表的な解釈の一つとして挙げられてゐる。

隠された変数の理論は、量子力学が未完成な理論であると考へ、観測には現れない変数を加へることで、それを補はうとする。 David Bohm(1917-1992)パイロット波理論が有名だ。自発的収縮理論は、量子力学の大きな謎とされる観測による波動関数の収縮について、収縮は観測により起こるのではなく自然の過程で生じるとする。

四つの代表的な解釈は全く異なるもので、100年を経てもかうした議論が尽きないといふことには、何か本質的な問題が絡んでゐるやうに思はれる。

量子力学古典力学の境目

量子力学古典力学の境目も分かりにくい。相対性理論ニュートン力学との関係では、特殊相対論に限れば、ローレンツ変換の式とガリレオ変換の式を比べて、前者で光の速度cを無限大にすれば、後者になることがはつきりと分かる。相対性理論はより一般的な理論で、ニュートン力学はその近似的なものだと理解できる。

ところが、量子力学ではさう簡単には行かない。量子力学の最も有名な式と言へばシュレディンガー方程式だが、これは古典力学のどのやうな方程式とも似てゐない。解析力学に出て来るハミルトニアンが使はれてゐるなど、類似点を探すことはできるし、元々、シュレディンガー方程式を考へ出す過程で、古典力学とのつながりを保つための対応原理が意識されてゐたので、両者を結びつけることは不可能ではない。量子力学の(古い)教科書を見ると、エーレンフェストの定理などが紹介されてゐる。

それでも疑問は残る。シュレディンガー(1887-1961)が考へた波動力学ハイゼンベルク(1901-1976)の行列力学は、形式は全く異なるが同等であるとされる。フォン・ノイマン(1903-1957)は、無限次元の関数空間であるヒルベルト空間を用ゐることで、量子力学に数学的な基礎を与へた。かうした話を聞くと、対象自体が持つ性質ではない、何か抽象的なものが量子力学の重要な要素になつてゐるのではないかと思はれて来る。

量子力学が扱ふ世界が、古典力学では説明できない不思議に満ちてゐることは確かだ。エネルギーが不連続になり、光も電子も、相矛盾すると思はれる粒子の性質と波の性質を併せ持つ。しかし、特殊相対性理論ニュートン力学の場合とは異なり、プランク定数hをゼロにすれば古典力学に帰着するといつた簡単な関係にはなつてゐない。

四つの解釈を生む原因とも言へるのは観測による波束の収縮をどう捉へるかといふ問題なのだが、量子力学古典力学の関係が見えにくいのは、観測に関はる根本的な問題が隠れてゐるからではないだらうか。

現象学量子力学

Michel Bitbol(1954-)といふフランスの学者による論文 A Phenomenological Ontology for Physics: Merleau-Ponty and QBismは、この問題を考へる際に有益な情報が山盛りの興味深いものだ。Bitbol氏は量子力学の哲学的な意味を長年研究してきた人で、その主張は、上記の四つの解釈ではコペンハーゲン解釈に近いと言へるだらう。物自体を知ることはできないといふカント哲学の考へ方などを踏まへて、量子力学が提起する知識の制約の問題を扱つてゐる。この論文では、次のやうな説が述べられてゐる。

世界の姿を完全に表現することは不可能なのではないかといふ疑念は量子力学の成立当初からボーア(1885-1962)等が抱いてゐたが、かうした量子力学の制約は「文脈依存性」に由来する。文脈依存性とは、微小世界の性質が、これを明らかにするための物質的な手段や文脈と切り離すことができない、といふ事情を指す。これは避けることのできない本質的な制約だ。それにも拘らず、物理学者達は世界の表現といふ目標に固執して来た。様々に変化する現象の底に、変はらない本質、不変の法則を求めるといふギリシャ以来の文化的伝統があるからだ。

同氏は、かうした主張を1990年代から続けて来たのだが、物理学者達からは殆ど注目されなかつた。しかし、最近では、量子力学を現象を超えた実在の表現ではなく、測定により得られる情報に関する原則的な制約を示すものとする見方が広がつて来た。実際に、最近の量子力学の教科書には、以下のやうな記述が見られる。

量子力学は、古典力学に出てくる粒子の位置や運動量の値のように測定以前から存在している物理的実在を扱う理論ではなく、物理量の確率分布に基づいた一種の情報理論である(堀田昌寛『入門現代の量子力学量子情報・量子測定を中心として』まえがき)

Bitbol氏は、この論文で、かうした新しい量子力学についての見方が、現象学の考へ方と類似してゐることを指摘して、メルロ=ポンティ(1908-1961)の量子力学についての論を紹介してゐる。メルロ=ポンティ量子力学について語つてゐたことは知らなかつたが、死後に発表された未完の『見えるものと見えないもの』、1959年から1960年のコレージュ・ド・フランスの講義録に量子力学への言及があるといふ。例へば『見えるものと見えないもの』からは、次のやうな文が引用されてゐる。

Quantum physics does not put all truths on the side of the 'subjective', which would maintain the idea of an inaccessible objectivity. It rather challenges the very principle of this division and brings the contact between the observer and the observed in its very definition of 'reality' (Merleau-Ponty, Le visible et l'invisible p.33)

*1

ここでは、量子力学が観察者と観察対象の分離といふ考へ方を覆すものであることが明確に述べられてゐる。

他分野への波及

量子力学の数学的な形式が、少なくともその一部が、観察者と観察対象の不可分性を示してゐるのだとすれば、この事情は、量子力学に限られたものではなく、その数学形式は他分野でも応用できる可能性がある。実際に、量子社会科学といふ新しい研究分野も立ち上がりつつある。Bitbol氏には”Why should we use quantum theory? The case of the human sciences”といふ論文*2もあり、そこに幾つかの事例も紹介されてゐる。また、Quantum social science に関するWikipediaの記事は、より最近の研究も紹介してゐて有用だ。

まだ生まれたばかりの分野で、その手法も様々であり、量子力学の応用についても賛否両論があるのだが、かうした新分野での定量的な研究が進めば、量子力学で用ゐられる数学の形式の、どこまでが観察者と観察対象の不可分性に由来するもので、どこまでが対象となる物理現象に由来するものであるか、といつた点も明らかになつて来るかも知れない。

*1:手元にある本では、文章の初めはLes considérations d'échelle, par exemple, si elles sont vraiment prises au sérieux, devraient non pas faire passer toutes les vérités de la physique du côté de «subjectif»...となつてをり、Quantum physicsといふ言葉は出て来ない。文章を分かりやすくするためにBitbol氏が意訳してゐるものと思はれる。

*2:ACADEMIAのサイトから見ることができる。ACADEMIAは論文発表の場として設けられたサイトだが、無料の登録で、様々な研究者が掲載した論文を読むことができるので、重宝してゐる。