桶谷秀昭『昭和精神史 戦後篇』

桶谷秀昭『昭和精神史 戦後篇』(文春文庫)を読む。戦前を描いた『昭和精神史』に続く力作だ。現代における精神の荒廃は日本に限つた現象ではあるまいが、この国の場合には、やはり敗戦が暗い影を落としてゐることが知られる。

 

昭和24年の『私の人生觀』で、小林秀雄は、こんなことを言つてゐる。

最近の文部省の漢字制限或は新假名づかひの問題について、私は屡々(しばしば)人から意見を訊ねられるのですが、私は、まつかうからこれに反對する理由を持つてゐないから反對はしないまでだ、日本の言葉の難しさから來る學生の負擔を幾分でも輕くしようとする仕事に、反對する理由はない。併し、さういふ運動の合理性の陰に、まことに輕薄な精神が隱れてゐる事を私は嗅(か)ぎつけてゐる。それが、今申した technique と culture との混同である。文部省のお役人は、おそらくエンヂンを治す樣な手つきで、國語の修正をやつたのでありませう。恐らく、現代日本語を易しくすれば、日本歴史も易しくなると言つた顔附きでやつたでありませう。多くの文學者が、尻馬に乘つて、文學者たる事を止めて、エンヂニアになりました。あわたゞしく、又憐れな敗戰國風景であります。やがて落着く時も來ませう。歴史には歴史の攝理といふものがある。
(第五次小林秀雄全集第九巻148頁)

 

『昭和精神史 戦後篇』では、三島由紀夫が重要な登場人物の一人となつてゐる。私は、この人物がどうにも好きになれないのだが、引用されてゐる以下の文章の意見には、全く同感である。(492頁)

爾後明治大正にいたるまで、実に十二世紀の長きにわたつて、支那古典文学哲学が男性の必修の教養になり、ヨーロッパの哲学用語も軍事用語も、すべて一旦漢語を濾過して日本人の頭脳や感情を占めるにいたる。単なる純官能的存在としての男性を脱却しようと試みた男は、その行動に於ても、思想に於ても、道徳においても、藝術においても、この日本の大地とは無縁な外来文化にたよる以外に、その表現の方法を見出すことがなかつた。幕末の国学ですら、志士の漢詩による慷慨といふ「自然な」表現形式を駆逐するにはいたらなかつた。そしてつい戦前まで、詩を書く人ときけば、漢詩人と考へて疑はない老人たちが、われわれの周辺に沢山ゐたのである。
 これを裏からいふと、わが文学史は、男性の行動や理念のための言葉をほとんど発明しないで閑却し、ただ男性の行動や理念を、消失しやすい行動様式としてのみ美的に磨き立て、母国語の機能を、あげて女性的情操の洗煉に費やした、稀有の文学史だといふことができる。
(『日本文学小史』「第四章 懐風藻」)

 

最終章は、昭和天皇に充てられてゐる。大正天皇漢詩を好まれたやうだが、昭和天皇は、「記録することを禁じられた拘束の中で、感慨を漏らされる唯一の表現形式は、やまと歌であつた。」と桶谷氏は書いてゐる。(509頁)

終戦時の御製四首は、連作であるが、前半二首は上三句において、字足らず、字あまりが、しらべの上に切迫した感慨をもたらしてゐる。

 海の外(と)の陸(くが)に小島にのこる民のうへ安かれとただいのるなり
 爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも
 身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて
 国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり

 

また、氏は、昭和十九年の海上日出と題された御製を引用し、次のやうな解説を付してゐる。
 つはものは舟にとりでにをろがまむ大海(おほうみ)の原(はら)に日はのぼるなり
海上日出」の御製は、ガダルカナル島の血戦以降、南海の孤島でつぎつぎに玉砕してゆく兵士らに想ひを寄せられた祈りの御歌である。「大海の原に日はのぼるなり」といふ下二句の雄大な声調は、いはゆる至尊調の伝統をひくものである。
「をろがむ」は「拝む」である。

 

戦後の日本の歴史に関心を持つ者には、必読の書といふべきだらう。