科学者と哲学者

Jimena Canalesといふ人の書いた”The Physicist & the Philosopher: Einstein, Bergson, and the Debate That Changed Our Understanding of Time”といふ本を読んだ。1920年代にアインシュタイン(1879-1955)とベルクソン(1859-1941)との間に起きた時間をめぐる論争についての本だ。

アインシュタインノーベル賞

アインシュタインは当然、ノーベル物理学賞1921年のもの)を受賞してゐるのだが、受賞理由は"for his services to Theoretical Physics, and especially for his discovery of the law of the photoelectric effect"となつてゐて、相対性理論は明示されてゐない。1922年12月に行はれた授賞式での紹介スピーチには、次の文章がある。

It will be no secret that the famous philosopher Bergson in Paris has challenged this theory, while other philosophers have acclaimed it wholeheartedly. The theory in question also has astrophysical implications which are being rigorously examined at the present time.

 当時、大きな影響力を持つてゐたベルクソンの批判が、アインシュタインノーベル賞授賞理由に当然入るべき相対性理論が入らなかつた大きな理由であることは間違ひない。*1

Canales氏の本は、両者の論争について様々な文献を調べて書いてあり、当時の人間関係が分かつて興味深い。先日ここで書いたド・ブロイの論文も、この本で言及されてゐたものだ。歴史家の本なので、時間の本質について両者の主張を元に探求してゐる訳ではないが、二大戦間の欧米の知的な雰囲気が分かるのが良い。この時代の欧州は、最も洗練された文化を持つてゐて、数多くの知的巨人達が活躍してゐた。

論争の勝者は?

ところで両者の論争は、どちらが勝者なのか。アインシュタインは、ベルクソンの説を殆ど理解してゐなかつたし、理解する気も無かつたと思はれる。Canales氏によれば、アインシュタインは過去、現在、未来の区別は主観的な幻想だと考へ、かうした主観性を排除した客観的世界像の構築に貢献したことを誇りにしてゐた。

他方、ベルクソンアインシュタインの理論を理解しようと努め、『持続と同時性』といふ本まで書いてゐる。しかし、一般相対性理論についてはよく分かつてゐなかつたと思はれる。特殊相対性理論の枠内では、二つの慣性系の間には完全な対称性があり、どちらから見ても移動してゐる相手の系の時間はゆつくりと進むやうに見える。ベルクソンはこの現象を、遠くにゐる人が小さく見える現象と比較してゐるが、これは的外れではないと思ふ。しかし、一般相対性理論では、さう見えるだけではなく、重力の強い場所では実際に時間がゆつくりと進むことが確かめられてゐる。人間が普通に生活してゐる限りでは、全く感じられない程の差ではあるが、確かに時間の速度が異なるのだ。ベルクソンには、この点が納得できなかつたのではないだらうか。

それではアインシュタインが正しく、ベルクソンが間違つてゐたのか。Canales氏は、本の最後に年老いたアインシュタインを登場させて、自らの老いを認めながらも時間に向きがあるといふのは幻想だといふ考へを捨てなかつたことの矛盾を示唆してゐるのだが、物理学の世界に限つても、アインシュタイン自身が、古い価値観を持つてゐて、量子力学の確率的な解釈を受け入れられなかつたことはよく知られてゐる。この点では、先日のド・ブロイの論文についての記事にも書いた様に、ベルクソンの方にある種の先見の明があつたやうに見える。

二人にとつての神

アインシュタインベルクソンも神を信じてゐた。アインシュタイン量子力学を未完成だと考へたのは、「神がサイコロを振らない」と考へたからだ。彼にとつての神は、おそらく伝統的なキリスト教の神で、世界を創造し、(奇蹟は別にして)その後は積極的には介入しない神だつたのだらう。だからこそ不変の法則が世の中にはある。それを見出すのが科学者の仕事だ。

ベルクソンも神を信じてゐて、葬儀にはカトリックの司祭が祈りをささげる事を希望する旨、遺言に書いた。ただ、ベルクソンの信じた神は、アインシュタインの神とは別の世界を創造した。それは進化を続ける世界だつた。

二人の世界観に大きな違ひがあるのは、かうした宗教観に由来すると言へるかも知れない。

ちなみに、アインシュタイン一般相対性理論を基礎に発展した現代の宇宙論では、宇宙は「ビッグバン」で始まり、膨張を続けてゐるとされる。そこでは新しい星々が生まれ、はたまたブラックホールに呑み込まれる。それは静的な宇宙ではなく、むしろベルクソンの描いた宇宙の姿に近いやうに見える。

科学者と哲学者

一般的に自然科学の研究者と人文・社会科学の研究者は、どちらも自分の扱ふ世界がより広く、基本的、本質的なものだと考へてゐるやうに思はれるが、どうだらうか。

自然科学者にとつては、宇宙論などが一番分かり易いが、そもそも人間は広大な宇宙の塵のやうな存在に過ぎない。人間世界のことについてあれこれと議論するのが、細かな話だと見えても不思議ではない。また、自然科学は客観性を基盤にしてゐる。検証できない議論を重ねても自己満足に過ぎないのではないか、実際に世の中の役に立つやうな成果は出てゐないではないか、そんな眼で人文・社会科学者を見てゐるだらう。

人文・社会科学者の立場からすれば、自然科学も人間の営みの一つに過ぎない。自然科学者の幼さを見よ。彼等には世の中が分かつてゐない。そもそも、物理的に大きければ貴いといふものではない。パスカルも、人間の基盤はよく考へるといふことにあると言つたではないか。客観的だと自慢してゐるが、世の中全てがさう簡単に割り切れるのであれば、苦労はない。割り切れない部分にこそ、人間といふ存在の面白みがあるのだ。そんな風に考へてゐるのではないだらうか。

かうした両者の対立は解きがたいもののやうに見えるが、量子力学の解釈をめぐる最近の議論を見てゐると、両者の共通点、あるいは両者の共通の基盤といふものが見えて来たやうにも思はれる。例へば、量子力学の形式が人文社会科学にも応用できるといつた議論が出てゐる*2。他方で、量子力学を認識論の観点から見直さうといふQBismの動きもある。

今、一番興味深い動きだと思ふので、これからも時々、取り上げたい。

*1:アインシュタインノーベル賞に係る興味深い話を、佐藤文隆氏が書いてゐる。

*2:Quantum social scienceに関するWikipediaの記事参照。