ベルクソン(1859-1941)は立派な哲学者だと思ふのだが、一時期はほぼ過去の哲学者として忘れ去られてゐた。その理由の一つは、彼の考へは生気論だとか、彼は心霊現象を信じてゐるとかいふ見方をされて、「怪しい」人だと思はれたからだらう。そして、かうした意見は全くの誤りだとは言へない部分もあるので、話はややこしい。
France CultureのPodCast番組"Avec philosophie"で、「生命のエネルギーは神秘か神話か」L'énergie vitale, mystère ou mythe ?と題して、ベルクソンの話をしてゐた。この話のウェブページには、「ベルクソンにとつては、生き物はエネルギーの継続によつて特徴づけられる。生の飛躍は物質を励起し生気を与へるとされるが、これは霊的な原理か、あるいは哲学の道具なのか。」といふ文章が掲げられてゐる。
Pour Bergson, le vivant se caractérise par une continuité d'énergie. L'élan vital, qui soulève et anime la matière, est-il un principe spirituel ou bien un instrument philosophique ?
話者の一人はFrédéric Worms氏(1964-)で、現代のベルクソンの専門家として屈指の人だ。話の内容を要約するのは難しいが、氏がベルクソンは経験主義者empiristeだと繰り返し述べてゐたことは重要だらう。「生の跳躍」といつた言葉がもてはやされ、生気論の親玉のやうに見られてゐるのだが、自らの夢想を述べたのではなく、当時の自然科学の知見も踏まへて、何が真実であるかを真面目に探らうとした人なのだ。
この番組で、Worms氏がベルクソンの一つの言葉を紹介してゐた。
Dès qu’on aime ce qu’il y a de meilleur dans la vie, on devient indifférent à la mort.
拙い訳を示せば、「人生で一番良いものを愛すれば、死はどうでもよくなる。」といつた具合だらう。これはベルクソンが何かの機会に紙に書いて誰かに与へたものらしい。ネットには、そのメモの写真も載つてゐた。
この言葉の真意は計り知れないが、孔子の言葉を思はせる。「朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり。」(『論語』里仁第四)この部分に、吉川幸次郎(1904-1980)は次のやうな解説を付してゐる。
これも宋の朱子の新注に従って、その日の朝、正しい道を聞き得たならば、その日の晩に死んでもよろしい、と読むのが、むしろ普通の読み方であり、またそれでよろしいであろう。
古注では、道とは、世に道あること、つまり道徳的な世界の出現を意味するとし、そうした世界の出現を聞いたが最後、自分はすぐ死んでもいいとさえ思うが、そうしたよい便りを聞かずに、自分は死ぬであろう、という孔子の悲観の言葉として読むが、何となくそぐわない。もっとも陶淵明が、「貧士を詠ず」と題する詩に、「朝に仁義と与(とも)に生くれば、夕に死すとも復た何をか求めん」とうたっているのは、古注の意味でこの句をふまえているようである。(朝日文庫『論語 上』114頁)