体系化とは

どこに足場を求めるか

「使ふ側から見た思想の体系」を考へると書いたが、体系といふからには、主な問題を漏れなく取り上げるとともに、全体として、ある程度の整合性がなければならない。そして何より、体系の要素となる思想をどこから持つて来るのか。人々が読み継いで来た古典と呼ばれる書物と、最新の科学の成果とが、基礎になるだらう。

古典を読むといふのは、偉人の生き方に学ぶといふことだ。過去の偉大な人達が、私達が出会ふ問題について、どのやうに立ち向かつたかを知ることだ。彼らが出した具体的な答へが正しいとは限らない。デカルト(1596-1659)は精神と肉体とを結びつけるのは松果腺だと考へたが、現代の科学者でこれを肯定する人はゐないだらう。しかし、全てを疑ふことで正しいものを探し出さうとした姿勢には、今日でも学ぶべきものがある。

科学は、何が確かめられた事実であるかを教へて呉れる。ただ、事実の確定は多くの学者の共同作業であり、時間と手間を要する。COVID-19にどう対応するかについて、専門家の間でも様々な意見が出てゐる。新しいウイルスなのだから、その性質を知ることから始めるしかないので、適切な対処法を確立するには時間がかかるのは仕方がない。

最新の科学の場合には、専門化が進んでゐるため、個別の問題を理解できる人の数が限られてゐる一方で、大きな視点から考へる人も不足してゐる。医療だけではなく経済的影響も含めて考へると何が正しい対応なのか、「正解」は一つとは限らない。

事実を踏まへ幅広い視点で向かふべき方向を知るために、私達に何ができるか。その一つが、体系化といふ形で考へ方を整理し、何が根本の問題で何が枝葉に過ぎないのかを見極めることだと思ふ。

どの古典を選ぶか

古典から学ぶとしても、どれを取り上げるかといふ問題がある。学者の立場であれば、古今東西の思想家を読みつくして、その中から代表的なものを取り上げる、といふ作業を行ふのかも知れないが、普通の生活者では、さうは行かない。結局、自分が読んだ限られた本の中から、気に入つたものを取る、といふことにならざるを得ない。

しかし、これは必ずしも欠点だとは言へない。そもそも、代表的な思想家は誰か、何が重要な思想かを、どのやうに決めるのか。その「代表的思想家」が私には理解できないとすれば、その思想がどんなに立派なものであつたとしても、私の人生を豊かにしては呉れない。

勿論、その分野の専門家がどのやうな思想家を重んじてゐるかを知ることは無駄ではない。しかし、最終的には、自分のことなのだから、自分で決めるしかないのだ。

先達としての小林秀雄

とは言へ、何かの手がかりが無ければ、世間にあふれてゐるの書物の中からどれを選ぶかを決めることは難しい。書店に並ぶ片つ端から読んで行くのでは、良い書物に出会ふのは宝くじに当たるやうなものだ。「すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり」*1。先達は有難い。その先達探しも大変だが、小林秀雄(1902-1983)は目利きとして知られてをり、頼りになる。

文芸評論家といふことになつてはゐるが、この人生をどう生きるかについて深く考へた人で、文学者に限らず古今東西の偉人について書いてゐる。小林秀雄に学んだ人は多く、哲学者の木田元(1928-2014)には、『なにもかも小林秀雄に教わつた』といふ本もある。

哲学者 ハイデガーベルクソン

幅広い問題について、根本的な問題から考へる、といふのは哲学者の仕事だらう。思想の体系化を考へる際には、先づ、哲学者の著作をひも解いてみるのが一つのやり方だ。20世紀を代表する哲学者と言へばハイデガー(1889-1976)の名前が一番に挙がるのではないかと思ふ。確かにハイデガーは、ギリシャの古典からニーチェに至るまで、西洋哲学について深い知識を持ち、その講義には学ぶところが多い。ただ、一部の著作を翻訳で読んだだけで言ふのも烏滸がましいが、ハイデガーは哲学のための哲学をやつてゐるやうに見える。哲学そのものに関心が無い人には、余り役立つとは思へない。

他方で、ベルクソン(1859-1941)の哲学は、生きるための哲学だと見える。小林秀雄は「私が熟讀した唯一の西洋の大哲學者」がベルクソンだと言つてゐるが、私達が直面する生きた問題について考へるといふ姿勢が、小林秀雄の求めるものに合つてゐたからではないだらうか。ベルクソンは、科学的な決定論と自由意志、心と身体、生物の進化、宗教と倫理などの問題について、深く考へた。現代の人類が直面する問題について考へるヒントを与へてくれる哲学者だと言へるだらう。

科学の動向

科学の進歩は凄まじく、専門の学者でも自分の分野で出される論文を追ひかけるのに必死だといふ程だから、素人で全ての分野の動向を把握することは不可能だ。各種の雑誌、新聞などに掲載される記事に頼るしかない。

幸ひ、インターネットの発達で、(理解できるかどうかは別として)元の論文を見たり、これに関する専門家の意見を調べたりすることは、比較的容易になつた。新聞やテレビで流されるニュースには、誤解や誇張、歪曲も少なくないので、かうした手段を使つて、自分なりに確かめることが大切だ。

いづれにしても、一人の素人の考へに過ぎない。ただ、かうした作業は、誰もが何らかの形でやつてゐることに違ひない。それを体系化といふ形で表すことで何が得られるか、それは、やつてみないと分からない、と言ふしかない。

*1:徒然草』第五十二段