ゲンロンβ33を読む

読み応へ十分のゲンロンβ33
ゲンロンβ33は、大変充実した内容になつてゐる。冒頭の3つの記事だけで、おつりが来る感じ。東浩紀氏の「テーマパークと慰霊」を読むと、大連といふ街を訪れて見たくなり、テーマパークの怪しさ、地に足の着かない感じと本物の世界、例へば里山のある村の落ち着いた美しさとの差はどこから出てくるのだらうか、と新しい疑問も湧いて来る。星野博美氏の「世界は五反田から始まった」といふ連載の第1回も力作で、続きが楽しみ。

「正義は剰余から生まれる--いま哲学の場所はどこにあるのか」
だが、今回は國分功一郎氏と東浩紀氏の対談「正義は剰余から生まれる--いま哲学の場所はどこにあるのか」について、感想を書いてみる。誤解の塊のやうな感想になり、「誤配」も極まれり、といつたものになるおそれが大だが。
この対談では政治に対して哲学はどのやうな働きかけができるのか、といふのが主な話題となつてゐる。「何も信じていない、だから何でも信じる」といふハンナ・アレントのワイマール大衆社会の分析を紹介しながら、今日の日本に欠けてゐるのは信じることだ、といふ問題提起がなされたり、議論の発展のためには主張の背後にある物語を衝突させる場が必要だ、との意見が出されたり、非常に興味深い。
ただ、エビダンスや合理性だけの議論の中で失はれた非合理性を回復すべきだ、といふ部分には、少し違和感を覚えた。正義が単なる合法性に留まるものではないことには賛成だが、合理性の範囲の中でも、まだまだ出来ること、やるべきことがあるのではないか、といふ気がする。

理性の働きと政治の現状
合理性といふのは、理性に従ふ、といふことだらう。理性は、人間が生きて行くために、物理的、生物的、社会的な制約を知り、それを踏まへた対応を考へる働きだ。人間には変へることができない自然の法則がある。さうした法則を見いだして、生きるためにうまく利用すること、それが理性の役割だ。科学技術の発展が示すやうに、理性は人間の可能性を広げるのだが、その前提として、理性は人間の生に課された制約を示すものでもある。
政治の仕事は、理性が示す様々な制約を前提として、衣食住などの民の要求をどのやうにして満たすのか、その枠組みを示し、必要に応じて自ら介入して、自由、平等、博愛といつた理念の実現を目指すことだらう。様々で、時に対立する人々の利害を、上記のやうな理念に基づいて調整することだらう。今の政治は、この基本的な役割を果たしてゐない。
人々が「なんでも可能だと思っているが、なにも真理ではないと思っている」のだとすれば、自分達が直面してゐる制約を理解せず、政治家や官僚が真面目にやれば何とかなるのだと信じてゐるからだらう。真理とはどのやうなものか、それを得るためにはどんな努力を払ふ必要があるかを考へたことがないからだらう。何故、このやうな事態に至つたのか。

非合理的な政治の原因
政治家、国民、報道機関などの関係者が、本来の義務を果たしてゐないからだ。
政治家は、政権の維持だけを目標にして、少子・高齢化、地球環境問題、経済のグローバル化と分裂する政治体制の矛盾、等々、この国が直面する問題について、国民に説明しようとはしない。様々な問題が絡んでをり、優先付けが必要であること、逆に言へば犠牲にしなければならないものがあることは避けて、自らの政策に都合の良い問題だけを取り上げる。教育が無料になるなどの効果だけを強調して、その費用を誰が負担するのかは述べない。ナチスに学べと発言して物議を醸した政治家がゐたが、今の政府のプロパガンダを見てゐると、本気でナチスのやり方に習つてゐるのではないか、と疑ひたくなる程だ。
国民は、自分の生活を守ることに忙しく、断片的な「情報」を元に右往左往し、将来の問題などを考へるゆとりはない。年老いた自分など想像したくもないし、今の収入では貯金も覚束ない。世界に紛争や貧困があつても、自分には関係ないし、自分に何ができる訳でもない、さう諦めてゐる。
報道機関は、さうした国民を指導するといふ気概を失つて、政権の機嫌取りをしたり、口当たりの良いニュースを流したりするだけだ。インターネットの時代に自分たちの仕事はどうなるのかといふ不安を感じながら、紙面や尺を埋めるのに汲々としてゐる。学者は、査読付き論文の数を稼いだり、外部研究費を確保するのに忙しい。

