2) ロラン・バルト「表徴の帝国」 Roland Barthes, l'empire des signes
3) 宮崎 穏やかな世界の裏側 Miyazaki, l'envers du monde paisible
4) 日本の哲学はあるのか Y-a-t-il une philosophie japonaise ?
若い頃からの、長い賣文生活を顧みて、はつきり言へる事だが、私はプロとしての文士の苦樂の外へ出ようとした事はない。生計を離れて文學的理想など、一つぺんも抱いた事はない。書いて來たのは批評文だから、その形式上、高踏の風を裝つた事はあつたが、私の仕事の實質は、手狹で、鋭敏な文壇の動きに接觸し、少數でもいゝ、確かな讀者が、どうしたら得られるかといふ努力の連續であつた。從つて、私には、文壇とか純文學とかいふ言葉を、世人に同じて輕んずる事が出來ないのである。
This book is about practice of consciousness study but would also be a best start point for theorists: intothegrayzone.com
思考を脳の単純な機能とし、意識状態を脳の状態の付随現象と考へる場合でも、思考の状態と脳の状態を一つの原文の二つの異なる言語による翻訳と考へる場合でも、動いてゐる脳の中に入り込んで脳の皮質を構成する原子の相互作用に立ち会ふことができ、合はせて生理心理学の鍵を持つてゐれば、対応する意識の中で起こる全ての詳細を知ることができるといふことが、原理として置かれてゐる。
実のところ、哲学者も科学者と同様に、これを受け入れてゐるのが普通である。しかし、先入観なく事実を調べると本当にこの種の仮説が示唆されるのかを問ひ直す余地があるだらう。意識の状態と脳の間に緊密な関係があることは議論の余地がない。しかし、フックとこれに掛けられた上着との間にも密接な関係がある。フックを抜けば上着は落ちるのだから。さうだからと言つて、フックの形が上着の形を描き出すとか、そこから上着の形について何らかの予想ができると言へるだらうか。同様に、心理的な事実が脳の状態に掛かつてゐることから、心理的な流れと生理的な流れとの「並行性」といふ結論を出すことはできない。哲学が科学の成果に依拠してこの並行説を主張する際には、全くの循環論法に陥つてゐる。科学が、密接な関係といふ事実を、並行説といふ一つの仮説(意味が分かり難い仮説だが)の方向に解釈するのは、意識的にせよ無意識的にせよ、哲学的な理由からなのだから。
以前、正しさについて考へた時には、次のやうに書いた。
「物事の正しさはどうすれば分かるか。正しいとは、現実に即してゐること、規則に従つてゐることだ。自然科学的な正しさと倫理的な正しさの二つを区別して考へるのが良いだらう。」
しかし、ここでは現実の世界で大きな問題となる正しさが抜け落ちてゐた。自然科学的に確認できる正しさでも倫理的な規範でもない正しさ、具体的には、人間の社会で起きている出来事を正確に表現するといふこと、言はば人文科学的・社会科学的な正しさである。
この抜け落ちに気づいたのは、昨今のpost-truthの風潮からである。post-truthとは、ウェブの辞書に依れば、次のやうな意味だ。
"Relating to or denoting circumstances in which objective facts are less influential in shaping public opinion than appeals to emotion and personal belief."
https://en.oxforddictionaries.com/definition/post-truth
世論の形成には、事実が何かよりも感情的な訴への方が重要である、そんな政治状況を形容する言葉といふ訳だ。
世の中は複雑で、「群盲象を撫でる」ではないが、社会に関するどのやうな言説も一面的であることを免れない。また、政治に宣伝は付き物で、自らに都合の良いことを強調し、さうでないことは無視するといふのは、大昔からあるやり方だ。これらの事情は昔から変はらないのに、今の時代にpost-truthといふ言葉が出てきたのは、「象」が巨大化した、あるいは、事実と政治宣伝との乖離がかつてないほど大きくなった、といふ現状があるからだらう。
先づ、現実が複雑になり、事実を確認するための手数が増えてゐることが、post-truth時代がやつて来た原因の一つとして挙げられるだらう。タックスへイブンを利用した節税・脱税などは典型的な例である。専門家である先進国の税務当局の力を以てしても、その実態の解明は容易ではない。「パナマ文書」のやうな関係者の機密文書が表に出てきて、初めて解明が進むといふのが実情だ。
また、自然科学が対象とする事象とは違つて、人文・社会的な事象では実験といふ手段が使へない場合が多い。歴史的な事実を確かめるといふ場合などは、その典型だ。かうした状況では、どれだけ証拠が集められるかが重要だが、利害関係者は不利な証拠の湮滅を図るので、容易ではない。様々な理由から、虚偽の証言も多い。国際関係が複雑化し、利害が錯綜すると、事実の解明はさらに困難となる。だから教科書に何を書くかが国際問題となる。
他方で、インターネットやSNSが事実と政治宣伝の乖離の大きな原因であることは言ふまでもない。情報発信のコストが非常に小さくなつたため、誰でも「情報」をバラ撒けるやうになつた。かつては出版社や放送局などの専門的な組織を経由してゐたので、組織の信用を維持するためにも、事前にある程度の事実確認作業が行はれてゐた。インターネットの場合には、それが皆無に等しい。「いいね」などの社会的な評価がそれに代はる役割を果たすと期待されてゐたのだが、同じ意見の人達が集まつて盛り上がるといふSNSの場では、さうした監査機能は働かない。中身は流言飛語に異ならず、むしろ、多数に支持されてゐるので自分の意見はやはり正しい、といふ非論理的な信念を助長してゐる。
しかし、問題はそれだけではない。出版社、放送局といつた既存の情報伝達機関でも、チェック機能が低下してゐる。実は、インターネットの普及が広告や読者を奪ふ形でこれらの機関の力を弱めたので、これもインターネットの弊害の一つだと言へるだらう。また、日本の場合には、改革の名の下に政府の交付金が削減され、競争的資金を獲得するために目先の研究で忙しく、大学の基礎的な体力が弱つてゐることも見逃せない。対象となる事象が複雑化する一方で、それを解明する役割を担ふ組織が弱体化してゐては、何が正しいかが分からなくなるのは無理もない。
このやうな困難を考へると、人文・社会的な事象に関する事実が確定できるといふのは、極めて幸運な場合に限られると言ふべきかも知れない。関係者の事実を突き止めようといふ姿勢、それぞれの利害を超えた協力が無ければ、何が正しいかを定めることはできないのだから。さらに言へば、一度確立した正しさが、その後も維持されるとは限らない。正しさを示す証拠が保存され、次の世代でも尊重されなければ、消えてしまふ恐れがある。
しかし、政治的な宣伝の如何に係はらず、事実は厳然とある。それは、例へば、EU離脱を決めた英国国民が身に沁みて感じ始めてゐるところだらう。正しさを見極める努力は、自らの身を守り、子や孫の行く末を確かなものにするために、欠かせないのだ。