見るといふこと

2008年11月20日号の"Nature"誌に、「海生動物プランクトンの走光性の仕組み」(Mechanism of phototaxis in marine zooplankton)といふ論文が載つてゐる(p.395)。動物の眼で最も単純な「眼点」は、1個の光受容体細胞と1個の遮光性色素細胞といふ2個の細胞からなるもので、像を結ぶことはできないが、動物は、これによつて光の方向を知ることができる。この論文は、コンピュータシミュレーションにより、海生の環形動物 Platynereis dumeriliiが、単純な構造の眼点を用ゐて、光に向かふ移動をどのやうに調節してゐるのかを明らかにしてゐる。同誌のウェブサイトにある日本語の要約から、一部を引かう。

 

1個の眼点に選択的に光を照射すると、コリン作動性神経の直接支配によって周辺の繊毛の動きが変化し、その結果、局所的に水流が減少する。幼生の泳ぎのコンピューターシミュレーションによって、らせん状の遊泳軌道を光に向かわせるには、このような局所的な作用だけで十分なことがわかった。また、このコンピューターモデルから、走光性には幼生の体の軸回転が不可欠であることと、らせん状の動きが進路決定の精度を高めていることもわかった。これらの結果は、海生動物プランクトンの走光性の仕組みを、我々の知るかぎりで初めて解明したものであり、単純な眼点がどのように走光性を制御しているかを示している。この仕組みの基盤となる光の感知と繊毛運動制御との直接的な結びつきは原始の眼の重要な特徴であり、このような結びつきは動物の眼の進化における画期的な出来事だったと考えられる。

 

光の感知と運動制御の直接的な結びつきが原始の眼の重要な特徴であり、これが眼の進化において画期的な出来事だつた、としてゐるが、かうした見方では、感知と運動が別になつた進化した動物の在り様が前提とされてをり、両者がどのやうに結び付くのか、といふ問ひが筆者の心の中にあるやうに思はれる。言葉を変へれば、なぜ物が見えるのか、といふ問ひだ。

 

しかし、ベルクソンが『物質と記憶』の第1章で言つてゐるやうに、下等な生物においては、感知と運動とは一つのことであり、それが高等な生物になるにつれて、分化した複数の細胞、複数の器官により、専門的に担はれるやうになつた、と考へるべきだらう。

 

さらに、この感知と運動との密接な結び付きは、人間においても維持されてゐる。メルロ=ポンティは、『知覚の現象学』の中で、人間の正常な知覚と病的な知覚とを比較して、かう書いてゐる。(Phénoménologie de la perception, P.150)

 

Si, comme le reconnaît Goldstein, la coexistence des données tactiles avec des données visuelles chez le normal modifie assez profondément les premières pour qu'elles puissent servir de fond au mouvement abstrait, les données tactiles du malade, coupées de cet apport visuel, ne pourront être identifiées sans plus à celles du normal. Données tactiles et données visuelle, dit Goldstein, ne sont pas chez le normal, juxtaposées, les premières doivent au voisinage des autres une «nuance qualitative» qu'elles ont perdue chez Schn. C'est dire, ajoute-t-il, que l'étude du tactile pur est impossible chez le normal et que seule la maladie donne un tableau de ce que serait l'expérience tactile réduite à elle-même. La conclusion est juste, mais elle revient à dire que le mot «toucher» appliqué au sujet normal et au malade, n'a pas le même sens, que le «tactile pur» est un phénomène pathologique qui n'entre pas comme composante dans l'expérience normale, que la maladie, en désorganisant la fonction visuelle, n'a pas mis à nu la pure essence du tactile, qu'elle a midifié l'expérience entière du sujet, ou, si l'on préfère, qu'il n'y a pas chez le sujet normal une expérience tactile et une expérience visuelle, mais une expérience intégrale où il est impossible de doser les différents apports sensoriels.

ゴルトシュタインが認めてゐるやうに、健常者では、触覚データと視覚データの共存により、前者が変質して抽象的な運動の背景となつてゐるのだとすれば、患者の触覚データは、この視覚の貢献から切り離されてをり、健常者のものとは同一視できないだらう。ゴルトシュタインは、触覚データと視覚データは、健常者においては並存してゐるのではなく、前者は、後者と隣接することで、Schn(患者の名前)が失つた「質的なニュアンス」を得るのだ、と言ふ。 これは、純粋な知覚の研究は、健常者では不可能であり、病気だけが、触覚それ自体の経験といふものの姿を示すといふことだ、と彼は付け加へる。結論は正しいが、すると、「触覚」といふ言葉は、健常者に用ゐた場合と患者に用ゐた場合とでは、意味が異なることになり、「純粋な触覚」は、病的な現象で、正常な経験に要素として含まれるものではなくなり、病気は、視覚機能を解体することで、触覚の純粋な本質を明らかにしたのではなく、主体の経験全体を変へたことになる。健常な主体には、触覚の経験や視覚の経験といふものは無く、統合された経験だけがあつて、そこへの感覚的な寄与を定めることは不可能なのだ、といふ言ひ方もできよう。

 

知覚といふものを科学的に知るためには、かうした基本的な部分の検討が欠かせないと思はれる。これなくして、細胞の構造や神経の繋がり具合のやうな細部をいくら掘り下げても、見るといふことの本質は掴めまい。