中江兆民にとつての哲学(承前)

兆民の哲学は『続一年有半』で窺ひ知ることができ、唯物論的なものであると書いたが、少し詳しく見ると、単純な唯物論ではないところが面白い。

精神とは本体ではない、本体より発する作用である、働きである。本体は五尺軀である、この五尺軀の働きが、即ち精神てふ霊妙なる作用である。譬へばなほ炭と焰との如きである、薪と火との如きである。(岩波文庫版116頁)

兆民がこの点を強調するのは、精神が死後も残るとの説は人間の身勝手な考へから出たものだといふ思ひが強いからだ。そして、精神よりも物質の方が不朽不滅だと言ふ。次のやうな言ひ方までしてゐる。

釈迦(しゃか)耶蘇(ヤソ)の精魂は滅して已に久しきも、路上の馬糞は世界と共に悠久である、天満宮即ち菅原道真の霊は身死して輒(すなわ)ち亡びても、その愛した梅樹の枝葉は幾千万に分散して、今に各々世界の何処にか存在して、乃ち不朽不滅である。(同112頁)

そして、唯心論者(虚霊派哲学士)が唱へるやうな精神は「言語的泡沫」に過ぎないと言つてゐる。

かう主張しながら、他方で、実証主義(現実派哲学)を批判してゐるのが兆民の特徴と言ふべきだらう。

かく論ずる時は、この一派は極て確実拠(よ)るべきが如くに見えるが、その現実に拘泥するの余り、皎然(きょうぜん)明白なる道理も、いやしくも実験に徵し得ない者は皆抹殺して、自ら狭隘にし、自ら固陋に陥いりて、その弊や大に吾人の精神の能を誣(し)いて、これが声価を減ずるに至るのである、これ正にこの派において放過すべからざる欠失である。(同141頁)

と言ふのも

惟ふに今日世の中の事、必ず目視て耳聴き科学検証を経たるもののみ確実で、余は悉く不確実だといはば論理の半以上は抹殺せねばならぬこととなり、極て偏狭固陋の境に自画せねばならぬこととなる。かつ日常の事、必ずあり得べきもの、または必ずあるべからざるものは、皆直ちに人言を信じて、必しも検証を施さないで、それで己れも許し人も許して、而して真に確実で動かすべからざるものが幾何(いくら)もある。且つたとひ科学の検証を経ずとも、道理上必ずあるべき、またあるべからざる事も、幾何もある。(同142頁)

現実の世界では、実証主義者が言ふやうな科学的検証を経ないものが、正しいと信じられてをり、それで通つてゐると言ふわけだ。さうした例として挙げられてゐるのは、世界に涯てがあるかといふ問題である。

即ち世界が無限であるといふ事の如き、たとひ科学の検証がなくとも限極があるといへば、大変大怪大幻詭であるといはねばならぬ。世界とは唯一の物で、およそ容れざる所ろないもので、有も容るべく無も容るべく、空気も容れ依天児(エーテル)も容れ、太陽系天体も容れ千数太陽系の天体も容れ、もしこの系の外真空界なりとせば、この真空界をも容れて居るはずである。かくの如きものに限極のある道理がない、もし限極ありとの科学の検証があっても信ずべからずではない、何そ現実派の想像に怯懦なるやといはねばならぬ。(同142頁)

別の例として、世界に始めがあるか、といふ問ひも取り上げられてゐる。

またこの無限無極の世界が何らかの原因ありて、無中に有とせられて即ち創造せられて出来たといはば、たとひ千百科学の検証ありても信ずべきでない、吾人がしばしば論じた如く、無よりして有とは道理においてあるべきではない。故に世界が今日の状を為す前には、何の状を為したかは知れないが、とにかく何らかの状を為して居たには相違ない、畢竟創造せられたものではなく、固より無始のものでなければならぬ。(同143頁)

上記のやうな議論は、本職の哲学者からすれば、「突つ込みどころ満載」だらう。カントの『純粋理性批判』も読んでゐないのか、と言ひたくなりさうだ。しかし、兆民はフランスの哲学の教科書を翻訳して『理学沿革史』を書いた時には、確かにカントについても読んでゐる。

カント以爲ラク是等相容レサル諸種リテ所以他無吾人心中自ラサルノ理有ルガメニシテレヲチニ事物中リトスニ此一念畢竟妄タルヲレストナレハ吾人智慧固有構造有リテヨリ事物本體交渉有事無レハナリ(『理学沿革史 下』国立国会図書館版 648-649頁)

翻訳ではなく自ら著した『理学鉤玄』でも、同様の記述がみられる。にも拘はらず、まさにここでカントが批判してゐる、心の中の論理をそのまま世界に適用するといふ行ひをしてゐるのだ。

その真意がどこにあるのか、幸徳秋水の序文にあるやうに「わづか十日か二十日の間に、病苦をしのんで大急ぎで書き上げねばならぬ」といふ状態で書かれた文章であるため、知ることは難しい。

『続一年有半』は、次のやうな文章で終へられてゐる。

かくして道徳論理と順次論道すべきはずではあるが、元これ組織的に哲學の一緒を編するのではない、組織的に一書を編するのは、著者今日の境遇の容るさざる所ろである、故に首章より輒(すなわ)ち雑乱を極めて居る。但大体趣旨とする所ろは、神の有無、霊魂の滅不滅、世界の有限無限、及び始終ありやなきや、その他無形の意章*1等、古来学者の聚訟(しゅうしょう)する五、七件を把て意見を述べたに過ぎない。他日幸にその人を得てこの間より一のナカヱニスムを組織することがあるならば、著者に取て本懐の至りである。(岩波文庫版174-175頁)

 

 『一年有半・続一年有半』は、岩波文庫に詳しい註を付した本がある。光文社の古典新訳文庫には、現代語訳もあるが、やはり原文で読みたい。

*1:「意章」はidéeの訳語である。