理性的な戦略は可能か
このやうな時代だからこそ、必要なのは合理的な議論ではないだらうか。理性の力で私達に課せられた制約を明確にし、その上で優先順位を考へることが不可欠ではないだらうか。そんな仕事は誰の手にも余る、といふご意見もあるだらう。だが、もし国家の戦略といふものが本当にあるとすれば、それはかうした仕事を前提としたものであるはずだ。
政府がそれをまともに作れないのだとすれば、民間から提起しても良いだらう。以前に比べて情報公開により入手可能な情報は格段に増えてゐるので、人さへゐれば、不可能ではない。それが将来の建設的な議論の種となるか、荒野に寂しく一人咆哮する態に終はるのか、それは分からないが、「あきめたらそこで試合終了」だ。
ともかく、東浩紀氏のゲンロンは、象牙の塔に閉ぢ籠もつた哲学ではなく、現実に働きかける哲学を目指す仕事として、大変価値のあるものだと思ふ。

日本の哲学

フランスのラジオ放送局 France Culture で日本の哲学に関する放送を流してゐた。「哲学への道」Chemin de la Philosophie といふ番組で、4回の放送は、それぞれ次のやうに題されてゐた。

 

1) サムライの倫理 L'éthique des samouraïs
2) ロラン・バルト「表徴の帝国」 Roland Barthes, l'empire des signes
3) 宮崎 穏やかな世界の裏側 Miyazaki, l'envers du monde paisible
4) 日本の哲学はあるのか Y-a-t-il une philosophie japonaise ?

 

フランス人が日本の哲学といふ場合に何を思ひ出すのか、興味深かつたが、出てきたのがサムライと宮崎駿、そしてロラン・バルトが日本をネタに書いた本といふ具合で、その統一性の無さに呆(あき)れもし、納得もした。

 

サムライの話では、Pierre François Souyri といふ人がゲストで、侍は長い歴史の中で農村に根付いて土地を守る戦士から江戸時代には町に住む官僚へと性格を変へた、とか、『葉隠』は戦士としての役割を失つた武士の懐古主義の産物であり当時から異端視されてゐた、とか興味深い話をしてゐた。

 

「日本の哲学はあるのか」の回では、Clélia Zernik と Michael Lucken といふ二人がゲストで、和辻哲郎の『風土』の話をしたり、柄谷行人氏の米国の大学での講義の録音を流したりしてゐたが、Lucken 氏は中井正一についても時間をかけて話してゐた。この人についてはよく知らなかつたので、ネットで調べてみたり、青空文庫で文章を読んでみたりしたが、母校の先輩であることが分かつた。ちなみに、青空文庫も別の先輩が起こしたサイトなのだ。不肖の後輩は、先輩の功績をフランスの放送で知るのである。

 

Chemin de la Philosophie は Podcast でダウンロードして聴くことができるので、満員電車の暇つぶしには最適だ。語学力の不足と騒音で、何を言つてゐるのか聞き取れない場合もよくあるが。

論壇 ゲンロンβを読んで

1976(昭和51)年に、小林秀雄が「新潮社八十年に寄せて」といふ新聞広告用の文章を書いてゐる。全体で400字程度の短い文章だが、二段落からなるその最初の段落には、次のやうに書かれてゐる。

 

若い頃からの、長い賣文生活を顧みて、はつきり言へる事だが、私はプロとしての文士の苦樂の外へ出ようとした事はない。生計を離れて文學的理想など、一つぺんも抱いた事はない。書いて來たのは批評文だから、その形式上、高踏の風を裝つた事はあつたが、私の仕事の實質は、手狹で、鋭敏な文壇の動きに接觸し、少數でもいゝ、確かな讀者が、どうしたら得られるかといふ努力の連續であつた。從つて、私には、文壇とか純文學とかいふ言葉を、世人に同じて輕んずる事が出來ないのである。

 

 

まだ学生だつた頃にこの文章を読んで、何だか失望したのを覚えてゐる。小林秀雄を読んではゐたが、文学には余り関心がなかつたし、文壇といふのは偏屈なぢいさんの集まりのやうに思つてゐた。

 

