『旧約聖書』の読み方

France Cultureのラジオ番組Chemin de la philosophie(哲学への道)で、先週は『旧約聖書』に関する4つのテーマを放送してゐた。『旧約聖書』についての知識を殆ど持たない身には興味深い話ばかりだつたので、メモして置く。

第1回は「アブラハムと犠牲、神と交渉できるか」といふ題で、Delphine Horvilleur氏が話をした。フランスで三番目?の女性ラビだといふ人。

神との交渉といふのは、「創世記」第十八章に出て来る話で、神がソドムの街を滅ぼさうとした時、アブラハムが「善人も悪人も一緒に滅ぼされるのか、もし街に五十人の善人がゐたとすれば、その五十人に免じて街を許されないのか」と問ふところから始まる。神は、五十人の善人がゐれば全て許さうと応へるのだが、アブラハムは更に、「もし五十人が五人欠けたら、五人が欠けたことで全ての街を滅ぼされるのか」といつた調子で神との交渉を続け、つひには十人の善人がゐれば街を許すところまで神に認めさせる。Horvilleur氏は、この交渉の際にアブラハムは立つてゐたことを指摘してゐた。神の前に立つてゐたアブラハムは、近寄つて上記の交渉を始めるのだ。ユダヤ教では神の前にひれ伏して祈るのではなく、立つて祈るのださうだ。

アブラハムはいつでも神に逆らつてゐるのではない。老いた妻(90歳!)との間にやつと生まれた子イサクを捧げよと言はれた際には、言葉の通りに祭壇で我が子を殺さうとする。「創世記」第二十二章のこの場面は、解釈が重要だと言ふ。Horvilleur氏によれば、ラビの学校では、先づ、聖書を文字通りに読むといふのは間違ひだと教へられるのださうだ。そもそも聖書は多様な解釈ができる言葉で書かれてゐる。イサクを犠牲に捧げよといふ神の言葉も、「高きに登らせよ」といふものであり、アブラハムのやうに犠牲に捧げるといふ意味に取れる言葉だが、イサクの独立を促すものとも取れるやうだ。これに関連して注目すべきなのは、イサクの代はりにアブラハムが捧げるのは、通常の子羊ではなく、藪に角をひつかけてゐた牡羊だといふ点だと言ふ。神の使ひがアブラハムの名を二度呼ぶのも重要で、二度目に呼ばれるアブラハムはそれまでとは違ふ新しいアブラハムであると解釈される。

聖書には様々な解釈が可能であることに関連して、ヘブライ語では「顔」といふ言葉は複数しかない、といふ話も面白かつた。表情は多様なものであることが前提となつてをり、一つの表情に固まつたのが偶像であり、仮面の神なのださうだ。

また、第十八章の冒頭で、アブラハムが三人の客を迎へる場面では、神が現れてゐるのだが、それを差し置いてアブラハムは客を迎へてゐる。これは三人が神の使ひだから、といふ解釈もできるが、砂漠のやうな厳しい環境では、客を歓待することが重要であることを示すとも言ふ。迎へてゐる場所がテントであることから分かるやうに、アブラハム自身も旅路にあるのだ。アブラハムは、ユダヤ教キリスト教イスラム教で父祖とされる人物だが、神のお告げに従つて、父親の家を出た人物である。ヘブライとは渡る人といふ意味でさうだ。アブラハムは、親の地を離れ約束の地を求めて、過去の自分を離れ新しい自分を求めて、常に途上にあるのだ。常に自分は異国にゐると感じる人だからこそ、客を迎へることができるのだ。

第2回の題は「アダムとイブは一人だつたのか」で、Catherine Chalierといふ人が話をしてゐる。よく分からないところが多かつたのだが、確かに「創世記」第1章では男と女は同時に作られたと書かれてゐる。よく知られたアダムの肋骨からイブが作られたといふ話は、第2章にある。両者の関係をどう解釈するか、といふ点はよく分からなかつたが、神による世界の創造は全て言葉による、創造は昼と夜、空と海のやうに世界を分けることから始まる、動物や植物は種として作られたが人は単一である、など興味深い指摘があつた。(続く)