ベルクソンとメルロ・ポンティ

Florence Caeymaex の "Sartre, Merleau-Ponty, Bergson : Les Phénoménologies existentialistes et leur héritage bergsonien" を読んでゐる。ベルクソンの哲学は立派なのに、何故、メルロ・ポンティはフッサールの方を重んじたのか、不思議だつたので、買つてみた。

 

一つには、メルロ・ポンティが、当初、ベルクソン自身の著作を十分に読まずに、Georges Politzer の主張を鵜呑みにしてゐたといふ事情があるやうだ。メルロ・ポンティの著作に引用されてゐるベルクソンの主張が、どうも見覚えのないものが多い、といふ印象を持つてゐたが、このためかも知れない。

 

しかし、問題はそれだけではない。フッサール現象学的還元と、ベルクソンの直観とは、良く似た考へ方だが、大きな違ひもある。この本では、第3部第2章 La reduction phénoménologique et le naturalisme bergsonien で、その相違が述べられてゐる。その記述を要約すると、以下のやうになるだらう。

 

フッサールでは、自然主義(naturalisme 科学の対象となる物的な自然が、存在するものの全てであるといふ考へ方)を批判するために、絶対的な意識と相対的な現象との区別が不可欠であつた。意識の志向的な性格を認める必要があつた。実際、自然主義では、客観的な物の世界といふ、一種類の存在しか認めない。観念論 idéalisme も実在論 réalisme も、この点では同じで、存在するとは、動かない物として在ることを指す。

かうしたフッサールの視点からは、ベルクソン流の還元は、フッサールと同様に自然な態度の停止により始められるのだが、則を超え、我を忘れて進み、ある種の自然主義に「再び落ち込む」と見えるのである。イマージュの場(純粋な物質の宇宙と考へられてゐる)から出発する意識の発生は、当然、生きられてゐる意識と、生きられるものの中で与へられるものとの区別を知らない。といふのも、ベルクソンは、この区別を超えようとしてゐるからである。存在すること (être) と知覚されること (être perçu) とは程度の差に過ぎず、意識は、先づ、純粋な存在の秩序の制限でしかない、といふベルクソンの考へは、フッサールの超越主義から遠く離れたところにある。

かうしたフッサール的な問題意識は、サルトルやメルロ・ポンティのベルクソン批判、即ち、実在論哲学であり、生気論的な形而上学であるとの批判を、裏付けることとなる。二人とも、志向性 (intentionnalité) は、意識が客観的な物の世界を離れたものであることを意味すると考へてゐたからである。

 

確かに、ベルクソンが意識をどのやうに考へてゐたかは、分り難いところがある。他方で、意識の世界と物の世界との関係を解明しようとするベルクソンの試みは、自然なものであるし、評価に値すると思ふ。心と物との関係をフッサールやメルロ・ポンティが、どのやうに考へてゐたのかは、もう少し勉強する必要があるが、例へば、「ロボットには意識があるか」といふ問題を考へる際には、意識は絶対だ、とだけ言ふのでは、役には立たない。

 

ベルクソンの視点は、意識における記憶や時間の重要性を示してゐる点で、ロボットの記憶と人間の記憶の違ひ等、具体的な問題を考へる手掛かりを提供して呉れる。また、動物の意識といふ問題を考へる際には、生命の躍動 (élan vital) といふ考へ方も、単なる抽象的な形而上学ではなく、検討の方向を示唆してくれるもののやうに思はれる。