その頃には分からなかつたが、小林秀雄が言ひたかつたのは、知的創造には文壇のやうな同業者の共同体が不可欠だといふことで、さうした基盤が失はれつつあるのを嘆いてゐたのだらう。

 

小林秀雄自身がしばしばさうしたと言はれるやうに、酒を飲んで相手をこきおろすやうなやり方が文壇や論壇の理想だとは言へないだらう。この種の旧態依然とした師弟関係が、粘着的な関係を嫌ふ若い人達が離れていく理由の一つだと思はれる。他方で、新しい文学や思想を生み出すのが人間である以上、競争心、師弟関係などの極めて人間的な部分が関与して来ることは避けられない。創造の源にあるのがパッションだとすれば、それは理屈の世界を離れてゐるものなのだから。小林秀雄も、見込みの無い者には飲んで絡んだりしなかつた。

 

この文章を思ひ出したのは、『ゲンロンβ』30号の「日本思想の150年へ」といふ記事を読んだからだ。東浩紀氏がゲンロンで実現しようとしてゐるのは、論壇といふ知的活動の場の構築だといふことに改めて気づかされたのだ。さうした場を形作るには、共通の足場が必要となる。論壇でも、文壇でも、古典と呼ぶべき文化遺産は、その欠かせない要素だ。「日本思想の150年へ」は、雑誌「ゲンロン」に載つた批評作品の年表と同様に、私たちにとつての古典とは何かを定義する試みであるに違ひない。

 

何が正しいかを決めるのは、共同作業だ。それには共同体が要る。SNSはさうした共同体の基盤になると期待されたが、"fake news"をバラ撒き、社会を分断するといふ逆向きの働きをした。テレビの「討論」番組も、短い時間に見かけの勝ち負けだけを争ふのが得意な人達をのさばらせて、知的水準の低下を加速させた。売り上げを確保しながら、知的共同作業の場を築くのが容易でないのは、新聞や雑誌の現状を見れば分かる。

 

論理の力で世の中のあるべき姿を示さうとする論壇の場合には、文壇以上に、理性的な対応が期待される。とは言へ、何かを実現しようとする強い思ひがなければ、新しい物は生まれない。資金の計算と、人間関係と、そして勿論、議論の質について配慮しながら、共同体を運営するといふのは、並大抵のことではないだらう。東氏の試みの今後に注目したい。

AC iPurifier その後

iFI-AudioのAC iPurifierは、複数使ふと更に効果が出る、といふので二つ目を購入。Kappa Infinitoさんの3P→2P変換アダプタと簡易アース付きKIセット。簡易アースは、純正のアースとは違ひ、AC iPurifierの頭にあるコネクタではなく3P→2P変換アダプタのアース線につなぐ方式。それをエアコン用などのアース付きコンセントのアースに繋ぐ。

これはオーディオ用のコンセントを設置する資金が無い貧乏マニアには嬉しい。エアコン用コンセントなどのアースは雑音が一杯でオーディオ的なアースとしては逆効果になるのでは、との懸念もあつたが、今の季節はエアコンは使はないし、拙宅の環境では全く問題なし。

更に、AC iPurifierの頭にあるコネクタは空いてゐるので、Yoshii9のスピーカー端子のマイナス側につないで仮想アースを作ることも出来る。DACは本来ポータブル用のiFI-Audioのmicro iDSDを使つてゐるのでアースは無い。

二個のAC iPurifierは、iFI- Audioさんのお勧めに従つて、一つはコンセントに、もう一つはそこから取りYoshii9のAC/DCアダプタとi USB3.0(*)のAC/DCアダプタを繋いでゐる電源タップに設置。二個にした効果も、簡易アースの効果も、一聴して分かる。改善の方向は背景が静かになり、高音、低音共に伸びて、音の輪郭が明確になる、といふ電源改善の一般的な傾向と同じ。投資対効果は極めて高い。

