知覚はどこにあるか

科学者には、知覚は脳内の現象であり、例へば私の見てゐる茶碗は目の前の卓の上にあるのではなく、私の脳の中にある、と主張する人がゐる。しかし、これは誤りだと思はれる。この誤つた前提から、「脳内の現象から、何故、どうやつて色彩豊かな世界が構築され得るのか」といふ疑問が生まれる。つまり、この疑問は「偽の問題」である。以下の文章では、それを示したいと思ふ。

 

(この文章は、ベルクソンの『物質と記憶』を踏まへて書いた。同書の主張の忠実な展開であると信じるが、誤解や曲解があれば、ご教示を乞ふ。)

 

1.知覚は、知覚者の身体と記憶、それに知覚の対象物が係はる複雑な現象である。

 

私が茶碗を見てゐる。目を閉じると、茶碗は見えなくなる。視神経の一部を破壊しても見えなくなる。茶碗を隠しても見えなくなる。これらの事実から導かれる単純な結論は、茶碗が見えるといふ現象には私の眼や視神経、そして茶碗が係はつてゐる、といふことだ。さらには、私達の記憶も視覚に影響を及ぼす。

 

茶碗で反射された光が私の眼に入る。網膜に映つた二つの倒立像は、視神経を経て脳内で処理され、私には一つの正立像として見える。見えにくい時には、私は近づいたり、横から眺めたりし、手を伸ばして触れてみたり、手に取つて眺めたりする。それが由緒ある茶碗であれば、以前に見た他の茶碗と頭の中で比べてみることもあるだらう。

 

知覚は、知覚者と対象の双方が関係する現象であり、その現れは空間的にも時間的にも広がりを持つてゐる。例へば、脳のやうな一部の物質内に知覚があるとするのは、誤りである。そもそも、知覚は知覚者が対象に働きかけるために発達した機能である。それが可能なのは、この機能が主体と客体の双方を巻き込んでゐるからではないだらうか。

 

2.何故、脳内現象だといふ議論が出るのか。

 

では、何故、頭脳明晰な科学者達の間に、知覚は脳内現象だ、といふ議論が出るのだらうか。

 

1)知覚は、主観的な現象でもあること
私の見る茶碗は、私の視点から見た茶碗であり、他の人の見る茶碗とは異なる姿をしてゐる。また、私が目を閉ぢ、私の視神経が傷ついた時に、茶碗が見えなくなるのは私であり私だけである。さらに、素人の私が見るのと目利きが見るのとでは、同じ茶碗でも、そこから得られる情報には格段の差があるだらう。従つて、知覚は個人に依存した現象である。
しかし、以上の事実は、知覚が私に閉ぢた現象であることを意味しない。

 

2)夢で物が見えること
夢については分かつてゐないことが多いが、物が見える夢を見ることは多い。そこには外界の対象物はないので、身体と記憶があれば物は見えるといふ考へが出て来る。
しかし、夢で物を見るのは、通常の物を見るといふ経験に比べて曖昧で、質の低いものであることも確かである。両者の差はどこにあるのか、これを検討することは物が見えるといふ現象について考へる有用な手順の一つとなるだらう。

 

3)脳を刺激すると物が見えるといふ実験結果があること
夢とは別に、脳を刺激した場合に物が見えるといふ実験がある。これも、夢の場合と同様に、通常の経験とどこまで同じでどこが異なるかを分析すれば、面白い結果が得られるかも知れない。

 

4)研究の対象として脳は面白い対象であること
目を閉ぢたり、茶碗を隠したりすると茶碗が見えなくなることは当たり前で、研究の余地は無いと思はれる。他方、脳は複雑な器官で、研究手法も多様にあり、科学者の研究の種に事欠かない。

 

以上のやうな理由で、知覚は脳内現象だと考へられてゐるのではないだらうか。しかし、夢や脳への刺激で物が見えるといふ経験と、通常の物の見え方とは大きな違ひがある。前二者については、言はばつかみ所のない経験である。それに対して通常の物は、その見える場所に行き、手に触れることもできる。この違ひは、知覚の対象が実際に与へられてゐるかどうかに起因すると考へて良いだらう。

 

3.知覚はどのやうにして生じるか。

 

この問題を考へる際には、ロボットと生物の比較や生物の進化に伴ふ知覚の変化についての考察が有用だらう。ロボットには知覚があるか。ここでは、ロボットは外界の刺激に対して反応はするが、知覚は持たない、といふ前提で議論を進める。なほ、以下に示すのは単なる作業仮説であることをお断りしておく。

 

1)知覚は世界そのものではない。世界を対象化する力である。
知覚は世界を映してゐるが、世界そのものではない。だからこそ、錯覚といふものが生じる。知覚とは、世界を対象として捉へる力である。知覚は、世界を自分と関係してはゐるが、離れてゐるもの、別のものとして扱ふ力である。逆に言へば、知覚とは、自分を世界とは別のものとして捉へることである。さうした力を有する身体を持つたものとして私達は生まれてゐる。

 

2)知覚は判断を求められる場合に生じる。
身体は対象に働きかける。その働きかけは自動的な場合もあるが、知覚が必要なのは、判断が求められる場合だらう。最初に判断力を持つた生物の判断とは、どのやうなものだつたのだらうか。

 

明るい方向に進む性質が生存に有利な場合、明るさをより正確に知覚する方向に進化は進むだらう。眼がさうした機能を実現する。しかし、複雑な視覚だけであれば、ロボットでも持つてゐる。知覚のためには、世界の動きから一時的に自分を切り離す力、ある種の判断停止、あるいは反応停止、真の意味での時間的に世界を超える力が必要だと思はれる。ベルクソンの言ふ durée だ。

 

3)意識的な生物の戦略
さうした現在から一時的に離れて判断を行ふ力を備へた生物は、どのやうにして知覚を持つのだらうか。自分が受けてゐる現在の刺激、それは自分の身体の状態によつて知られるのだが、この状態をしばらく保存して、働きかける対象を良く見ようとするだらう。また、眼に映る像といふ一次情報を加工して、行動を決めやすい形にするだらう。二つの眼に映つた倒立像ではなく、実際の世界に対応した三次元の姿を示すだらう。

 

この作業は、実際の世界に、その場所から得られた知覚を「貼り付ける」といふ形で行ふのが合理的だと思はれる。一度貼り付けられた知覚は、新しい刺激が入つて来るのに応じて更新される。私達の見る世界は、かうした作業の結果作られた姿ではないだらうか。

 

この考へ方が正しければ、ベルクソンが「イマージュ」は脳内にあるのではなく、それが知覚される場所にあるのだと主張したことには、一理ある。知覚は主体と客体の双方を含んだ現象だが、その結果生じる画像は、その対象物があると見える場所に形成される。それが、対象物に働きかけるのに便利だからである。