覚えてゐるとは

哲学者達が好んで提出する疑問に、覚えてゐるといふのは何を覚えてゐるのか、といふものがある。一人の人間でも、正面を向いた顔もあれば横顔もあり、笑顔や泣き顔、走る姿や座り込んだ様など、千変万化である。そのどれを覚えてゐるといふのか。

これは、単純な唯物論者たちの、写真が印画紙に写し取られるのと同じやうに、人間が物を記憶するのだと考へることのをかしさを突かうとした議論だ。

すでにベルクソンも指摘してゐたことだが、覚えるといふことにもいくつかの種類、段階を区別することができる。中年以降の日常的な経験でも、顔は分かるのだが名前は思ひだせないといふことがよくあり、さうした場合でも、名前を言はれれば、確かにさうだつたと分かる(やうな気がする)のだ。

心理学者は
感覚記憶と短期記憶、長期記憶
手続的記憶と宣言的記憶
エピソード記憶意味記憶
のやうな区別をしてゐる。

このほか、記憶の処理の段階を区別する議論もある。状況によつて何が強く記憶に残るかが異なるといふ研究もある。

かうした記憶は、脳やその他の体の部分の変化の形で記録されると考へられるものと、さういふ考へ方ではうまく説明できないと思はれるものに分かれる。後者の典型がエピソード記憶だ。それには過去といふ消すことのできない印がついてゐる。身についた記憶とは違つて、そのものとしては現在に直接働きかける力を持たないが、我々の性格の基礎となり、思ひ出として残る。この区別はベルクソンに拠るが、現在でも意味を失つてゐないのではないか。