(*)i USB3.0はUSB DACを使ふ際に、USBの雑音を抑へるためにとても有用な製品。今は更に機能を高めたiGalvanic 3.0が出てゐるので、これから導入される方には、こちらがお勧め。iFI-Audioは素晴らしい会社なのだが、日本語サイトの説明が英語の直訳で分かりにくいのと、次々出される製品の相互関係が示されないのが玉に傷。

iFI-Audioの電源アクセサリー

iFI-Audioから電源アクセサリーがいくつか出てゐるが、DC iPurifierとAC iPurifierを使つてゐる。どちらも効果が大きい。
DC iPurifierはKappa Infinitoさんのファインメットつきケーブルセット。
AC iPurifierは、アースがないとディファレンシャル・ノイズにだけ効果があり、アースがあればコモン・モード・ノイズも抑へる。拙宅にはアースが無いので、アースコードを使つて、Yoshii9のスピーカー端子のマイナス側につないでゐる。これは「Yoshii9を最高の音で聞こう」といふサイトにあつた仮想アースをここにつないだら良い効果が得られたといふ話を踏まへたもの。(なほ、「Yoshii9を最高の音で聞こう」は何らかの事情で閉鎖されたが、ウェブのアーカイブで一部を見ることができる。)
iFI-Audioのサイトでは、アースケーブルはコンセントにあるアース端子につなぐことが推奨されてゐるが、英文サイトを見ると、アース端子をつなぐことで仮想アースを作ることもできるやうだ。(両方のランプが赤なのは変はらないが。)
電源関係では様々な装置があるが、iFI-Audioの電源アクセサリーは費用対効果が極めて高い。お勧めです。
なほ、アースケーブルは、iFI-Audioからも発売されてゐるが、何分高価なので、拙宅ではテスター用のケーブルを使つてゐる。これでも効果は大きい。AC iPurifierからの振動がYoshii9のアンプに伝はるのが嫌なので、途中にガン玉を噛ませてある。また、「新大陸への誘い」の記事に倣つた仮想アースも付けた。これがある方が高音の硬さが和らぐやうに感じる。
先に書いたnano i USBなどの様々なアクセサリーに加へてこれらの電源関係アクセサリーをつけることで、Yoshii9の高音の霞みが晴れ、低音は更に伸びる。Yoshii9自体に問題があつたのではなく、供給される電気の雑音がその性能発揮を妨げてゐた訳だ。電源周りを整へると、Yoshii9からは本当に気持ちの良い音が出て来る。楽器の分離が良く、自然な広がりがあるのは勿論、上向きのスピーカーなのに、音が前に向かつて飛び出して来る感じも得られる。本当に素晴らしいスピーカー+アンプだと思ふ。

Into the gray zone

Adrian Owenといふ人が書いた"Into the gray zone" といふ本を読んだ。この本に辿り着いたのは、渡辺正峰氏の『脳の意識 機械の意識』にあつた田嶋達裕(たじまさとひろ)氏についての記述からだ。田嶋氏は前途を嘱望されてゐた若手研究者だが、最近、事故で亡くなつたといふ。検索してみると、ツイッターに本人のアカウント@satohirotajimaが残されてをり、その最後の書込みと思しきもので、この本が紹介されてゐた。

This book is about practice of consciousness study but would also be a best start point for theorists: intothegrayzone.com

植物状態と判断された人の意識をfMRIなどの最新技術を使つて探るといふ研究について書かれた本で、研究者自身の半生を絡めた記述は、正に「巻を措く能はず」、一気に読ませる。植物状態とされた人達の中にも2割近くの割合で意識を保つてゐる人がゐるといふのが、Owen氏が研究で明らかにしたところなのだが、興味深いのは、どういふ方法でそれを確かめるかといふ工夫だ。
 
植物状態とは、昏睡とは違つて、眠り続けてゐるのではなく、目を開けてゐる時もあるが、眼差しは虚ろで問ひかけにも応じないといふ状態だ。植物状態でも抓(つね)るなどの刺激を与へると顔を顰(しか)めたりする事はあるが、それは反射的な動きかも知れず、意識があるとは限らない。従来の方法では患者とやり取りができないので、fMRIなどを使つて脳の動きを見ながら、意識がある事をどうやつて示すか、さらには患者とどうやつて意思疎通を図るか、著者はあれこれと考へることとなる。
 
著者のOwen氏は、理科系の研究者の通例として、意識は脳の産物だと考へてゐる。自然科学的な脳と意識についての研究を見ながらしばしば感じるのは、意識とか心についての検討が不十分だといふことだ。元々、脳の働きにより生まれる付随的な現象と考へてゐるからなのか、意識の本質的な部分は何かを明確にしないまま、脳のこの部分を抑制するとこの知覚が消えるとか、この部分を刺激するとこの記憶が呼び起こされるとか、断片的な研究を重ねてゐるやうに見える。
 
