桶谷秀昭『昭和精神史 戦後篇』
最近の文部省の漢字制限或は新假名づかひの問題について、私は屡々(しばしば)人から意見を訊ねられるのですが、私は、まつかうからこれに反對する理由を持つてゐないから反對はしないまでだ、日本の言葉の難しさから來る學生の負擔を幾分でも輕くしようとする仕事に、反對する理由はない。併し、さういふ運動の合理性の陰に、まことに輕薄な精神が隱れてゐる事を私は嗅(か)ぎつけてゐる。それが、今申した technique と culture との混同である。文部省のお役人は、おそらくエンヂンを治す樣な手つきで、國語の修正をやつたのでありませう。恐らく、現代日本語を易しくすれば、日本歴史も易しくなると言つた顔附きでやつたでありませう。多くの文學者が、尻馬に乘つて、文學者たる事を止めて、エンヂニアになりました。あわたゞしく、又憐れな敗戰國風景であります。やがて落着く時も來ませう。歴史には歴史の攝理といふものがある。
(第五次小林秀雄全集第九巻148頁)
爾後明治大正にいたるまで、実に十二世紀の長きにわたつて、支那古典文学哲学が男性の必修の教養になり、ヨーロッパの哲学用語も軍事用語も、すべて一旦漢語を濾過して日本人の頭脳や感情を占めるにいたる。単なる純官能的存在としての男性を脱却しようと試みた男は、その行動に於ても、思想に於ても、道徳においても、藝術においても、この日本の大地とは無縁な外来文化にたよる以外に、その表現の方法を見出すことがなかつた。幕末の国学ですら、志士の漢詩による慷慨といふ「自然な」表現形式を駆逐するにはいたらなかつた。そしてつい戦前まで、詩を書く人ときけば、漢詩人と考へて疑はない老人たちが、われわれの周辺に沢山ゐたのである。
これを裏からいふと、わが文学史は、男性の行動や理念のための言葉をほとんど発明しないで閑却し、ただ男性の行動や理念を、消失しやすい行動様式としてのみ美的に磨き立て、母国語の機能を、あげて女性的情操の洗煉に費やした、稀有の文学史だといふことができる。
(『日本文学小史』「第四章 懐風藻」)
終戦時の御製四首は、連作であるが、前半二首は上三句において、字足らず、字あまりが、しらべの上に切迫した感慨をもたらしてゐる。
海の外(と)の陸(くが)に小島にのこる民のうへ安かれとただいのるなり
爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも
身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて
国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり