古代ギリシャ人の意識観

ベルクソンの講義録に、次のやうな一節がある。(COURT IV, Cours sur la philosophie grecque, p.78)

  Les Grecs ont pris une idée, l'ont prise à l'état de pureté, et n'ont plus vu dans la conscience que quelque chose qui en sort par voie de diminution. Car si cette Ideée est la pensée se pensant en dehors du temps, pour passer de l'éternié au temps, il n'y a rien à ajouter, il faut que l'Idée dégénère en image, l'éternité en temps, l'intériorité en extériorité.
  Cela revient à dire que les Anciens n'ont pas attribué à la conscience et à la personne cette dignité éminente que nous leur attribuons. C'est une idée toute moderne que de mettre la pensée personnelle au centre des choses.
 ギリシャ人達は、考へといふものを純粋な状態で捉へてゐて、意識は、そこから衰弱といふ過程を経て出てくるものとしか見てゐなかつた。何故なら、この考へ(イデア)が、時間の外にあつて自らに想ひを巡らす想ひであるならば、永遠から時間へと移るためには、何も加へるものはなく、考へ(イデア)はイメージへと、永遠は時間へと、内面性は外面性へと、堕落しなければならない。
 これは、古代人たちが、意識や個人に、我々が認めるやうな一段高い尊厳を認めてゐなかつたといふことである。個人の想ひを物事の中心におくといふのは、全く現代的な考へである。

 

講義録の編者は、この部分に、「ベルクソンプロティノスの距離を、ベルクソン自身が示した以上に明確に示すことはできまい。」といふ意味の注を付してゐる。しかし、ベルクソンの考へは、本当にプロティノスから遠いところにあつたのだらうか。ここで、本居宣長と『古事記』と同様の関係をベルクソンプロティノスとの間に考へて見ることもできるのではないか。

 

ただ、古代西洋の哲学と日本の神話は、かなり性質を異にする。特に、上に引いた部分でベルクソンが指摘してゐるやうな、永遠の相にあるイデアのやうな考へ方は、日本にはなかつた。むしろ、さうした考へは、本居宣長が「漢心」として批判してゐるものに近いと言へるかもしれない。