ベルクソンは『物質と記憶』の序文(第7版)で、かうした見方がある種の誤つた哲学的前提に立つてゐることを指摘してゐる。 

思考を脳の単純な機能とし、意識状態を脳の状態の付随現象と考へる場合でも、思考の状態と脳の状態を一つの原文の二つの異なる言語による翻訳と考へる場合でも、動いてゐる脳の中に入り込んで脳の皮質を構成する原子の相互作用に立ち会ふことができ、合はせて生理心理学の鍵を持つてゐれば、対応する意識の中で起こる全ての詳細を知ることができるといふことが、原理として置かれてゐる。

実のところ、哲学者も科学者と同様に、これを受け入れてゐるのが普通である。しかし、先入観なく事実を調べると本当にこの種の仮説が示唆されるのかを問ひ直す余地があるだらう。意識の状態と脳の間に緊密な関係があることは議論の余地がない。しかし、フックとこれに掛けられた上着との間にも密接な関係がある。フックを抜けば上着は落ちるのだから。さうだからと言つて、フックの形が上着の形を描き出すとか、そこから上着の形について何らかの予想ができると言へるだらうか。同様に、心理的な事実が脳の状態に掛かつてゐることから、心理的な流れと生理的な流れとの「並行性」といふ結論を出すことはできない。哲学が科学の成果に依拠してこの並行説を主張する際には、全くの循環論法に陥つてゐる。科学が、密接な関係といふ事実を、並行説といふ一つの仮説(意味が分かり難い仮説だが)の方向に解釈するのは、意識的にせよ無意識的にせよ、哲学的な理由からなのだから。

ベルクソン自身は、『物質と記憶』で、物質としての身体と精神の両方の存在を認めるといふ二元論の立場から出発して、両者の関係を明らかにしようとした。その際にベルクソンが取り上げたのは記憶といふ現象で、その理由として失語症などの研究事例が多いこと、解剖学、生理学、心理学の連携が進んでゐる分野であることを挙げてゐるが、先入観なく精神と身体との関係を考へると、記憶の問題が中心になつて来るとも言つてゐる。記憶を論じたのは、精神活動の中で一番物質的なものに近いと考へられてゐたこともあらうが、空間と時間との本質的な差異といふ自身の基本的な主張に基づいた選択でもあつただらう。
 
知覚とか判断とかいふ精神活動は、時間といふ要素抜きでは考へられない。発達した動物の特徴が予測に基づく行動にあるとすれば、時間といふ要素はその基本的な部分を成してゐる。「ない」といふ言葉も、記憶や期待といふ時間的要素が前提となつてゐる。あつたはずだ、あるはずだといふ思ひがあるから、「ない」といふ言葉が生まれる。否定といふのは理性の基本的な働きだが、時間を抜きにして語ることはできないのだ。脳の中に記憶がある、精神がある、といふ考へ方が不十分だと思はれるのは、かうした考へ方が空間の中にある脳を想定してをり、時間的な要素が抜け落ちてゐるからだ
 
いや、脳の働きにはシナプス発火のパターンなどの時間的な変化も当然含まれる、と科学者は言ふだらう。しかし、一瞬、一瞬の脳には一つの状態しかない。その一状態において、過去の記憶と現在の知覚がどう区別されるのかを説明するのは困難ではないか。これは唯物的な考へ方が抱える問題の一例に過ぎない。現在の中に身を置きながらも、記憶の力で「今、ここ」を離れることができることが、精神の基本的な働きなのだ。否定する、言葉の意味を考へる、等々の精神特有の働きもそこから出てくる
 
Owen氏は、意識は脳の産物だと考へてはゐるが、自らの経験から、脳と意識との関係が症例により大きく異なり、単純ではないことも理解してゐる。単純な並行説を前提にするのではなく、脳を含む身体と精神とがどのやうな関係にあるのかを、事実として積み上げることが、科学の発展にもつながると思ふ。

正しいとは(3)

以前、正しさについて考へた時には、次のやうに書いた。
「物事の正しさはどうすれば分かるか。正しいとは、現実に即してゐること、規則に従つてゐることだ。自然科学的な正しさと倫理的な正しさの二つを区別して考へるのが良いだらう。」

