クオリア

何故クオリアが問題になるか。

人間に与へられたものが、質的に異なるものであることは確かである。
さうでなければ、それをものとして区別することができなかつただらう。
量の違ひとして捉へられるものもあらうが、質の違ひは欠かせない。

であれば、それぞれの知覚が固有の質を持つて現れることには何の不思議
もない。むしろ、それは必要条件である。

それがあたかも大問題であるかのやうに語られるのは、神経内を伝はる
信号こそが知覚だといふ前提を持つからではないだらうか。何故同じ
電気的化学的信号なのに、視神経を伝はると物が見え、聴覚神経だと
音が聞こえるのか。

しかし、それは現象の一部だけを取り出すからだ。視神経は眼と視覚中枢を
結ぶからこそ視神経なのであり、それが聴覚中枢につながつてゐれば、聴覚
神経になる。実際に、神経の混線が起こると、数字に色が付いて見えたり、
音を聞くと色を感じたりする。

勿論、かうした説明で全てに答が出せる訳ではない。何故、赤は赤で、青と
違ふものなのか。何故、あのやうな赤なのか。この問への答はない。少し
先まで説明を進めたとしても、最終的には、「さうなつてゐるから」と言は
ざるを得なくなる。しかし、これはこの問題に限つた話ではない。