量子もつれの哲学的な意味

今年のノーベル物理学賞は、量子もつれに関する先駆的な実験を行つた3人の研究者に贈られた。「量子もつれ」とは、二つの物体が離れてゐても、あたかも一つであるかのやうに振る舞ふ現象で、アインシュタイン(1879-1955)は量子力学が予測するこの現象を、「幽霊のやうだ」として否定してゐたが、それが現実に生じてゐることを示したのが、今回の受賞者達なのだ。

量子もつれとは

量子もつれの状態は、物体といふものに関する私達の基本的な考へを揺るがす。これを説明したノーベル賞のサイトの解説の一部を訳してみる。

二つの粒子が量子もつれの状態にある時には、一方の粒子の状態を測定する人は、他方の粒子に対する同様の測定の結果を確認する必要はなく、直ちに知ることができる。一見すると、それほど不思議ではないかも知れない。粒子の代はりに球を考へると、ある方向には黒い球が、逆の方向には白い球が送られる実験を思ひ描くことができる。ある観察者が球をつかんで白だと分かれば、直ちに逆の方向に進んだ球は黒だと言ふことができる。量子力学が特別なのは、球に相当するものが測定されるまでは決まつた状態を持たないといふ点だ。まるで、両方の球が、誰かがどちらか一方を見るまでは灰色であるかのやうに。見られると、ランダムに黒か白になり、他方の球は逆の色になる。

ここでは二つの点に注意すべきだらう。一つは、物の状態が、見られる前と後では変化すること。もう一つは、離れてゐる二つの物体が、瞬時に一方が黒だと他方が白になるといふ不思議な関係を保つてゐること。

私達は、見てゐやうと見てゐまいと、物の状態は変はらないと考へる。それが「物」といふものだ。人の場合には、見られると態度を変へるといふことがあるかも知れないが。ところが、量子力学では、生物ではない歴(れつき)とした物体が、見られると状態を変へるのだ。むしろ、物の状態は、どのやうに観察するかと分けて考へることはできない、と言ふべきかも知れない。

決定論の否定

この考へが正しいとすれば、全ては予め決められてゐるといふ決定論は、量子力学によつて実験的に否定されたことになる。哲学者たちは決定論と自由意志との関係について悩んで来たわけだが、そもそも決定論が誤りだつた、あるいは、人間が自らに課した前提に過ぎなかつたのだとすれば、問題自体が意味のないものだつたのだ。

カント(1724-1804)が「物自体」といふ考え方を導入したのも、この決定論と自由との両立を図るためだつたが、それはカントが古典的な力学の見方に捉はれてゐたことから出て来た問題だつたと言へる。実際、カントはかう述べてゐる。

あの一般物理学の原則のうちには、真にわれわれの要求する普遍性をもつものがいくらか見いだされる。たとえば、実体は残留し持続する、すべて生起するものはつねに原因により、恒常的法則にしたがってあらかじめ決定されている、などの命題がそれである。

(『プロレゴーメナ』「超越論的主要問題」第二編いかにして純粋自然科学は可能であるか 第十五節から。坂部恵『カント』から引用。講談社学術文庫版260頁)

カントがここで「普遍性をもつ」と言つてゐる原則は、知恵を使ひ世界に働きかけて生きる人間には、欠かせないものだらう。確かな手ごたへのない物は、動かせない。何の法則もなければ、経験から学ぶこともできない。しかし、この原則は、「普遍的」ではなかつたのだ。

量子力学の更なる拡がり

量子力学の考へ方を踏まへると、自然科学と社会科学との境目も、これまで思はれてゐたほど明確なものではなくなる。また、透視や念力のやうに、従来、あり得ないとされてゐた現象、説明ができなかつた現象にも、新しい光が当てられる可能性がある。当面の応用としては、量子情報理論を応用した暗号通信などが注目されてゐるが、量子力学が秘めた力は、極めて広い範囲に及ぶと期待される。