しかし、ここでは現実の世界で大きな問題となる正しさが抜け落ちてゐた。自然科学的に確認できる正しさでも倫理的な規範でもない正しさ、具体的には、人間の社会で起きている出来事を正確に表現するといふこと、言はば人文科学的・社会科学的な正しさである。

この抜け落ちに気づいたのは、昨今のpost-truthの風潮からである。post-truthとは、ウェブの辞書に依れば、次のやうな意味だ。
 

"Relating to or denoting circumstances in which objective facts are less influential in shaping public opinion than appeals to emotion and personal belief."
https://en.oxforddictionaries.com/definition/post-truth

 
世論の形成には、事実が何かよりも感情的な訴への方が重要である、そんな政治状況を形容する言葉といふ訳だ。

世の中は複雑で、「群盲象を撫でる」ではないが、社会に関するどのやうな言説も一面的であることを免れない。また、政治に宣伝は付き物で、自らに都合の良いことを強調し、さうでないことは無視するといふのは、大昔からあるやり方だ。これらの事情は昔から変はらないのに、今の時代にpost-truthといふ言葉が出てきたのは、「象」が巨大化した、あるいは、事実と政治宣伝との乖離がかつてないほど大きくなった、といふ現状があるからだらう。

先づ、現実が複雑になり、事実を確認するための手数が増えてゐることが、post-truth時代がやつて来た原因の一つとして挙げられるだらう。タックスへイブンを利用した節税・脱税などは典型的な例である。専門家である先進国の税務当局の力を以てしても、その実態の解明は容易ではない。「パナマ文書」のやうな関係者の機密文書が表に出てきて、初めて解明が進むといふのが実情だ。

また、自然科学が対象とする事象とは違つて、人文・社会的な事象では実験といふ手段が使へない場合が多い。歴史的な事実を確かめるといふ場合などは、その典型だ。かうした状況では、どれだけ証拠が集められるかが重要だが、利害関係者は不利な証拠の湮滅を図るので、容易ではない。様々な理由から、虚偽の証言も多い。国際関係が複雑化し、利害が錯綜すると、事実の解明はさらに困難となる。だから教科書に何を書くかが国際問題となる。

他方で、インターネットやSNSが事実と政治宣伝の乖離の大きな原因であることは言ふまでもない。情報発信のコストが非常に小さくなつたため、誰でも「情報」をバラ撒けるやうになつた。かつては出版社や放送局などの専門的な組織を経由してゐたので、組織の信用を維持するためにも、事前にある程度の事実確認作業が行はれてゐた。インターネットの場合には、それが皆無に等しい。「いいね」などの社会的な評価がそれに代はる役割を果たすと期待されてゐたのだが、同じ意見の人達が集まつて盛り上がるといふSNSの場では、さうした監査機能は働かない。中身は流言飛語に異ならず、むしろ、多数に支持されてゐるので自分の意見はやはり正しい、といふ非論理的な信念を助長してゐる。

しかし、問題はそれだけではない。出版社、放送局といつた既存の情報伝達機関でも、チェック機能が低下してゐる。実は、インターネットの普及が広告や読者を奪ふ形でこれらの機関の力を弱めたので、これもインターネットの弊害の一つだと言へるだらう。また、日本の場合には、改革の名の下に政府の交付金が削減され、競争的資金を獲得するために目先の研究で忙しく、大学の基礎的な体力が弱つてゐることも見逃せない。対象となる事象が複雑化する一方で、それを解明する役割を担ふ組織が弱体化してゐては、何が正しいかが分からなくなるのは無理もない。

このやうな困難を考へると、人文・社会的な事象に関する事実が確定できるといふのは、極めて幸運な場合に限られると言ふべきかも知れない。関係者の事実を突き止めようといふ姿勢、それぞれの利害を超えた協力が無ければ、何が正しいかを定めることはできないのだから。さらに言へば、一度確立した正しさが、その後も維持されるとは限らない。正しさを示す証拠が保存され、次の世代でも尊重されなければ、消えてしまふ恐れがある。

しかし、政治的な宣伝の如何に係はらず、事実は厳然とある。それは、例へば、EU離脱を決めた英国国民が身に沁みて感じ始めてゐるところだらう。正しさを見極める努力は、自らの身を守り、子や孫の行く末を確かなものにするために、欠かせないのだ。