日本の思想の基盤

思想の共通基盤を持たない日本

丸山眞男(1914-1996)が『日本の思想』に、かう書いてゐる。

一言でいうと実もふたもないことになってしまうが、つまりこれはあらゆる時代の観念や思想に否応なく相互連関性を与え、すべての思想的立場がそれとの関係で——否定を通じてでも——自己を歴史的に位置づけるような中核的あるいは座標軸に当る思想的伝統はわが国には形成されなかった、ということだ。(岩波新書版 5頁。傍点をゴチックに変更)

ここで中核的な思想伝統といふ言葉が指してゐるのは、例へばヨーロッパにおけるキリスト教のやうな伝統だ。

別に座標軸など無くても困らない、といふ考へ方もあるかも知れない。しかし、今日のやうに世の中が複雑化し、「情報」が溢れる時代には、なんらかの座標軸があつた方が、物事を整理するには便利だ。また、自分の生き方を考へる時に、過去の偉人たちが何を考へたのかを知らうとすることは、自然なことでもある。さうした過去の偉人たちの考へが一つの座標軸のやうな形にまとまるとは限らないが、幾筋かの流れができても不思議ではない。

三枝博音(1892-1963)は『日本の思想文化』の中で、「知識人に共通の古典があったか」について論じてゐる。その一節。

近代ヨーロッパの詩人や小説家や科学者たちが、昔の思想家、たとえばプラトンセネカスピノザ、ベーコン、パスカルゲーテというような人たちの著書を読み、感じ、そして引用するように、近代日本の随筆家や小説家や学者たちが、好んで共通に読み、感じ、そして引用した思想家が日本にいたであろうか。この問いは肯定できないようである。現代の日本人の書いた随筆や小説や、学問的論説の類をしらべてみても、それらの作者が、わが国の古典から汲み、それでもって自分の思想の展開をたすけ、そのためにのびのびと想を発展させているとは思えないのである。(中公文庫版 79頁)

ここでも、日本の思想が全体としてのまとまりを欠き、共通の基盤と呼ぶべきものが見当たらないといふ説が述べられてゐる。

その原因

三枝は、「いったい日本では、それぞれの時代における古典の時代化ということが、なかったのではあるまいか。ファウスト伝説に対するゲーテのような人がいなかったのである。わが国の古典はその思想性を発展せしめられずにいたのである。」と述べて、かう続ける。

私はその理由を、日本には文化の横の交流がなかったためであるということに、見出さねばならぬと思う。日本では為政者は宗教や道徳に伴う学問を、政治的観点から普及したけれども、その場合、特殊の一つの流派の学問を採用することはしたが、学問の諸派全体の交互的影響を企てることをしたとは考えられない。(同 81頁)

丸山は、『日本の思想』に収められた三つ目の論文「思想のあり方について」で、「ササラ型とタコツボ型」といふ図式を示してゐる。日本の学問は、共通の基盤を持つた「ササラ型」ではなく、学問の間での交流が乏しい「タコツボ型」になつてゐる、といふのだ。その理由について丸山は、次のやうの述べてゐる。

日本がヨーロッパの学問を受け入れたときには、あたかもちょうど学問の専門化、個別化が非常にはっきりした形をとるようになった段階であった。従って大学制度などにおいては、そういう学問の細分され、専門化した形態が当然のこととして受け取られた。ところが、ヨーロッパではそういう個別科学の根はみんな共通なのです。つまりギリシャ——中世——ルネッサンスと長い共通の文化的伝統が根にあって末端がたくさんに分化している。(岩波新書版 132頁)

その結果、ヨーロッパの学問が「ササラ型」であるのに対して日本の学問が「タコツボ型」になつたといふ訳だ。丸山は、哲学が本来諸科学を関連づけ基礎づけることを任務とするものなのだが、近代日本では哲学自身がタコツボ化した、とか、ヨーロッパの教会、クラブなどの別の次元で人間をつなぐ伝統的な集団や組織が日本には乏しい、といつた問題点も指摘してゐる。

二人が共通して指摘してゐるのは、学問間の交流が乏しかつたといふことなのだが、更に言へば、長い歴史の中で日本が学問の輸入国であつたといふことが大きな影響を与へてゐると思はれる。学問が国内に自生してをらず、出来上がつた学問の成果だけを摘み喰ひしてゐるので、共通の根を持たないのだ。

では、どうするか

日本にも、思想家がゐなかつた訳ではない。三枝は次のやうな人達をその例として挙げてゐる。

私は、思想家らしい思想家として、最澄空海道元中江藤樹荻生徂徠、三浦梅園、本居宣長西周福沢諭吉等が、誰よりもまず問題になると思う。ところがこれらの人々は殆んどすべて危険を冒して異種類の外国文化を日本に移植したか、それとも日本の内にあって仏教、儒教神道等の諸思想を相継いで熱心に汲んだ人々、つまり思想上の交通の多かった人々であるかである。誰でもこれらの思想家が、相寄って過去の日本文化の大いなる部分を形成したのであることに、異論はあるまいと思う。これらの思想家は、それぞれ宗教や文学や学問において、その理解の仕方と表現力の秀れている点で共通点をもっていると考えられる。すなわち思想性をもつという点で共通しているのである。もし、これらの思想家の著述を現代化することができたら、過去の日本人の文化遺産は一層豊富さを加え、光輝を加えるであろうと思う。(中公文庫版 84-85頁)

 「現代化する」といふのは、これらの思想家の著作を読み返し、現在の問題を解くための手がかりを得るといふことだらう。しかし、上に挙げられたやうな思想家の著作を直接読むことは、一般の読者には困難な場合も多い。その大きな理由の一つが、漢文だ。

例を挙げると、空海の『三教指帰』は、次のやうな姿をしてゐる。

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空海三教指帰

読み下すと、「文の起り必ず由(ゆゑ)有り。天朗かなるときは則ち象を垂れ、人感ずる時は則ち筆を含む」といつた具合だが、なかなか敷居が高い。上に示した本は1882(明治15)年に出版されてゐるのだが、当時はかうした文章を読む人たちが少なからずゐたといふことなのだらう。

かうした文章を読めるやうな教育をすべきだ、といふ意見もあるだらうが、口語文で書かれた文章で間に合ふのであれば、一般人にはその方が助かる。外国語で書かれたものであれば翻訳で、漢文は書き下しで、註を付し、専門的な予備知識なく読める日本語の本が、これからの日本人がものを考へる際の支へとして必要になる。

そのやうな知的な基盤がなければ、日本人の思索の水準が上がることは期待できないし、世界への発信も無理だらう。

思想を使ふ立場から

かうした日本の知を支へる本を著す、或いは探すといふのは、必ずしも専門的な学者の仕事ではない。むしろ、そんな一般向けの仕事をしてゐては論文も書けないので、学者に期待するのは無理だと考へるべきかも知れない。過去の思想的な遺産を自分の生き方を考へるために使ふ立場からすれば、欲しいのは、重箱の隅をつついて、過去の思想家の著作に細かな註を書くといふ仕事ではない。さうした遺産を自分で読むために役立つやうな道しるべだ。

思想が本当に生きたものとして伝へられるためには、「名作を5分で読む」といふ類の本は役に立たない。思想家本人の息づかひが感じられるやう、思想家自身が書いた文章を読む必要がある。

そんな作業を自分でもやつてみたいと思ふ。