意識が脳の働きである、とは

U.T.Place"Is Consciousness a Brain Process?"を読む。(David J. Chalmers ed."Philosophy of Mind, classical and contemporary readings" pp.55-60)

意識と脳の働きについて我々が別々の表現を用ゐることは、両者が同じものであることを妨げないことを示す論文である。緑色の残像を見るといふのは、我々の中に何か緑色をしたものがあることを意味するとの考へ方は、"phenomenological fallacy"であり、この種の錯誤が、心の働きの生理学的な説明を実際よりも困難だと思はせてゐると言ふ。また、雷が放電であるといふ例を用ゐて、一般的な観察と科学的な観察の対象が同一であるかどうかは、 後者により前者が直接的に説明されるかどうかで判断されるとの意見を述べてゐる。

1956年の British Journal of Psychology に載つた論文だが、真つ当な議論だと思ふ。問題は、意識が脳の働きによつて十分に説明されるか否かである。Daniel Dennett は、説明できると考へ、Bergson はさうは考へない。

雷=放電の組合せと、意識=脳の作用の組合せは、本当に同じやうに考へることができるのだらうか。Place は、かうした疑問の例として Sir Charles Sherrington の文章を引き、その考へ方が「現象学的錯誤」だと述べてゐる。我々が、緑色の残像が見えるといふのは、普通に緑の光を見た時と同じやうな種類の経験をしてゐると述べてゐるに過ぎない。我々は、実際の環境の中で、実際の物を認識する事を学ぶ。その後で、その物の見かけや臭ひ、味、手触りなどを知るのであり、先づ、物の姿を捉へ、それを分析することでその物が何かを知るのではない、と言つてゐる。

Place 自身は、さう書いてはゐないが、Sir Charles の挙げてゐる、我々の見る物は、外に投影されてゐるといふ事実は、例へば子供が玩具で遊びながら学ぶやうに、実際の経験で外部の物がどう見えるかを知つてゐることに因るのだ、と言ひたいのだらう。

しかし、意識といふ現象は、雷を見聞きするのとは異なる性質を持つたもののやうにも思はれる。言語がさうであるやうに、対象そのものと対象の持つ意味とを区別するやうな、高次の論理的な働きを含むものであり、また、自己言及といふ意味でも、論理的に複雑な構造を持つのではないか。