11月30日のFrance Cultureの番組「哲学への道」Chemin de la Philosophieでプラトン(427-347BC)の『パイドン』が取り上げられてゐた。「古代の哲学者と閉ぢこもる」といふテーマの第1回で、新型コロナ対策としての外出制限を背景とした企画だと思はれる。この日は、Dimitri El Murrといふ人がゲストで、ソクラテス(C.470-399BC)の最後の言葉とされる「クリトン、アスクレピオスに雄鶏一羽の借りがある。忘れずに、きっと返してくれるように」*1についても、意見を述べてゐた。それは、概ね、次のやうな意見だつた。
ソクラテスの最後の言葉に関する解釈
この言葉には古来、様々な解釈があるが、大まかに言へば二つに分けられる。第一は、死とは魂を肉体といふ牢獄から解放するものであり、人生といふ病から癒されることなので、医術の神であるアスクレピオスに感謝するのだ、といふ解釈。第二は、実際に病から癒された者がゐて、その治癒をアスクレピオスに感謝するのだ、といふ解釈。その癒された者とは、『パイドン』の冒頭で、病気のためにソクラテスの死には立ち会はなかつたと述べられてゐるプラトンを指す。後者の解釈は少数派だが、Murr氏はこちらに魅力を感じると述べてゐた。ソクラテスの最後の言葉について、様々な解釈があることは何となく知つてゐたが*2プラトンの快復を感謝するためだといふのは初めて聞いた説だつたので、少し調べてみた。
人生といふ病からの解放を感謝するため、との説
岩波文庫の翻訳者、岩田氏は、この言葉の解釈として
- ソクラテスは今や、この世の生という病から解放されて神々の国に癒されて目覚めることを、癒しの神アスクレピオスに感謝しているのだ、というもの
- ソクラテスは自分自身をアポロンの奴隷と称し、生涯を通じてアポロンに特別な献身をしめしているが、アスクレピオスはアポロンの息子とみなされていた、という点でのつながりを見るもの。ここでアスクレピオスに献げられている雄鶏は、東方ゾロアスター教の信仰によれば、死をも超えて悪を打ち払う力をもっていたので、ソクラテスは死後の旅路の導き手として自分の守り神アポロンの息子にこの鶏の奉献を願った、といふもの。
- どういう連関で言われているにもせよ、ソクラテスは実際にこの神に雄鶏一羽の借りがあった、というもの
の三つを挙げた上で、「結局、最初の理解がもっとも単純でソクラテスらしい」といふ意見を述べてゐる。因みに、ニーチェ(1844-1900)もこの解釈をしてゐた。ニーチェは、元々、古典文献学が専門で、彼の意見は軽視できないところだ。生とは魂の病である、といふこの解釈が、一般的なもののやうだ。
プラトンの快癒を感謝するため、との説
番組で、Murr氏は、プラトンの快癒を感謝するためだといふ説を採る理由を詳しく説明してゐないが、齊藤安潔といふ人の博士論文「プラトン宗教思想研究 : 哲学的神学の誕生」には、この説を主張したGlenn W. Mostといふ人の論文が詳しく紹介されてゐる。大まかに言へば、その主な論点は、以下のものだ。
- 死を「癒し」と見る従来の解釈は、死を避けるために病を癒すといふアスクレピオスの基本的な役割と矛盾する。
- 『パイドン』の中で、ケベスが「人間の肉体の中に入ったこと自体が魂にとっては病気のようなものだ」といふ論を展開するが、それはソクラテスによつて否定されてゐる。
- ソクラテスの遺言に用ゐられてゐる動詞は、過去の恩恵に感謝するといふ意味であり、まだ生きてゐるソクラテスが、魂の肉体からの解放をすでに起きたこととしてアスクレピオスに感謝するのは、その意味に合はない。
- 『パイドン』の中で、唯一、病気だと書かれてゐるのはプラトンである。
- ソクラテスは、プラトンが癒されたことを、死の前に生ずる霊力によつて知つた。
- ソクラテスの最後の言葉は、プラトンがソクラテスの後継者であり、ソクラテスの死後も、プラトンによつて、その教へが守られることを意味する。
その他の説
ちなみに、論文の著者である齊藤氏自身は、Glenn W. Mostの説を批判したJ. Crooks といふ人の論文を紹介しながら、「ソクラテスのアスクレピオスに対する借りとは悪徳や無知という魂の病それも死についての恐怖や悲しみを引き起こすような無知の癒しだと考えられる。」といふ意見を述べてゐる。
この他に、Sandra Petersonといふ人の論文では、”Socrates expresses gratitude to Asclepius because Socrates was able to act virtuously in dying.”といふ説が主張されてゐる。
これらの意見も説得的だが、プラトンは自らの治癒を感謝するといふ意味も込めてゐたと考へるのが良いと思はれる。
西洋の古典の代表:プラトンの対話
上に挙げた幾つかの論文は、1990年代以降に書かれたものだ。プラトンが生きたのは約2400年前だが、著作が現代に至るまで読み継がれ、その解釈について議論が続いてゐることには、改めて驚きを感じる。プラトンの対話編は西洋の古典の代表だと言へるだらう。
プラトンのテキストの伝承
そもそも、2000年以上も前の文章が残されてゐる、といふことが驚くべき事だ。 内山勝利氏の論文を読むと、今日、私達が見るプラトン全集がどのやうにしてできたかが分かり、とても興味深い。ギリシャの哲学者で本人の著作がきちんと残されてゐるのは、プラトンただ一人のやうだ。「『アリストテレス全集』とは、実際には、複雑な経路を辿って伝わった彼の「講義ノート集」のようなものだけ」なのださうだ。パピルスや羊皮紙に書かれた著作は、繰り返し筆写されなければ、残ることはなかつたのだ。今日流布してゐるプラトンの著作には、「標準版」の頁や行数が付されてゐるが、その「標準版」とされるステファヌス版は三巻本だつたので、同じページや行数が三つの作品に出て来ることもある、といふ話も参考になる。
アランのプラトン評
フランスの哲学教師アラン(1868-1951)は、プラトンの熱心な読者だつたが、自伝『わが思索のあと』で、次のやうに書いてゐる。
私は、極めて自由にかつ極めて正しく、プラトンを敎へてゐた。この著者は、殆ど讀まれずに誤解され、しかも非常に祭り上げられてゐるといふ特權を持つてゐる。このことが正に平凡な讀者と平凡な生徒とに自慢の種になるのである。何となればかれらはこの無比の詩に心奪はれ、つひに大して勞せずに、かれらが拂はない努力を拂はなければならぬ煉獄の門、あるひは道程の如き、諸部分を認識してしまふからである。それは多く知つてゐることである。かつ行つては戻り、迷ひ、突然*3飛翔し、ついで群を待つプラトンのやり方は、疑ひもなく人間に寸法が合つてゐる。人間は、私が發見したところでは、橫目で、かつ小ざかしい休息をした後でなければ、決してものをみないものである。(森有正訳、175頁)
プラトンは、実際に読まれることは少なく、入り口で分かつたと誤解する人が多い、といふのだ。実際、『テアイテトス』を読んでみると、話がなかなか進まないし、結論も出てゐないのに終はつてしまふやうに感じる。アランは、それがプラトンの意図したところだ、と言ふのだ。『わが思索のあと』には、生徒たちに語つた次のやうな言葉が見られる。
「私が諸君を注意深く、利口に、つひには他の凡ての人々に對する勝利者となす秘訣を握つてゐるとしよう。私はかゝる武器を諸君にむざ/\渡すまい。たゞ手を、諸君を助けるために、手をさし出すだけでもするであらうか。それは正しいことではあるまい。幸ひにしてかかる手段は存在しない。諸君に探求する何ものも殘さないほど完全な證明があるとしよう。もしかゝる證明を私がもつてゐるとしたら、それを極めて注意深く諸君に對して隱さなければなるまい。ラニヨォは時々、嚴密な證明は精神をものに變へるであらう、と言つてゐた…」(同176-177頁)
ラニヨォといふのは、アランの師であるジュール・ラニョ(1851-1894)である。
日本の古典
日本にはプラトンのやうに学び継がれて来た古典はあるだらうか。あるとすれば、『論語』などの漢籍だらう。仏典は、僧侶以外には分かつて読んでゐる人が殆どゐないので、当てはまらないやうな気がする。長くなつたので、この話は改めて。